1)原仙作氏の「共産党は屁理屈を言わずに「平和共同候補」の提案に乗るべきである」(2006/06/08)を読み、これに賛意を表したい。同時に、本来共産党が取るべきスタンスについて具体的な提案もして見たいと思う。
原氏の議論の前提にあるように、今日、マスコミや財界・与野党をあえげて、憲法改正のキャンペーンが張られているにも拘らず、依然として国民の世論は、こと憲法9条の「改正」については、否定的な意見が多い。これは、「九条の会」をはじめとする草根の運動や、戦後の様々な運動が形成してきた護憲の思想=平和運動が根強く存在し、同時に、中国や韓国の靖国問題を含めた日本の軍事化への危惧などによるものであろう。
厳しい情勢の下で、このような世論が一定形成され、9条改憲に至っては反対が多数派である。このことの重みを政党はよく考えて欲しいものである。特に、国会での議席と、この世論との「ねじれ」は決定的であり、このねじれを解消するような選挙戦術を取るべきことは、政権を担おうとする政党にあっては、常識の部類に入るとすら思う。
2)共産党が社民党と護憲の問題で、共同闘争を行う意思を表明している今日、多くの国民が来るべき参院選において、なんとか護憲の一致点において「共同候補」を擁立できないか、と考えることも不思議なことではなく、むしろ、誰でも望むことなのではないか。
政党間の統一候補や、無党派候補者の擁立に当たって、基本的な点における政策的一致が望まれることは、別に共産党でなくても政党ならば当然のことである。私は、この点については、別に違いを無視して統一をしさえすれば良いとは思わない。
問題は、そういう一般論ではなく、現実に憲法を擁護する点で、客観的な一致があり、憲法以外にも、基地の再編や、医療制度改悪反対など、国民生活に関わる、小泉構造改革の中心的課題について、「反対」で一致できる基盤が存在していることをどのように評価するのかという問題であろう。
3)今回の「しんぶん赤旗」の記事については、原氏が述べているように、責任の所在が不明であり、どの程度本格的な検討を加えたのか、怪しいという疑問がわくことも必然であろう。実は、私自身についていえば、この記事のかなり前に、党内の知り合いから「常幹メモ」なるものをみせて貰ったのである。これは、赤旗の記事よりシンプルなものであり、新社会党のことなどはふれて居なかったと記憶している。驚いたのは、「市民団体が政党に指図するなどはおこがましい」という文章が目に入った時であった。
つまり、政党は市民団体や労働組合などに、フランクションの線で「指図」をしてもかまわないが、市民団体が政党に要望を行うことが「指図」であり、まかりならんという議論であった。これは、記事ではむしろ「穏やか」に変更されていた。
こういう経過から考えると、「残念」なことに、原氏の疑問とは逆に、常幹などで「共同候補は論外」という議論が行われ、それを新聞の編集部或いは担当セクションで、「わかりやすく文章化」したというのが真相であろう。原氏の緻密な共産党の「共同」への政策スタンスの歴史的な解明にも拘らず、常幹レベルを含め「やる気」は全くないというのが実態であろう。
私は、政党が市民団体に意見を述べることは自由だと思うし、その反対も自由だと思っている。政党と市民団体のどちらを「上」に見るかなどという議論はおよそナンセンスなものである。その性格に沿って、異なる立場を前提にして、一致出来る点では、政党と政党との共同とは、また異なる共同のスタイルを追求することは、不可能なことではない。こういう成熟した、民主主義が発展した時代の運動への対応を是非、彫琢して欲しいものである。
4)来るべき参院選において、現時点では、残念ながら共産党や社民党は、選挙区における当選は難しい。であるならば、一層、この選挙区においての共同を追求することは、理にかなっていると思われる。
新社会党が、独自には当選できないので、「平和共同候補」を口実にして自党の候補者を割り込ませようとしている、などの批判は見苦しい限りである。
もし、そういう不安が本当にあるのなら、選挙区の候補は無党派にすべきである、などの「逆提案」をすれば良いだけのことであり、これは原氏が述べているように、幾らでも経験がある話しである。
当選後は「護憲連合」などという会派をつくればよいし、政党とは一致点で共同することをハッキリさせればよい。
政策的一致にこだわるとすれば、①護憲、とりわけ9条改悪反対、憲法改正手続き法案反対など②医療をはじめとする国民生活破壊反対、③米軍基地の再編反対、住民の被害の救済、地位協定の改善などを掲げておけば、大きな政策的な破綻は生じないだろう。
これに反する動きをすれば、協定違反として、事実をあきらかにすればよいだけのことである。選挙区で当選者を持っている政党の候補者は、これを優先すれば良いだけのことである。
比例の方については、ねばり強く統一候補を選定することが望ましいが、そう簡単でないことは理解できる。それぞれが名簿を独自に提出する場合でも、選挙区での共同候補の存在の意味は大きいだろう。国民の支持を獲得する際の、相乗効果もかなりあると思われる。
要は、三分の一を超える議席を占めるという「気迫」が必要なわけであり、これを国民に示すかどうか。ここにポイントがあろう。
5)憲法改悪反対で、一番重要なことは「草の根の運動」であることは自明であるが、これと国会の議席の「ねじれ」の解消が、共同候補擁立の第一義的意味であろう。
それ以上の、日本の民主的変革における共同は、現時点であまり可能性がないし、国民もそんなことは期待していない。スジを通しながら、柔軟に対応できる課題として「平和共同候補」の擁立は設定できるものだと確信をするものである。共産党が、やる気を示しても他党派や無党派層の賛同を得られないこともあるかもしれないが、それは別に問題ではない。
共産党の側が、自分の方に、共同を拒否する姿勢はなく、共同に向かって議論するにやぶさかではないという態度を表明すれば良いのである。市民団体は、色々とあるし、確かに政治的「狙い」を持っている場合もあろう。しかし、そんなことは別にどこにでもある話しであって、要望の内容に沿って議論をすればよいだけのことであろう。
6)小沢民主党が、ちょっと自民党へのスタンスを変えただけで(オルタナティブ路線から、何でもイチャモン路線に)、やはり国会や政治の雰囲気は変わるものである。
護憲の政党が、国民の多くが願っている(潜在的であっても)共同という路線に大きく踏み込めば、現在の「なんでも可能」という国会の雰囲気は必ず変化する。国民の運動もそう簡単ではないが、「9条の会 全国交流集会」の様子などを見ると、本格的な運動団体に発展する兆しをみせている。セミナーの実施や、経験交流集会の「常設」の方針は、多くの参加者を励ましたに違いない。参加者の多くは、共産党、或いはその「周辺」にいる方たちだと思う。党内外の期待に応えることができるかどうか。
参院選挙では、この点も問われるわけである。