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「科学的社会主義」討論欄

風来坊氏の反論と、改めて、反乱で終わった人の検証を進 めていきたい。

2006/04/06 反戦・反ファシズム・日本国憲法擁護連合 20代 自営業

>あなたはローザが蜂起に向かったのは、自らの政治生命が、 ドイツ社民から放逐されようとしたからだ、と述べています。

 ローザはボルシェビキ革命を拒絶し、これを批判し、ドイツ 社民の姿勢を崩さなかった。ローザは、革命的祖国敗北主義を 批判し、帝国主義への対峙と抑圧民族の民族解放に反対した。
 とりわけ、第二インターナショナルの崩壊では、ローザは結 局帝国主義社民を断罪する立場にはたたなかった。そして、第 一次大戦過程に突入していくなかで、ようやく反乱的なものを 指導していくことになったのである。レーニンとの相違は帝国 主義の認識そのものと、革命に対する組織化の違いそのものだ といえよう。もちろんレーニンが肇から、革命的祖国敗北主義 や帝国主義論を理論的にぶちあげられていたのだということで はないが、ローザは最後まで帝国主義の認識に欠けていたわけ である。

 ローザは、第二インター崩壊に対して曖昧な姿勢しかとれな かったことが、その後のローザの敗北を規定していくのである 。
 ローザが反乱を決断したのは、第一次大戦過程をふまえて戦 争翼賛になびくか、反乱を決断するほかなかったからである。 レーニンとの相違は、まさに帝国主義をめぐる認識の相違から きているのである。

 ドイツ社民は、第二インター決議を放棄し、帝国主義社民と して戦争翼賛勢力として転化していく過程で、ローザらは自ら の政治的立場を戦争翼賛の立場に転向するか否かを突きつけら れた。そこでローザが選択したのは、転向する道ではなかった が、結局ローザは「血の海」に沈められてしまった。それはな ぜかといえば、それらの前提となる第二インター崩壊過程時に 、ローザはレーニンのような姿勢できっぱりと第二インター崩 壊を批判し、レーニンのようなボルシェビキ党を建設できなか ったことに直結する問題なのである。

>しかし、ローザは政治生命どころか、自分の生命、身体が危 険にさらされても、決して保身には動きませんでした。

 もちろん、転向の道をとらなかったことは、個人的にローザ の意地をかいたいが、レーニンのような、帝国主義への認識と 労働者の解放をかけるだけの責任をローザはもっていたのだろ うか?

>例をあげてみましょう。
>例1 1906年3月上旬から6月下旬まで初めは市会議事堂内留置 場、後に要塞監獄に留置された時、親戚のものが彼女の身を案 じて取り計らってくれるよう元老院議員に頼み込んだという話 を聞いて、ローザは自分の意思に反するおせっかいな行為に対 して、その差し止めをカウツキーに依頼している。「・・・敬 愛するカルロス、どんな場合にも、ビューロフなどのところへ は、行かないよう、切にお願い致します。どんな事があっても 、彼の世話になりたくないのです。そうしておかないと、この あと、彼やその管掌下の行政をアジるさいに、自由にものをい うことができなくなるからです。」ローザの手紙

 つまり転向しなかったということだろうが、そもそも、その ような事態になったことを総括すると、ローザが第二インター ナショナルの崩壊過程から、帝国主義社民の傾向として断罪で きなかったことが後手後手の結果として起こったことではない のだろうか?
 レーニンの場合とローザの場合の相違が非常に突き出ている 問題だといえるのではないのか?そもそもローザを獄中につな いだのは社民のノスケに他ならない。そしてそれらの帝国主義 社民を根底的に批判する時には曖昧にし、その後の後手後手の 反乱で終わったのがローザその人であったのだ。

>例2 「1917年7月と、その翌年にも再び、ローザにロシアの 市民権を要求させて、国外退去を求めるべきかどうかという問 題が起こった。もう一つの道は、著名な革命家の特別交換だっ た。この可能性は一時カール。リープクネヒトのために考慮さ れた。ローザは、しばらくの間決断しかねていたが、結局断っ た。彼女は、やがてやって来ずにはおかない、ドイツ革命のた めに備える事を望んだ。たとえそれが彼女の獄中生活を長引か せる事を意味しようとも、それだけを考えていた。」(ピータ ー・ネトル著「ローザ・ルクセンブルグ」)

 重要なのは、レーニンのボルシェビキ路線を拒否したローザ 、第二インター崩壊を曖昧にしたローザ、しかし社民に裏切ら れたローザということに規定されているのではないのか?

>ローザに対して、レーニンのように亡命してでも、自分の身 を守るべきだ、それが革命の指導者としての責任だ、という批 判は聞いた事があるが、あなたのような批判は聞いたことがな い。

 マルクスも亡命生活をしていたが、重要なのは、指導部の防 衛ではないだろうか?しかも、労働者自己解放とせまりくる帝 国主義戦争と帝国主義の矛盾に対する指導部の責任である。
 と同時に、ローザはあまりにも帝国主義と帝国主義社民に対 する認識が甘かったということなのである。しかもその根底に は、帝国主義論の認識不足だつたということである。
 ローザ擁護・反レーニン主義の理論も流行した時代があった ようだが、まさしくあなたがたどってきた過去にも通じるだろ うが、帝国主義に対する認識の違いとして、ローザとレーニン は比較されるのである。ドイツとロシアの特殊事情や国内形成 であれば、ロシアのほうがむしろ強権的でさえあったし、マル クス以来世界最大の左翼政党がドイツ社民であったし、ドイツ 社民は第二インターという国際党派をも牽引し、第二インター 決議で一致していたにも関わらず、ドイツ社民は第二インター を崩壊させた張本人であったのだ。ローザは、こうした帝国主 義社民が第二インターナショナルで決議したことを自ら放棄し ていく過程で、レーニンのようなボルシェビキ政党を確立でき たのかといえばノーであった。曖昧な姿勢をとり続けてきたと いうことでしかないのである。その根底には、晩年のエンゲル ス流の民族主義的色彩がローザの理論にも影響していたという ことである。あらためて、ローザの『資本蓄積論』の批判を展 開しなくてはならないようだ。

>もっとも、常に大衆と共にあろうとしたローザにとって、こ のような批判は意味がないが。そしてそれがローザの持つ魅力 だと思う。

 あなたの問題意識として、民族主義的色彩が濃いことと、労 働者という言葉をあなたは使用したがらないことが多いという ことだ。
 なぜ労働者とはいわず、「大衆」といわれるのだろうか?
 ここがあなたの階級的立場の曖昧さが突き出ているのではな かろうか?ローザは革命を敗北させ、社民のノスケに殺された 人、レーニンは、帝国主義戦争を阻止し、帝国主義を打倒させ た革命家。
 その違いはあまりにも違いすぎるのではなかろうか?
 同時に、レーニンを歪曲したスターリン批判を展開すること も必要なようだ。ところで、あなたはスターリンに対する認識 はどのようなものであろうか?

>蜂起に付いては改めて投稿します。

 レーニンはパリコミューンの失敗から多くを学んだ。
 とすれば、革命を成功させたレーニンと、失敗したローザか ら学ぶべきところは、大きいだろう。
 もっともあなたは、革命にいちゃもんをつけたくて仕方のな い立場、革命を失敗させた人を擁護する立場だということは、 すでに露呈しているのではなかろうか?そのうえで、スターリ ン批判が重要だということなのだが、あなたは、スターリン批 判をスターリンの理論を含めて批判しないばかりか、その責任 をレーニンになすりつけているという点で、度し難いといわざ るをえないだろう。