週刊朝日における筆坂秀世さんの有田芳生氏とのインタビューは、さらに日本共産党の政治的位置を下げた。さらに「平和共同候補」を探る市民の動きへの硬直した対応は、それに追い討ちをかけてしまった。
にもかかわらず、私は日本共産党を反動勢力とは思わない。
私にとって、思えば戦後精神の証であった吉野源三郎氏と古在由重氏の生涯の終焉は大きな示唆に富んでいた。
吉野氏の告別式に臨んだ古在さんは、原水禁運動の統一を願いながらも志なかばで逝去した吉野さんの遺骨の前で、吉野氏の遺志を継承すると誓った。古在氏のその後の行動は、よく知られるとおりである。
それでも、古在さんは一言も日本共産党の非難を口にしなかったという。高潔な人格の行動は、まさに自らの哲学を自らの生き方に貫いた哲人の軌跡であった。
私は古在由重ゆえに、日本共産党に幻滅を覚えた。けれど、それでも共産党になんらの愚痴もこぼさなかった古在さんの晩年ゆえに、戦時中偽装転向するや尾崎秀実の弁護士探しに奔走したり、京浜労働者チューターとして最後まで抵抗の姿を見せたりした党員哲学者の根幹を改めて想起した。
いま憲法も教育基本法も、黄昏の色彩を帯びている。その一億総後退の中で、レジスタンス運動はなんら統一した運動とはならず、自民党幹事長だった民主党代表小澤一郎のほうが、郵政法案に反対した元自民党議員までも民主党から参院選に押す動きを公表した。
セクト的な動きに終始する共産党を見放して、民衆の広範な共闘を探ることは可能か。私は「平和共同候補」擁立構想にさえ否定的な日本共産党の幼さに哀しくなるけれども、それでも共産党は総保守化の中で見捨ててはいけない政治党派と考える。
もし日本共産党が、国民的共闘の一翼に参加すれば、日本の政治ははるかによく変わる。どのような情勢のもとでも、展望と理念を見失わずに、民衆のしたたかさに期待したい。
歴史を戦い抜いてきた沖縄の民衆のように、歴史の前進は屈せざる民衆の生きる意志によってになわれてきた。
支配層は、分断して統治し続けてきた。支配されている私たちが窮極の共闘を見捨ててどうするか。
統一とは、何度も何度も歴足的失敗と挫折を克服した運動の総称ではなかったか。