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「現状分析と対抗戦略」討論欄

2005年総選挙における小泉圧勝の原因と護憲派の欠陥

2006/09/09 原 仙作

1、小泉圧勝の要因にぬけているもの
 この1年の間、昨年の総選挙のことばかりを考え続けてきた。なぜ、小泉自民党が圧勝したのか? 落選した民主党議員は一様に、対立する候補者が小泉ではないかと錯覚するほど小泉の幻影を選挙戦で感じたと語っている。小泉自身はといえば、過半数を制することができれば御の字という程度の判断でいて、終盤、全国遊説から東京へ戻る車内で側近から圧勝という選挙情勢報告を受けると、信用できないという顔をして報告書に見入っていたという。
 何が起こったのか? 投票結果からいえば、大まかに見て投票率の上昇にともなう増加票800万票のうち2/3が自民党に投票され、残りの1/3が自民造反派に入っている。過去10年の経験では、投票率のアップは野党に有利な結果を生んできたのであるが、その経験がひっくり返されるどころか、アップ分がそっくり自民と自民造反派に持って行かれている。
 小泉劇場政治(改革派と守旧派の対決の演出)、郵政民営化や「官から民へ」のワンフレーズ・ポリティックス、竹中の「B層」対策、世耕の新広報戦略、野党の無策、財界の支持やマスコミの小泉翼賛などの要因が挙げられている。しかし、何かが足りないと感じるのである。これらの要因のすべてを足し合わせても、小泉圧勝の理由を説明し切れていない。何か根本的なものが欠けている。
 そこで、小泉圧勝と同じような政治現象を採りあげて考察の糸口にしてみよう。小泉による8.15靖国参拝以後の参拝支持派の激増ぶりがそれである。

2、靖国参拝に見る劇場政治とワンフレーズ・ポリティックス
 国民意識の右傾化の流れは、1997年の「新しい歴史教科書をつくる会」の結成の頃から顕著になってくると見ていい。その流れは「草の根保守主義」や「プチ・ナショナリズム」「プチ右翼」という表現を生み出すほど旺盛になってくるのであるが、それでも首相の靖国参拝に国民は抑制的であった。
 1978年のA級戦犯の合祀以来、天皇は靖国参拝を中止していたし、中曽根すら一度の参拝(1985年)をもって中止している。財界も批判的であり、マスコミも一部を除いては概して靖国参拝には批判的であった。これらの事情が右傾化の流れがありつつも、国民が抑制的であった理由である。小泉自身も8.15参拝に先立って世論調査を実施し、参拝支持が少数派であることを確認している。おおむね、首相の参拝支持は30%台で推移してきたのである。反対は5割を超えていた。
 しかし、小泉は8.15参拝を敢行して抑制的な国民の支持を完全にひっくり返してしまった。小泉参拝後の共同通信の世論調査では支持率51%、NHKの視聴者討論番組がリアルタイムで採ったアンケートでは実に70%という数字がたたき出されている。まさに、昨年の総選挙の再現を見る思いである。
 国民世論をひっくり返したという点で、小泉の8.15靖国参拝は昨年の総選挙の再現なのであるが、二つの同じ政治現象と両者の背景事情の違いを考慮すれば、私が何かが足りないと感じる理由が明確になってくる。総選挙における小泉圧勝の理由としてあげられる要因から、まず、財界の支持やマスコミの小泉翼賛がなくなる。野党の無策もなければ、自民党の広報戦略も「B層」対策もない。残るは劇場政治とワンフレーズ・ポリティックスだけである。劇場政治のかたき役は参拝を批判する中・韓とリベラル派から左翼までの知識人、マスコミであり、「戦没者に哀悼の誠を捧げて何が悪い」、これがすべてである。小泉はたったこれだけの装置で、積年の政治問題を一挙にひっくり返してしまった。驚くべき芸当ではないか!

3、ある青年の一文が教える秘密
 小泉流の国民操縦術の核は、この二つであって、その他の要素はこの二つに比べれば付随的なものであることがわかる。マスコミの小泉翼賛すら、重要なファクターではあるが付随的なものなのである。小泉を批判するある論調は小泉独特のポピュリズム(大衆迎合)とも言うが、この二つの核には高尚なイズムがあるわけではない。解きほぐしてみれば、対立点(敵)を明確にして、わかりやすい言葉で説明するということにすぎない。
 だが、これだけのことならば何も小泉の専売特許ではなく、与野党ともに、そうした工夫を絶えず行ってきたはずである。平和運動や憲法擁護運動もしかりである。それなのに、なぜ小泉なのかということが問題なのである。私が何かが足りないというのはこの問題なのである。この二つの核には何か特別の謎が含まれているわけではなく誰でも利用できる手法でありながら、小泉だけが有効に使える理由はどこにあるのか? このように問題は限定されてくる。
 そこで、私が最近出会ったある青年の一文を読んでいただこう。そこに小泉だけが有効に使える理由が書かれている。

「物質的に悪くない条件のもとで働かされ、ただ媚びてきた父親――そんな日本という家庭で育ちつづけ、抑圧されてきたなかから、いまようやく潜在意識が浮き上がってきて、社会はすべて何かがおかしいと、よくもわるくももはやごまかしがきかなくなった意識が若者をとらえているのではないでしょうか。
 立派な大人や外からみて、健康なのにえらそうに働くことすらしない子どもは、親からみて傲慢であるには違いなくとも、子どもにとってはもはや対話不能なレベルの閉塞感のなかで、無力感に病んだ意識の下で、自分をありのままに肯定したい、ナイーブな理解されない心がマグマのように息を潜めています。首相やブレーンのひとはそれを何よりも強くキャッチして利用して動かしている、いや、そこから生じたヒーローといってもいいのではないでしょうか。次期首相有力候補はさらにその性格が際立っているような気がします。何もできないのに、ではなく、何もできないからこそちょっとした刺激によって盲目的に自己肯定的に爆発する。
 ファッションとテレビ映りとうまいスピーチに一番気を使っているという次期首相候補が、私は自分自身のようにいとおしく思え、そしてそんな自分を暗澹と感じています。次期首相のさわやかな愛らしい顔つきと、角度を変えたときに現れる老人のように疲れきった戦後の亡霊のような顔の格差。何もできない自分自身が選ぶヒーローにふさわしいように思えます。」(HP「森田実の時代を斬る」No306、8月30日)

 小泉は単なる人気者ではないのである。この青年にとっては、その気分、感情をすくいあげてくれる「自分自身のようにいとおしく思え」る「ヒーロー」なのである。この「ヒーロー」が劇場政治を演じ、説明のない短いフレーズを駆使するからこそ、劇的な効果を発揮する。「ヒーロー」が劇場政治とワンフレーズに魂を吹き込んでいるのである。ひるがえって、小泉批判派に目を移せば、我々の作り出す劇場政治とフレーズには魂が吹き込まれていない。

4、「ヒーロー」は創られる
 しかし、小泉とて最初からヒーローであったわけではない。小泉は自ら意識的にヒーローたらんとして自らをアピールしてきた。
 小泉が解散前に森喜朗に言わせた「殺されてもいい」という言葉を思い出してみるべきだろう。干からびたチーズと缶ビールという庶民的お飾りを添えて、そこには一途な信念、劣勢でも敢然と決行する勇気、信念に殉ずる誠実さ、自己犠牲が示されている。そこに鬱屈した青年達はおのれのヒーローを見ているのである。
 私は小泉がそういう人物であるというのではない。しかし、彼は少なくともそういう人物を演じられるキャラクターの持ち主であることだけはまちがいないのである。小泉のすごさがそこにある。
 8.15の靖国参拝では小泉は劣勢であった。同じく郵政解散でも小泉ははじめは劣勢であったのである。自民党の首脳は解散阻止に動いたし、民主党は解散大歓迎であったことを思い出してみればいい。この劣勢という条件があってはじめて「殺されてもいい」という言葉に劇的な意味合いが付与されるのであり、「哀悼の誠をささげて何が悪い」という主張が、事情を知らぬこの青年達の心に響くのである。
 自分の国を愛する心というものは誰にでもあるものだが、その心を共鳴させて靖国的愛国心の方向へ引きずっていく。靖国的愛国心の説明があって、その説明を受け入れさせるのではない。潜在的に、すでに心の内にあるものに働きかけて、靖国参拝支持を引き出すのである。潜在意識にある既得権への反感に訴え「官から民へ」と連呼することで彼らの心を揺さぶり、青年を郵政民営化賛成派に仕立てあげ劣勢を圧勝に変えていく。
 このように見てくると、一連の流れが見えてくる。まず、国民に好かれる外見とキャラクターがあって、その人物が意識的にみずからをヒーローにするべく努力し、劇場政治とワンフレーズで閉塞感の中に呻吟する国民の潜在意識をすくいあげることである。そして、ひとたび、ヒーローとしての地位を確立すれば、事実を歪曲したワンフレーズであれ、それはヒーローの呪文として拍手喝采を受けるのである。被害者をして加害者の支持者に変えるマジックがここにある。

5、「ヒーロー」が青年を右翼に変える
 劣勢に敢然と挑む姿、諸悪の根源を官と既得権に特定し、その諸悪に劣勢を顧みず身命を賭して挑む姿、それは時代の閉塞感に悩まされながら、出口の見えない現状に苦しむ青年層にとっては、まさに「ヒーロー」なのである。小泉は青年層の鬱屈した心情に応え、彼らの潜在意識にある不満をすくいあげることで、青年層に小泉を「自分自身のようにいとおしく思え」るようにさせる。こうなれば、正当な理屈であれ何であれ、小泉批判は自分への批判に思えるようになるのである。批判派に生理的な反感を抱き、批判派が憎しみの対象にさえなってくる。ネット右翼の言論をみるといい。草の根保守主義がプチ右翼へと成長する。左翼の言い分は理屈ぬきに打倒の対象になってくる。「プチ右翼」は本物の右翼へと変貌する。
 「ヒーロー」・小泉の前では労組も守旧派にされた。ヒーローの唱える呪文は理屈を越えて真理となる。仕事をせずに高給をはむ者として公務員が攻撃され、その削減に拍手喝采が起こる。削減を規制する解雇規制法を撤廃せよ、権利を盾に既得権をむさぼる労組、公務員擁護の左翼を打倒せよ。こうして民主主義運動の獲得物が既得権益として、持たざる者への疎外物とされ、すべてがひっくり返されていく。
 ヒットラーが最も民主主義が進んだワイマール共和国の議会で一挙に多数派になっていくマジックがここにある。ヴェルサイユ条約による過酷な国家賠償に苦しむ国民の反英仏感情をすくいあげて排外主義を煽り、敗戦で傷ついた民族感情に民族の誇りと純血を訴え、ユダヤ人を生け贄の羊にする。教条的にインターナショナル(国際主義)を叫ぶ民主主義の擁護者・左翼を打倒していく。

6、小泉後継者の資格
 小泉が安倍晋三を後継者に育てたのは、政治理念や政策上の共通性があるからではない。小泉にとってA級戦犯は戦争犯罪者だが、安倍晋三にとってはそうではない。小泉にとって、政治理念といい政策といい、それらは政局作りの素材にすぎない。私怨で抱えるようになった持論の郵政民営化さえ、時代の経過のなかで、後にブッシュに見いだされた「ひょうたんから駒」である。靖国参拝ですら、総理になるまで行ったことがないのである。
 有名な話だが、小泉が橋竜を破り総裁になったとき、盟友であった山崎拓は興奮のあまり、記者の前で「これはオフレコだぞ、驚くな、小泉は政策のことなんかまったくわかっちゃいないんだ」と言っていたのである。YKK同盟の頃、加藤と山拓がケンケン諤々の政策論争している横で小泉は黙々と一人酒を飲んでいたという。集団的自衛権の意味も未だにわかってはいない。 小泉が切り開いた道というのは、民主主義の獲得物を持たざる者の疎外物に転換する手法を発見したことである。
 小泉後継者は、小泉の発見したこの手法を実行する能力の持ち主であることが求められているのである。小泉の後継者は、まず何よりも、人気を取れる外見とキャラクターの持ち主でなければならない。全く同じ政策の持ち主でも権力欲にぎらつく者や凡庸できまじめなだけの外見の持ち主ではだめなのだ。多くの青年が「自分自身のようにいとおしく思え」るキャラクターでなければならない。これが決め手である。
 そういうキャラクターであれば、劇場政治の構図はいくらでも創れる。人気者だからこそヒーローに成長させることができる。安倍晋三が「たたかう政治家」を標榜すると言い出したのは、「ヒーロー」になろうとする意思表示なのだ。ヒーローなら、屁理屈で民主主義の価値観すべてを転覆できるのである。小泉が掃き清めた道の上に、A級戦犯の亡霊、「自分自身のようにいとおしく思え」るその孫が改憲を公約にして首相の座に手をかけようとしている。改憲の日程は加速度的に早まってくる。
 我々の戦略のひとつは安倍晋三が人気者から「ヒーロー」に成長するのを阻止することである。

7、護憲派の欠陥
 我々は、事態が手のつけられなくなる前に手を打たなければならない。小泉に共感を寄せる青年達を取り返さなければならない。あの青年達の共感は国民全体に波及していく恐るべき津波の波頭なのだ。
 何よりも我々には危機感が欠けている。改憲阻止を至上命題とする捨て身でたたかう姿勢が見えない。青年達の心を揺さぶるアジテーターがいない。護憲に魂を吹き込む運動が見えない。満ちあふれてくるエネルギーが感じられない。「9条の会」さえ、その実働部隊の大半は既存のテリトリーの陣取り合戦か看板の奪い合いから外へ出ているようには見えない。全国的に見て、このような印象になるのは、巨大与党の成立以降の改憲速度の加速感と比べて、護憲派がバラバラで、結集軸が未だに見えてこないことに原因がある。
 至上命題より先に党派の利害や政策上の違い、他党派への批判や怨念、不信感など、要するに、ごたく並べが先行する。改憲が行われれば、革命が起こらないかぎり、憲法はもとにはもどせない。他の社会保障政策の切り捨てや消費税の増税とはわけがちがう。現行憲法は戦後「民主主義革命」の要なのだ。
 我々の戦い方は、防衛戦ではだめなのである。「憲法を守れ」ではだめなのである。既得権擁護の外見を持たない戦い方が必要なのだ。偽りのヒーローが民主主義の価値観を根こそぎ攻撃してこようとするとき、防衛戦ではなく攻勢的に闘わなくてはならない。青年達の胸ぐらに飛び込んで、「ヒーロー」が偽りのヒーローであること、青年たちがだまされていること、青年達の窮状は小泉が作り出したものであること、加害者は実は「ヒーロー」その人であることを暴露し、民主主義のかけがえのない価値、平和のかけがえのない価値を訴え、その価値こそが青年たちに自由を与え、生活を守り育て、日本の未来を切り開く源泉であることを攻勢的に、死力を尽くして訴えることができなければ勝てない。
 攻勢的な戦いが必要だというのは、受け身の戦いをするなということばかりではなく、もう一つ別の大きな理由がある。護憲派が見落としがちなことであるが、社会主義諸国の崩壊後、顕著に進みつつある世界の政治・経済構造の変動、グローバリズムの進行が日本の社会・経済のあり方に変化を迫っており、とりわけ、青年層はその変化を敏感に感じ取っているということと関わっている。
 青年層は新興国の低賃金労働と競争させられることを不可避と見ており、それだから、単に労働条件の改善を迫るというだけの従来的対応では、自分たちの生活もこの国の発展の問題も解決できないと感じているのである。グローバリズムに表現される時代の変化を乗りきる新しい社会像と結びつけて彼らの苦境からの出口を説得的に提案できなければ、彼らの支持を得ることはできないのである。彼らの苦悩の水準は1960年代や70年代のそれより一段高いところにある。労組やかつての革新政党が古ぼけて時代おくれに見える理由でもある。
 訴える主体の側は、一途で、献身的で、利他的で、自己犠牲の精神に富む姿を青年層にアピールできなければならない。まちがっても、おのれの組織のために運動しているという姿を見せてはいけない。匂いさえ、させてはいけない。そして、万難を排して憲法を守ろうとする者同士、手を結ばなければならない。改憲阻止に有利な条件を少しでもつくり出せるなら、他のものは犠牲にしてでも、あらゆる条件を利用しなければならない。そのために組織の全力を傾けなければならない。自己犠牲の精神で果敢に闘う姿勢だけがあの青年たちを振り向かせることができる。政治情勢はそこまで来ている。

8、再び、日本共産党の政治姿勢を批判する
 そういう情勢がやって来ているのに、護憲派勢力の一大陣地・共産党は何をやっているのか? 小泉が「殺されてもいい」といって劣勢を逆転させるべく突進していた時に、共産党は何をやっていたのか?
 「日本共産党がこの総選挙でどれだけ前進するか、ここに日本の政治の未来がかかっている」(「政治のゆきづまりをどう打開するか」「赤旗」2005年8月22日) この発言は昨年の総選挙の時に不破議長(当時)が行った演説である。小泉のワンフレーズで共産党は殺されている。間の抜けた「たしかな野党」というフレーズもしかり。共産党は改選9議席を守り、得票数では34万票増やしたものの、基礎票では100万票を失い、得票率では前回より0.51%減らして70年代以降最低の7.25%になっている。1969年の14議席すら回復できない。社民党は同じ選挙で、共産党よりはるかに小さい組織ながら、比例区で70万票増やし、得票数・率ともに上昇させているのである。
 不破は本気でこの言葉どおりのことを考えていたのであろうか? 小泉の言葉と比べれば、はなから空文句であることが匂ってくることは隠しようがない。文字通りに解すれば、国民の運命がかかる選挙戦として、共産党は背水の陣の闘いであったはずである。日本の政治の未来がかかっている選挙戦で前進できずに、主敵である自民党を圧勝させてしまったことは、日本の政治の未来が閉ざされたことになるはずである。だが、一体どういう総括をしたのか? 「善戦健闘」(!)である。不破の演説が、自分でも信じていない中身のないホラ、空文句であることをおのれの選挙総括で示す愚かさに言うべき言葉もない。
 劇場政治にだまされたものであろうが、劣勢を顧みず、郵政民営化に突進する一途な信念や政治生命をかける勇気に喝采を送る聴衆は、確実に、不破のいう空文句や不誠実さ、欺瞞性を感じ取っているはずなのである。マスコミにだまされるだけのB層と揶揄されるが、それはことの一面にすぎない。小泉支持者は、マスコミがとやかく言う前に、劣勢を顧みずに果敢に戦う小泉が好きなのである。この対照のうちに、反戦平和運動の風化ということもさりながら、その中心的な担い手・共産党が窮地に立つことになった大きな原因がある。
 末端の党員の活動が真摯で自己犠牲の精神に富んでいても(私はそれを認める)、国民全体に直接訴える指導者の演説が欺瞞的で不誠実な匂いに満ちていれば、すべては逆効果になるであろう。真摯で自己犠牲の活動もうさんくさい組織を支えるビジネスにしか見えなくなる。組織維持のために、できもしない社会保障という空手形を切っている万年詐欺商法に見えるのだ。おまけに、この空手形を売る党は自分だけが正しいと叫ぶ独善のカルトふうの風を吹かしている。そのように見える組織が「憲法を守れ」と叫んでもどれだけの説得力があるか。
 全ての境界が相対的であるとは弁証法の教えるところであって、あの青年たちには、戦後の保革が逆転して見えている。私ですら、今の共産党は党勢拡大という自党のためにしか動いていない保守政党に見えるのだ。改選議席を1議席増やすことを唯一の目標とする政治方針・選挙戦術は、組織と指導部防衛のためのものにしかみえない。その政治方針・選挙戦術は憲法を守ることが口先だけのものであることを内外に公言していることを知るべきだろう。
 新社会党が改憲を阻止するために共闘の話し合いをする窓口をつくってほしいと申し入れると、窓口作りさえあれこれの理由をつけて拒否し、その態度に多くの批判が寄せられると、あわてて社民党のところへ共闘の話し合いに行く。話し合いに行った直後には、社民党へ何の断りもなく一方的に記者会見を開いて社民党との共闘云々について発表する。その後はまったくのなしのつぶてで、こうした指導部の態度のどこに真剣に改憲阻止で運動している姿が見えるのか。
 「平和共同候補」運動への対応についても同様である。護憲のための選挙共闘より、草の根の護憲運動の方が大事だと馬鹿げた対立を作り出しては護憲派国民との連帯を拒否している。愚かさもきわまれりである。

9、日本共産党の歴史で回避された総括と二つのDNA
 共産党は、歴史の節目ともいうべき肝心かなめの時に逆の対応をとる。捨て身で戦わなければならない時に亀の甲羅に閉じこもる。
 この党は長い歴史を持ちながら、自力で歴史を転換させた経験がない。身に染みた経験としてあるのは二度にわたる党の壊滅である。ひとつは戦前、もう一つは50年代初頭の武装闘争である。いずれも国民から遊離した政治方針・政治戦術を採った結果であった。しかし、この党は壊滅の原因について、そのような総括をすることなく、党中央の「団結」=組織維持ということに絶対的価値を置く一面的な総括を行ってきたのである。
 党の壊滅がトラウマとなり、異論の余地を残さない党中央の「団結」=組織維持という至上命題がこの党の幹部にDNAとして伝承され、かつ独裁的な「民主集中制」という特異な組織原理に結晶している。
 国民との遊離という本来の総括を逸した他方の結果は国民への根強い不信感というDNAを抱くことになったということである。戦前、正義の戦いをする共産党を国民は見殺しにしたのだという不信感。国民と遊離した党に問題があったことが逆の認識になる。壊滅という事実をめぐる原因と結果が逆になる。党が国民から遊離したのではなく、国民が共産党を見殺しにしたのだ。
 国民が党を見殺しにしたという逆の認識があって、はじめて壊滅した戦前の党活動にまばゆいばかりの「栄光」という評価を与えることができるのである。戦前の共産党史に詳しくなくても常識的に考えれば、党員・小林多喜二ならざる壊滅した党の栄光とは限定的なものというほかないのである。戦前のまばゆいばかりの「栄光」という評価の背中には、国民への不信感がべったりと張り付いている。
 この不信感ゆえに、共産党指導部は何であれ、自己の誤りを国民に謝罪(自己批判)することを拒否するのである。戦前の壊滅は、治安維持法による弾圧のせいであったし、50年代の武装闘争は分裂した党の一部(分派)が犯した誤りで、再統一後の指導部には何の責任もないと、党史を偽造してまで自己正当化をはかるのもその表れである。国政選挙で大敗北しても、党の方針に誤りはないのである。この党がおのれの遂行した政治の結果に責任を負うことはない。
 共産党にあっては敵よりも身内から出た「裏切り者」へのほうが憎しみが深くなる。戦前の転向者への峻厳な対応も同じ現れであった。最近では、「転落者」という時代錯誤の用語で筆坂を非難したことにも、かのDNAの片鱗を見ることができる。
1993年、引退を目前にした議長(当時)宮本が言い出して、突如として37年も前の丸山真男の批判(「戦争責任論の盲点」)に反批判をはじめた理由もここにある。国民と遊離した政治方針・政治闘争で壊滅したことを総括しないのかと丸山に批判されていたからである。
 宮本最後の「仕事」が丸山批判であったことは象徴的で、私があえてDNAという用語を用いる理由でもある。
 こうした二つのDNAをもつ指導部だからこそ、国政選挙で5連敗しても、改憲という歴史の節目でも亀の甲羅に閉じこもっておれば党が壊滅することはないと考えているのであろう。 だが、今度は武装闘争ならぬ亀の甲羅戦術で壊滅の危機を迎えているのだと指摘しないわけにはいかない。理由は同じく、国民と遊離した政治方針だからである。
 二つの壊滅への科学的で正しい総括しなければ、同じ欠陥はいつまでも残って再発する。党勢拡大一本槍の政治方針・選挙戦術では護憲派の国民から見放されるばかりである。
 時代の節目はやはり、共産党にも回避してきた党史と運動史の総括を迫っていることを知るべきだろう。共産党は自党と世界の共産党の歴史に学べ。ヒットラーが政権を掌握する過程で、ドイツ共産党の採ったセクト的対応が、青年層を捉え損なったこととともに問題にされていたことを思い出すべきである。