ドイツで憲法制定議会及び反動的な労働組合への参加に
反対したラデック、パウル・フレーリヒ、ユリアン・ボルハル
トらは、ナロードニキやブランキストではありません。
1918年ヨッフェ大使以下のソヴェト使節団が、11月初めに国
外退去を命ぜられた後、ソヴェト政権が、第二革命の応援のた
めに派遣したのが、ラデックです。
また、ドイツ共産党設立大会のボリシェビキの公式使節団長
もラデックです。
だいたい、1916年9月の社会民主党全国協議会での正式決議
に反対するハーゼ・レーデブルの提案が276票対169票で否決さ
れ、1917年1月7日のその反対派の全国協議会の72選挙区157人
の代議員の内、スパルタクス団34名、ラデック派6名という力
関係の中で、ラデック派のように社会平和主義者との同盟を拒
否し、社会愛国主義と同時に社会平和主義者とも仮借なく戦お
うとするのは、一揆主義としか言いようがない。
しかも、このような力関係の中で、ラデックとローザの長年
の確執を考えるとソヴェト政権がラデックを派遣したのは、極
めて不適切な人選と言わざる得ない。
私は、レーニンの「共産主義における「左翼」小児病」は、
ラデックらを批判したものだと思います。