まず、ユニシスの小冊子の主要な欠陥と、それが合法的
な雑誌「インテルナツイオナーレにくらべてはっきり一歩後退
している点とは、社会排外主義と日和見主義との結びつきにつ
いて口をつぐんでいることである。
この点に関しては、「インターナショナルの再建」の方が、
はっきりしている。ローザはカウツキーが、8月4日の崩壊に重
大な責任があると断定して、完璧なまでに批判している。確か
に「社会民主党の危機」では、この点が若干曖昧になっている
。
レーニンの主張に従えば、即時党を割って、社会平和主義者
とも決別しなければならないことになる。
しかし、1916年9月の社会民主党全国協議会で、正式決議を
行なうことに反対する提案が、276票対169票の差で否決された
。
翌1917年1月反対派の全国協議会72選挙区157名の代議員中、
スパルタクス団34名、ラデック系ボリシェビキ派6名。また労
働組合の急進部分革命的オプロイテは、社会平和主義者の影響
下にあった。このような力関係の中で、党を割ることは、一揆
主義に陥らざるを得ない。
また、この力関係の中で、社会愛国主義者と闘い、革命的オ
プロイテとの共闘を模索するためには、社会平和主義者に対し
て曖昧になることは、避けられなかったのではないかと思う。
「反対派は、社会民主主義のマントでくるまれた帝国主義政策 から大衆を防衛し、党をプロレタリアートの反戦階級闘争のた めの、増援活動の分野として活用するために、あらゆる段階で 多数派の政策を妨げ、闘う目的で党内にとどまる。」(スパル タクス団評議会決議)
次に、レーニンは、ドイツ左派の最大の欠陥は、強力な非合
法組織を持たない点にあるとしている。これは、西ヨーロッパ
の実情を把握していないレーニンの誤謬と言うしかない。ドイ
ツを始め、西ヨーロッパの共産党が、幾多の挫折を繰り返した
後、1922年、第4回コミンテルン大会で、やっと、レーニンは
、自分の非を認めた。
それは、余りにも遅すぎたと言うしかない。
最後に、民族自決権の問題だが、母国ポーランドにおいて民
族独立を主張していたのは国粋主義的なポーランド社会党であ
り、ポーランドには、ポーランドの回復に関心を持ち、同時に
それを成し遂げる能力を持つ社会階級はないという特殊な状況
に置かれていた為に、民族自決即国粋主義という一般化がなさ
れたのではないだろうか。
またヨーロッパ以外の被抑圧民族の問題にほとんど関心がな
かったように思われる。ブレスト講和で言及している点は、問
題の一面を現しているのだろうから、再度調べてみたいが、民
族自決権の問題は、ローザが基本的に誤っていると思われる。