「私的所有から社会的所有へ」
これを国有化とみなした考えには、実は重大な見当違い(権利と義務への誤解)があったのではないだろうか。
資本家から生産手段を奪い返し、自分のものにした(これは当然の権利)労働者階級は、その経営にも実は(義務として)責任を持たなければならなかったはずなのに、ソ連の支配構造、経済システムは、それをないがしろにする結果となった。ソ連における賃金労働者としての彼らの立場は、資本主義のそれと、何ら変わらなかったからだ。
搾取をなくし、資本家による生産手段の私的所有を否定するのはもちろん問題ない。だが、生産手段の国有化がもたらしたものは、「国家独占資本主義」であり、賃金労働者の搾取はなくならなかった。そこでは、搾取する側が資本家から共産党特権階級にかわっただけ。さらに、ソ連型独占企業に競争は存在せず、生産力の発展が阻害されていった。マルクスは独占の弊害を、「資本論」で述べている。適正な企業間競争は経済発展に必要なものだ。
未来の社会主義社会における企業についていえば、企業の所有者は国家ではなく、その企業で働く労働者であるべきで、例えば500人の社員からなる企業なら、その資産に対して、各社員はそれぞれ基本的に、500分の1の権利を有するべきである。社員の努力で業績が向上すれば、それは給料に反映され、また、怠惰な労働の結果、業績が悪化すれば、同様に反映されるような、仕組みにする。
社会主義社会では、企業の運営はすべての社員が責任を持って行い、社長などの役員は、社員全体が参加する総会などの選挙で選出し、そして、たえずリコールの権利を皆が有するようにする。社長と平社員の所得差など、現行よりは著しく狭いものでよい。ただ管理職はその職務に適正があるだけなので、数倍とか数十倍とかの差は必要ない。
現在の、株主とその手先の管理職が会社を所有し支配権を持つような体制を、社員全体が(マルクスが『ゴータ綱領批判』で述べた意味での)公平に持つような社会的所有の体制に、変える必要がある。
「株式市場の否定」、「金利の否定」等、そして、このような企業経営形態の創出は、旧支配者との激しい衝突なしでは実現できない「革命」である。