ブルジョア社会の歴史の上で法律による改良は、上昇しつつ ある階級が、政治権力を奪取し、新たな法制を打ち立てる為に 、現存の法律制度を打ち壊すことが出来るほど、充分に成熟し たと自覚するように成るまでの間、その新興階級の勢力を斬進 的に強化するのに、役立ってきたものである。
政治権力の奪取を、ブランキ主義的暴力説であると罵るベル ンシュタインには、数百年このかた人類史の要点となり、原動 力となっているものを、ブランキ主義的誤算であると、思って しまうような困ったことが起こるのだ。
階級社会が発生し、階級闘争がその社会の歴史の本質的内容 をなすようになってから、政治権力の奪取は常に新興の階級の 目的であり、またそれはそれぞれの歴史的時期の画期をなすも のだった。
われわれは、この事を、古代ローマの農民階級と貨幣資本及 び貴族との間の長期間に亘る闘争の内に、また中世都市の貴族 階級と司教との、また手工業者階級と都市貴族との間の闘争の 中に、近代のブルジョアジーと封建制度との間の闘争の中に見 出す。
法律に依る改良と革命とは、それゆえ、歴史の調理台の上で 、熱い小型ソーセージにしようか、冷えた小型ソーセージにし ようかと、意のままに選択出来るような、歴史を進歩させるそ れぞれの異なった方法なのでなく、互いに条件となり補足し合 いながら、しかも同時に、南極と北極、ブルジョアジーとプロ レタリアートといったように互いに排斥し合う、階級社会が発 展していく上での、異なった要因なのだ。
しかも、その時々の法律制度は、全く、革命の所産である。 革命が階級の歴史の上での政治的な創造的行為であるとすると 、立法は社会の政治上の植物的成長である。法律に依る改良の 仕事は、それ自体の中に、革命から独立した独自の原動力を持 っているものではない。
それは、それぞれの歴史的時期において、最近の革命によっ て与えられた足取りが、その影響力を今なお持続し続けている 限り、そのような領域でのみ動いていく、或いは、もっと具体 的に言うと、最近の革命が生み出した社会形態の範囲内におい てのみ動いていくのだ。まさに問題の核心はこれだ。
法律に依る改良の仕事は長期間に亘って行なわれる革命であ り、革命は短縮された改良であると想像する事は、全くの誤り であり、完全に非歴史的である。社会革命と法律に依る改良と は、継続期間によって区別される要因ではなく、その本質によ って区別される要因である。
政治的な暴力を行使して行なわれた歴史上の諸変革の秘密の 全ては、まさしく、単なる量的な変化が新たな質へと急速に変 化していくということ、具体的に言うと、一つの歴史時代が他 の歴史時代へと、または一つの社会構成体が他の社会構成体へ と移行するということである。
そこで、政治権力の奪取や社会の変革の代わりに、またそれ らに反対して、法律に依る改良の方法に賛成する人は、実際に は同じ目的に向っての、より温和で確実な、より緩やかな道を 採っているのではなく、他の目的を、即ち新たな社会構成体を 打ち立てる代わりに、単に旧い社会構成体の内部での、取るに 足りない改革の方を選択しているのだ。
こうして、修正主義の政治的見解については、その経済理論 についてと同様の結論に到達する。結局それは、社会主義制度 の実現を目指すものではなく、単に資本主義制度の改良を目指 しており、賃金制度の廃止ではなく、搾取の程度の大小を、要 するに資本主義の弊害の除去を目指し、資本主義そのものの廃 止を目的としていない、という結論に行き着く。略
ブルジョア社会をそれ以前の階級社会ー古代社会や中世社会 ーから区別するものは何か。それはまさに階級支配が、現在、 「成功裡に獲得された諸権利」に立脚しているのではなく、現 実の経済的諸関係に立脚しているという事実、また賃金制度は 、法律関係ではなく、純粋に経済関係であるという事実によっ て区別される。
現在の全法律制度の中には、現代の階級支配の法律的形式を 見出すことはできない。もしこのようなものの痕跡でもあると すれば、それは辛うじて僕婢条令のような、封建的諸関係の遺 制である。
従って、賃金奴隷制が法律の上に全く表現されていないとす ると、どうやって、この賃金奴隷制を「法律に依る方法」通じ て次第に廃止していくことができるのか。略
しかも現在、事態は一層異なっている。プロレタリアは資本 のくびきに繋がれるのに、如何なる法律に依って強要されてい る訳でもないのであり、貧困に依って、生産手段を所有してい ないことに依って繋がれているのだ。プロレタリアは、生産手 段を法律に依って奪われたのではなく。経済的な発展に依って 奪われたのであるから、ブルジョア社会の限界内では、どのよ うな法律に依っても、プロレタリアに生産手段を与える事はで きない。
更に、賃金関係に内在する搾取も、法律に基づいたものでは ない。というのも、賃金の額は法律の規定に基づいて決定され るものではなく、経済的な要因に依って、決定されるものなの だから。そして搾取という事実そのものが、法律の規定に基づ いているのではなく、労働力が商品として、つまり価値という 、しかも労働者が、自己の生活資料の為に費やす以上の価値を 生み出すという、好都合な特性を持った商品として現れるとい う経済的な事実に基づいている。
要するに、資本主義的な階級支配の根本的関係は、ブルジョ ア的な法律に起因するものではなく、このような法律の形態を 採っているものでもないから、ブルジョア的な基礎の上での法 律に依る改良などで、変革する事はできないのだ。略
しかし、もう一つ付け加えておくことがある。それは資本主 義制度のもう一つの特性であって、その資本主義の中で発展し つつある未来の社会の要素の全ては、初めは、社会主義に接近 するのではなく、それから遠ざかるような形態を採るというこ とである。つまり、生産においては益々社会的な性格が顕著に なる。しかしどのような形態を採ってかかというと、資本主義 の矛盾、搾取、労働力への圧迫が頂点に達しているような領域 である、大経営、株式会社、カルテルという形態を採ってであ る。
軍事制度に措いては、事態の発展が徴兵制の拡大や兵役年限 の短縮、従って民兵制への実質的な接近を引き起こす。しかし ながらこれは、軍事国家に依る人民の支配や国家の階級的性格 が最も顕著に現れる領域である、現代の軍国主義という形態を 採ってである。
政治的諸関係に措いては、極めて好都合な条件がある限りに 措いてだが、民主主義の発展は全ての人民層の政治活動への参 加、それゆえある程度まで「民衆国家」へと結集する。しかし ながら、これは、階級対立や階級支配が止揚されず、むしろそ れが発展せしめられ、あからさまな形を採るような領域である 、ブルジョア議会制度という、形態を採ってである。
このように資本主義の発展全体は、矛盾の中で運動している のだから、社会主義という内部の核とは、相容れない資本主義 という外皮から、この社会主義の核を、白日の下に取り出して 来るために、またこれを拠点として、プロレタリアートによる 政治権力の奪取と、資本主義制度の廃止を訴えていかなければ ならないのである。略
民主主義がブルジョアジーにとって、半ば余計なものに、半 ば邪魔になると、その代わりに、労働者階級にとって、それは 必要不可欠なものとなる。民主主義がまず必要であるというの は、それがプロレタリアートがブルジョア社会を変革するに際 しての、手掛かりとして、足場として役に立つ政治形式(自治 行政や選挙権など)を作り出すからである。
しかし、第二に民主主義が不可欠なものであるというのは、 その中でのみ、つまり、民主主義のための闘争や民主的諸権利 の行使の中でのみ、プロレタリアートは、自己の階級的利害と 歴史的使命を自覚することができるからである。
要するに民主主義はそれが、プロレタリアートによる政治権 力の奪取を不必要にするからではなく、逆に、権力奪取を不可 避にすると同時に、特に可能にする為に不可欠なものなのだ。( 社会改良か革命か ローザ・ルクセンブルグ)
以上がベルンシュタインとの論争の中でのブルジョア民主主 義の限界とプロレタリアートの議会に対する使命を論じたもの ですが、これを見ても、ブルジョア民主主義とプロレタリア民 主主義の区別が理解できていないでしょうか。