またずらずら書き始めましたね。
さて、僕が以前に書いたものへの貴方のお返事は無視させていただきましたが、つれづれなるままに、またあの時のやりとりに言及してみます。
貴方って人の話に対してなんで「陰謀」とか「裏がある」とかの書き方しかできずに、文意をねじ曲げた解釈専門なんでしょうか。せめて「客観的にはこういうことになる」ぐらいの書き方にしといて欲しい。それならばまー許せるのですけど、ちょっと貴方にとって抵抗がある文に出会うとすぐに「陰謀」、「必死の策略」と語る。
ただこの「客観的には」というやり方は、貴方流に本の言葉を使って規定しても駄目でしょうね。本は本です。客観的というのは、本当に客観的なことを語らなきゃ。貴方は「貴方流の解釈の」本のことしか語らなくて、現実の人間を見て客観的なことを探るという必要はないのだそうだから、貴方には客観的なことは語れないのでしょうけれど。なにしろ、こんなことを平気で言う人だ。
「しかも『本』と延べ、人間をみよなどと無関係な記述をされてくるわけです」
「そももそ、あなたの立場性とは、マルクス主義は青臭いと延べ、『本の中での話だ』『人間をみよ』など述べているわけですから、マルクス主義を考えるというよりは、マルクス主義を批判したいのがあなただと思います。 しかも、人間をみよというあなたの主張は、マルクス主義を論ずるものとは無関係でしかない」
またまたドエライことを言われるものですね。マルクス主義を論ずることが、人間を見ることと無関係なんですって!? また僕が「マルクス主義は青臭いと述べ」ている、ですって!? どこからそんな言葉、認識、判断が出てくるのでしょうか。
マルクスが唯物論的歴史観を打ち立てた「ドイツイデオロギー」で人間の歴史をこそ問題にしますが、あれは人間たちこそが問題だったからではなかったのですか?ヘーゲルの体系に対してマルクスは初め、フォイエルバッハの「人間論」に依拠して自分の立場を確立し、そのフォイエルバッハをもこの本で乗り越えた。それはフォイエルバッハが「現実の人間を知らない」と分かったからではなかったのですか?その下りはこんなふうです。
「フォイエルバッハの感性的世界の『理解』は一方ではそれのたんなる観照、他方ではたんなる感覚にかぎられ、彼は『現実的歴史的な人間たち』のかわりに『人間なるもの』と言う」(「ドイツイデオロギー」、大月文庫67年版、真下信一訳、83ページ)
この本の共同執筆者エンゲルスもマルクスの死後に、この「ドイツイデオロギー」誕生に触れて、こう回想していますね。
「ヘーゲル以後の他のどの哲学者にもましてフォイエヅバッハがわれわれ(マルクスと彼です)に与えた影響を十分に承認することは、まだ返却されていない信用借りであるように思われた」(「フォイエルバッハ論」、岩波文庫63年版、松村一人訳、10ページ)
この通りマルクスもエンゲルスも、フォイエルバッハの人間論から出発して初めて、現実の人間にたどり着くことが出来たということです。あなたはこんな記述を前にしても、「本と人間は関係ない」と言い続けられるのでしょうか?
また「(僕が)『マルクス主義は青臭いと述べ』ている」と貴方から批判されるその証拠を出して下さい。本の話しかせず、本と人間は無関係と語られる貴方のその「マルクス主義」を青臭いと僕は語っているだけですから、何の証拠もないはずです。
また「日本人ですか?」と語ったのも、余りにも本の話しかせず、文章も生硬なので、「文章の勉強でもしているのかな?」という、いわば当てこすりですよ。その証拠に、僕はこう書いていますね。
「僕は文章から判断して、貴方が日本人なのか否かを疑問に思っているくらいなんです。差別というのじゃなく、文章の発想法、表現などがね」。ところがこの文章も勘ぐって読まれる。「正当派マルクス主義者」を黙らせようと罵倒したと告発され、非難される。
こうして、貴方とは会話になりませんなーということです。貴方と会話になる人は、「賛成、賛成」という人だけでしょうね。他はみんな本の言葉でレッテル貼られて、「陰謀家」にされてしまう。こんな所業は、さざ波の権威を落とす以外の何物でもありません。