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「科学的社会主義」討論欄

反戦反ファッシズム連合さんへ(ローザの予言は当たったのか、外れたのか。

2006/03/21 風来坊 50代 自営業

 ローザの不安、予言は、残念な事に当たったと言わざるを得ない。

 レーニンとトロツキーは普通選挙によって選出された代議体の代わりにソウ゛ェトを労働者大衆の唯一の真の代表機関であるとした。しかし全国の政治生活が抑圧されるのに応じて、ソウ゛ェトの中の生活力もますます衰えていくに相違ない。
 普通選挙、無制限な出版、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活になり、そこには官僚制だけが唯一の活動的要素として残ることになろう。
 公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義をもった数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の十人位の傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリートが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために、時折会議に召集される、ということになろう。
 このローザの批判から逸脱している部分に関しては、、スターリンニズムの責任だという反戦反ファッシズム連合さんの意見も納得できるのですが、しかしこの批判の範囲の問題に関しては、レーニン=トロツキー理論に問題があるというのは当然の論理的帰結ではないでしょうか。崩壊したソ連、東欧の実態は、正にローザの危惧していた通りになってしまったのですから。
 以下は前回、民主主義論の問題で省略した部分です。
 ボリシェビキたちも、世界大戦、ドイツ軍による占領と、それに結びついた一切の異常な困難という拮抗の下に苦しむということがなかったならば、確実にそうしたことであろう。これらの困難が、最善の意図とこの上なく美しい原則にみちた社会主義の政策の全てを歪めずにはおかないのだ。
 その何よりの証拠が、ソウ゛ェト政府による度重なるテロルの使用であって、しかもとくにドイツ帝国主義の崩壊の直前の時期に、ドイツ大使に対する暗殺をはじめとしてテロルが行われているのである。(注ドイツ大使の暗殺は、SL)
 革命が、バラの水によって洗礼されるものではないという常識は、それだけではかなり不充分だ。
 ロシアで起こっていることは、全て理解できることであって、ドイツのプロレタリアートの沈滞とドイツ帝国によるロシアの占領が出発点と終点をなす因果の鎖に不可避的に繋がるものである。
 このような状態の下で、なおレーニンとその同志たちが最上の民主主義を、模範的なプロレタリア独裁と花咲く社会主義経済を魔法で呼び出すことを期待するとすれば、それらは彼らに超人的なことを求めるに等しい。
 彼らはその断乎とした革命的な態度と、模範的な行動力と国際社会主義に対する、断乎とした忠誠によって、このとてつもなく困難な状況の下でも、為すべきことを実際十分に果たしてきたのである。
 危険は、彼らがやむを得ずやった事を、価値あるものとし、この宿命的な条件の為にとらざるを得なかった戦術の全てを、今後理論的に固定化し、国際的なプロレタリアートに社会主義的な手本として見習う事を、勧めようとするところに始まる。
 その事によって、彼らは全く不必要なことに、自分で自分の志を遮って、自分達の真の、争う余地のない歴史的な功績を、やむを得ざる失敗の陰に隠す事になる。
 また同様に、もし、彼らが、ロシアにおける苦難によって生じた、究極的には今次大戦における、国際社会主義の破産の余波に他ならなかった歪みの全てを、新しい認識として、国際社会主義の武器庫に加えようとすれば、彼らがその為に正に苦闘した国際社会主義に対して、有害な働きをする事になるのだ。
 ドイツの政府派社会主義者たちが、ロシアにおけるボリシェウ゛ィキの支配は、プロレタリア独裁の戯画だと叫ぶなら叫ぶがよい。もし、それが戯画であったか、あるいは戯画であるとすれば、それは正に、社会主義的階級闘争の戯画であったドイツプロレタリアートの態度が生み出したものに他ならないのだ。
 我々は全て歴史の法則の下にあり、社会主義的な政策は、正に国際的にしか貫かれない。ボリシェウ゛ィキは、真の革命政党が歴史的な可能性の限界の中で、なし得る限りの事は全てやり得る事を示した。
 彼らは奇跡を起こそうとすべきではない。何故なら、孤立し、世界大戦で消耗し尽し、帝国主義によって絞め殺され、国際プロレタリアートによって裏切られた国で、模範的な、完全無欠な革命をやる事は、一つの奇跡であろうからだ。
 肝心な事は、ボリシェウ゛ィキの政策の中の、本質的なものと、非本質的なものを、核心に属するものと偶然的なものを見分けることである。
 全世界における決定的な最終闘争を眼前にした、この最後の時期において、社会主義の最も重要な問題、正に目下の焦眉の問題は、戦術のあれこれの些細な問題ではなく、プロレタリアートの行動能力、大衆の革命的な行動力、社会主義全体の権力への意思である。
 この意味で、レーニン、トロツキーとその友人たちは、世界のプロレタリアートに身をもって範を示した、最初の人達であり、今に至るもなお、フッテンと共に、次のように叫ぶことができる、唯一の人達なのである。「われ、それを、敢行せり!」と。
 これこそが、ボリシェウ゛ィキの政策の本質的なものであり、不朽のものである。政治権力を握り、社会主義の実現という、実践的な問題を提起をすることによって、国際プロレタリアートの先頭に立ち、資本と労働との間の対決を、全世界的に強力に押し進めたというその意味で、彼らの不滅の歴史的な功績は、後世に残るものである。
 ロシアでは、問題を提起する事しかできなかった。問題はロシアでは解決され得なかった。それは国際的にしか解決されない。そしてこの意味では未来派いたるとこれで、「ボリシェウ゛ィズム」のものなのである。(ロシア革命論)

 ロシアで起こっている事は、全て理解できる事と評価し、これが国際的な規範化されるのを防ごうとした。
 ところがその後、中央集権化は益々強化されて行った。そして、国際的な規範として、一般化されていった。
 1921年3月16日、「党の統一に付いて」の決議がレーニンの緊急動議の形で提出された。その第7項「フラクション禁止」規定
 レーニンはこの規定によって、党内での、批判の自由の実質的抑圧に決定的一歩を踏み出した。しかし、レーニンは、この第7項は、大会以外へは、公表を禁じ「秘密条項」とするよう提起した。
 この第7項の内容は、「党内に、また、ソウ゛ィエトの全活動の内に厳格な規律を打ち立てる為、また、あらゆる分派結成を排除して、最も大きな統一を成し遂げる為に、大会は、規律違反とか、分派の発生の黙認とかの場合には、党からの除名を含むあらゆる党処罰の処置をとり、また、中央委員については、中央委員候補に格下げするとか、非常処置としては、党から除名さえする全権を中央委員会に与える」とするものだった。
 つまり、党大会で選出され、従って大会でしか、格下げ、除名できない中央委員に対する処分権を中央委員会に与えるという規定だったのです。
 この規定によって、レーニンは、党内民主主義を抑圧する道を切り開いた。
 スターリンは、レーニン死後、この「秘密条項」を解禁し、それによって、この規定は、「公然とした恒常規定」となり、政敵排除に活用され、更に中央委員会に全権委譲され、挙句の果ては、スターリン支配化の書記局に全権が集中されて行ったのです。
 私はレーニンを全面的に否定しているわけではありません。ですから、今後も、この投稿においても、レーニンの引用が度々あると思います。
 しかし、レーニンの組織論と民主主義論に関する見解だけは、全面的には受け入れる事はできません。