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「科学的社会主義」討論欄

群雄割拠の世界へ(1)

2006/07/30 百家繚乱 50代 事務職

 最近、レオナルド・ダ・ヴィンチが注目されている。ルネッサンスの時代は群雄割拠の世界である。東洋においても、この日本においても群雄割拠の世界は戦争の時代であった。ルネッサンスの時代と同じように、豪華絢爛たる文化や思想が発生する時代は戦争の時代でもあった。身分性と鎖国制社会はこうした戦争を押しとめ、平和な体制を保証した。しかし、この平和な社会は進歩の無い社会をも意味していた。平和なアジアは群雄割拠の西洋から立遅れてしまった。ルネッサンスから始まった西洋の産業革命は、立ち遅れた東洋を飲み込み、全世界を己の植民地として蹂躪した。産業革命は戦争を世界的な規模にまで拡張したが、同時に資本主義市場をも世界的な規模に拡大した。この資本主義市場の世界は人為陶汰の世界である。
 「人為陶汰」とは、生物学的には目的とする種を、自然淘汰の力学を利用しながら、人為的に創造する方法である。トロツキーは人間社会の淘汰の過程を人為陶汰と言う。人間社会は長い間、戦争によって、陶汰の歴史を歩んできた。戦争の世界は、盲目的な弱肉強食の世界であって、動物の自然淘汰の延長である。市場原理は、市場参加者の利益の共有を目的としている。市場から利益を獲得できないものは、市場から去る事が出来る。強者が常に勝者となる訳ではない。市場は参加者全体の利益を志向し、弱者が創意工夫で多大な利益を得る事は珍しくない。
 資本主義市場は競争の世界でもあり、優勝劣敗の世界でもある。市場全体にとって、より多くの利益をもたらす力には多くの資金が集積する。株式市場における投資行為は、政治における選挙と同じような効果を発揮する。選挙と同じように、過大に集積し過ぎるとバブルとなって弾ける事もある。市場は試行錯誤とジグザグを繰り返しながら、参加者全体の利益をもたらす新しい技術・経営・政策を志向する。つまり、市場における群雄割拠は弱肉強食を乗り越えて、人為的に新しい技術・経営・政策を創造する人為淘汰の世界でもある。
 今日の株式市場や株主総会では、青年の参加が加速している。これは、単に、青年が投機熱に憑かれていると考えるべきじゃない。群雄割拠の市場を、己自身の意志でコントロールしようとする青年の、新しい時代の姿である。青年は、いかなる時代においても、自由で民主的な志向を持っている。群雄割拠の世界こそが、青年の自由なエネルギーを民主的にコントロールできる。かつての左翼の群雄割拠は、多元性を承認しない独善的でセクト的な割拠であった。こんな割拠からは、いかなる民主主義も生まれない。多元性を承認する自由で民主的な割拠こそが、新しいい時代を創造できる力である。
 長い間、左翼は「平等」の名のもとで、この市場の群雄割拠を否定してきた。群雄割拠を否定する左翼は、青年を官僚的にコントロールしようとする。更に、己のセクト的な利益を優先して、分裂を繰り返してきた。青年が、セクト的な利益のために、自由と民主主義を裏切ってきた左翼に、背を向けるのは当然の帰結である。官僚主義はセクト主義となり、このセクト主義は分裂を志向する。真の平等は、官僚的なコントローによってではなく、人間の自由で民主的な知性の中からしか産まれない。そして、この自由で民主的な知性こそが、左翼の統一を志向する。確かに、セクト主義と独善主義の割拠は左翼の分裂を志向する。しかし、多元性を承認する自由で民主的な党や党派の割拠は左翼の統一を志向する。左翼の統一は青年に夢を与え、左翼を活性化し再生する力となる。
 今日の世界の、テロ問題・貧困問題・地球環境問題を考えると、地球規模での人類の意思決定能力が、緊急な課題となっている。今日の人類は、己自身に対する自己統制能力を獲得しないと生き残れない段階に突入している。この人類の意識的な計画性を、一体、どうやって獲得するのか?イラク戦争前は、世界の憲兵たる米軍の力で、人類は己自身に対する統制力を獲得できる、という議論が堂々とまかり通っていた。京都議定書に対するアメリカの拒否を見ても解るように、軍事力は無知(=鞭)しか生み出せない。ソ連の解体を見ても解るように、官僚的なコントロールも無知をさらけ出した。
 人類を自己制御できる力は、人類自身の自由で民主的な合意のみである。この合意は、群雄が割拠できる空間が無ければ、獲得できない。かつての群雄割拠は、軍事力の群雄割拠であった。軍事力の群雄割拠は、自由と民主主義を破壊する。対話と和解によって、合意に達するのではなく、軍事力と忠誠心の優劣によって、合意を押し付けようとする。軍事力の本質は、人間の自由で民主的な意思決定能力に対する拒否である。従って、人類は軍事力によって失うものがあっても、何も獲得できない。
 官僚的なコントロールの本質は、代行主義であると同時にある種の小さな空間の平和をもたらす。人間社会は多様で多元的な社会である。それぞれの分野で、それぞれの専門家が跋扈する。専門家は己の専門的な知識で、一般人の役割を代行する。しかし、歴史を創造するのは専門家ではなく、一般人である。科学者やエンジニアは、個々の科学理論・技術を創造・発見できるが、その歴史を方向づけ、決定するのは一般大衆の必要性である。必要性こそ、創造の母である。政治家や経営者も同じである。国民による民主的なコントロールを受けない官僚組織は、暴走して死滅するか破滅する。
 今日の地球環境・貧困問題は、官僚主義・代行主義では解決できない。この地球に生きる一人一人が、地球環境問題を己自身の問題として考えなくては解決できない。平和や貧困問題も地球環境問題と同じように、一人一人がグローバルな視点に立って考えなければ、解決できない時代に突入している。他人任せにする思想や忠誠心を誇りにする運動は、例え、どんな党や党派に属していようと責任放棄である。人類の目的意識性は、他人任せの組織・運動によっては絶対に獲得出来ない。己自身が思想の主体であるとういう運動の中からしか、人類の意識的な合目的性は獲得できない。
 ロシア革命は人類史上初めて、意識的計画的な革命であったと語られてきた。一体、誰の意識だったのか?誰の計画だったのか?スターリンはレーニンの意識であり、レーニンの計画であると答える。ロシアの労働者階級は、一度足りともレーニンに忠誠を誓った事などない。レーニンとトロツキーこそがロシアの労働者階級に忠誠を誓ったのである。ロシアの主人になりたいと言う労働者階級の願望に、忠誠を誓う事によって成功した革命である。直接民主主義のソビエトこそが、この革命を意識し導いた。自由で民主的な運動のみが、国民と労働者階級の利益を代表できるし、この利益は統一なしに実現できない。群雄が割拠できる空間と統一は不可分の関係にある。割拠する群雄の統一によってこそ、人類の意識的な計画性を獲得できる。