マルクスの資本論には面白いことが書いてある。
たとえば、プルードンについては、「科学」という言葉を乱用。
これが党にとって有害か利益かを考えて物事を決めていたとしたら、それは科学ではない。
もちろん、私が言いたいことは、社会的な生産様式は、商品生産なしにはあり得ないということである。
ところが、いまだに共産党の理論?には、商品生産が廃止されたような社会的な生産を観念しているところがあるように思える。
社会主義の青写真を描かない理由の一つに、非科学的な観念がまだ解消されていないことがあると思える。
マルクス資本論を不十分ながら研究し、今現在の見解として、マルクスが言う「共同的な社会では、商品生産ではない」という見解が間違っていると考えている。つまり、共同的な社会では、その生産の大きさがある量を超えれば、共同社会的な商品生産の段階に入ると考えている。
これは、量だけのことではなく、その量を超えない共同的な社会の生産であっても、質的には、商品生産の萌芽的な形態があると思っている。
というのは、生産物が、偶然ではなく、社会的に社会的な使用価値として生産されている状態は、資本主義の生産物が、私的に所有されている生産手段の生産物であっても、やはり、社会的な使用価値として生産されていることと同じだからである。
社会的な使用価値は、それぞれの現物が個別に使用・消費されても、それが社会的に平均的な使用価値ならば、やはり社会的な使用価値だからである。それによって、私的に所有されている生産手段は、そのような使用価値の生産のために動機づけられる限り、所有様式は、たとえば、株式による利益の収奪に外皮化する。
もっとも、機械力による生産力が支配的な社会にあっては、より少数の人間労働力でより多くの人間の富を生産できる状態で商品生産を廃止したような様式を科学的に考えることは、不可能ではないかもしれない。