横レスですみません。
私もやすしさんのおっしゃるとおりだと思います。
歴史の進展は不破氏も言うとおり、長い時間で考える必要があります。
不破氏は4つの世界論などという馬鹿げたことを言っていますが、共産主義社会にいたるには300年くらいかかるだろうと、ある意味では正論を述べてもいます。
実は、他ならぬ日本の歴史が其れを示唆しています。
中世封建社会の確立の歴史がそれです。
早く、班田収受の法が崩壊したのが8世紀頃でしたか、それから、名主名田という農民層の固定化農奴化が進んだ後に、さらに、階層分化が進み、各地に武士団が発生したのが、9世紀頃。
平将門の乱などにそうした武士団の発生が明らかですよね。
しかし、それが、中世封建権力として、はじめて確立されるのは源頼朝による、鎌倉幕府の樹立によってでした。
古代的総奴隷制的公地公民制内部で、其れを打ち破る封建的農奴制と地方封建権力としての武士団の発生は見られたものの、それらは散発的・分散的な状態のままに長らくあったわけです。
(なお、摂関家のような大荘園領主は古代的国家総奴隷制の一変種なのでしょう。)
しかし、そうした状況が広く発達していったために、そのうえに立つ、鎌倉幕府が成立しえたということです。
ところが、鎌倉幕府をよく見ると、やはり、其れは古代的荘園領主の一種で、摂関家とさして違いは見られません。
つまり、権力の担い手は地方武士団の一つであった、北条氏に移ったと言う意味では革命なのですが、経済的基礎構造自体は、さして変わっていない、と言うことになるのですよ。
ではどこが違ったのか?
それは、その地方武士団が全国権力を握り、最終裁判権を握ったことによる有利な状況を利用した、各地の小さな年貢の抑留闘争でした。
そうした闘争の結果、裁判が闘われ、下地中分や、和与(強制和解)による、各荘園現地の領主権の確立によって、静かにしかし、激しく闘われたのです。つまり、幕府(革命権力)は有利な社会条件を提供したに過ぎず、実際の下部構造の変革を迫る闘いは、各地で個別に闘われていった、ということなのです。
革命権力がその社会的要求に応えられなくなったとき、その権力は見捨てられ、南北朝の内乱期を通じて、かえって、領主権の確立闘争が激しく戦われていきました。と、同時に領主層の階層分解もすすみ、地頭(底辺の中小領主)を上から支配するより大規模な領主層=守護大名が発生します。その守護大名による、国司・国衙領の年貢徴収権=半済や守護請けが一般的となっていき、古代的荘園制はどんどん侵食されていきます。しかし、其れは、戦国大名の一円領主権の確立に結実して、ようやくほぼ全国的に一層され、最後に残った、比叡山は織田信長による焼き討ちによって否定され、最終的には徳川家康の江戸幕藩体制の確立を持って、中世封建制度の最終的確立を見ることになるのです。
以上は大体誰でも知っている、日本史の基礎知識で、なにも私の独自の主張ではありませんが。(しかし、各論では多少の私の記憶の間違いはあるかもしれません。その辺はご容赦を)
班田収受の法が実施不能になって、古代的国家総奴隷制が動揺をはじめてから、実に800余年、鎌倉幕府成立からでも400年の長い年月の中で、ハジメは小さな侵食からスタートし、やがて、大きく成長して、初の革命権力樹立まで400百年、最終的な確立までは800年かかっているわけです。現在の歴史の進行は当事よりは比べものにならないくらい早いでしょうが、そうした100年200年という歴史的スパンで物事を考える必要があるのではないか?と愚考しています。
そして、そうした結果、今世紀中は社会民主的変革改革の積み重ねが社会変革の主たる内容になるのでは愚考しているしだいです。
(連続した民主的変革、といっても良いのですが)
それは革命の迂遠化ではなく、革命への接近だろうと愚考しています。