投稿する トップページ ヘルプ

「現状分析と対抗戦略」討論欄

無党派層の青い鳥-小泉とムバラクの圧勝に寄せて(上)

2006/09/12 丸 楠夫 20代 医療関係

 はじめに

 「個人的に今回の選挙結果は、55年体制に変わり2005 年体制が生まれたと認識している。」(公明党衆議院議員遠藤 乙彦)
 「(郵政民営化法案が衆院本会議200票の大差で可決され たのを受け)解散・総選挙がなければこんな結果にならない。 まさに2005年体制の幕開けだ。」(自民党国対委員長-発 言当時。現政調会長-中川秀直)

 前年9月11日に行われた総選挙が、現代日本政治に大きな 衝撃を与えたのは疑い得ない。だが、そこに「2005年体制 」といえるほどの新しさが本当にあるだろうか?
 小泉自民党と構造改革路線の圧勝は、まさしく、国民がこぞ って、嬉々として国営郵政事業の棺に打ち込んだ最後の釘であ った。一方、それからさかのぼること19年前、国鉄もまた、 国民からその棺に事実上最後の釘を打ち付けられていた。86 年7月の衆参同日選挙における中曽根自民党と土光臨調路線の 圧勝によって、である。
 今回、9.11総選挙を、「時代の転換」「新しい事態」と してではなく、過去からの連続した事態のひとつの頂点として 見る事で、もう一度9.11総選挙について少しでも多くの人 に振り返ってもらえれば幸いである。

 1
 2005年9月11日行われた総選挙の少し前、一足早く、 もうひとつの選挙の結果が日本の有権者にもたらされた。
 エジプト大統領選挙の結果である。
 この選挙において、現職のムバラクは、得票率80%という 圧倒的支持を受け大統領に7選されたのだった。ちなみに、こ の選挙の”投票率”は30%だった。
 遠く海を隔てたエジプトの地で、現職大統領が投票率30% の選挙で得票率80%で圧勝してから程なくして、わが国では 、小泉純一郎率いる自由民主党が、日本の国政選挙では近年ま れに見る高投票率のもと、圧勝したのだった。9.11総選挙 の投票率67.51%(小選挙区。比例は67.46%)は、 投票時間の延長や期日前投票制度の導入(98年参院選。00 年衆院選)といった、単なる投票方法の改善といった要素を一 切抜きにして、初めて、93年衆院選(投票率67.26%) 以降の国政選挙の投票率の低下傾向を本格的に打破するものと なった。
 これは、保守二大政党体制の確立=民主党への非自民票ない し非与党票の集中、がほとんど目に見える投票率の上昇を伴わ なかったのとは対照的である。
 民主党は2003年衆院選以来、着実に、自民党に代わりう る唯一の政党として成長し、2004年参院選比例区において は、自民党を抜いて比較第一党の地位さえ奪い取ったのだが、 それも、この小泉自民党の圧勝に比べれば、低い投票率のもと での相対的優位に過ぎなかった。民主党はその政策や存在意義 (自民党に代わって政権を担いうる唯一の党=政権準備政党で あること)によって投票率そのものを押し上げることは-つま り、93年以来、投票自体を、政治参加自体を放棄してきた層 までもを、自らに引き付ける事は-ついにできなかった。だが 、9月11日における小泉自民党は、その政策(郵政民営化と それに代表される「構造改革」)やその存在(「抵抗勢力」を 粉砕する改革推進勢力であること)自体が、投票率全体までを も押し上げるほどの支持を集めたのである。
 しかし、このような違いはあっても、それでも、ついこの間 までの民主党の躍進と今度の小泉自民党の圧勝とには、やはり 通底するものがある。一言で言えば、民主党の躍進をもたらし た状況、それこそが、同時に小泉自民党のここまでの圧勝を可 能にしたのである。

 2
 今度の自民党の圧勝、あるいはこれまでの民主党の躍進の推 進力となったのが、いわゆる無党派層であることは衆目の一致 するところであろう。では無党派層とはいったい何なのか?そ れを考える上で、ここでは原仙作氏の「現状分析と対抗戦略」 欄05年8月5日付け投稿「2005年の都議選と日本共産党 (上)」より、無党派層について述べられている箇所を引用す る。なぜなら、そこで語られている無党派層像が、同時に世間 一般に広く受け入れられている、無党派層の一つの理念型を示 していると思われるからである。

「・・・彼ら(無党派層のことー引用社中ー)の認識の核心に あるのが、彼らの民主主義感覚(直接民主主義指向)であり、 あえて言えば「自己決定」の思想なのであって、社会主義国の 崩壊以来、強固に形成されてきた思想なのである。・・・ネッ ト上で情報を収集し、意見交換を行い、自己の政治判断を決定 しようとする国民の誠意自意識は高く、侮れない知識と情報の 担い手として登場してくることを理解するべきである。長年に わたって無党派層の投票行動を研究してきた橋本輝和。政策研 究大学院大学教授は次のように言う。  「冷戦の終結、バブル経済の崩壊等の経験によって戦後60 年近い さまざまなイデオロギー的束縛を離れて、自分自身を 見つめなおそ うと目覚めて言った日本人は、改めてし全体で の自分の価値観、自 分の情報感覚というものについて考える ようになった。それは自分 なりの主体性を取り戻そうと必死 にもがいている姿として捉えたい。」(「無党派層の研究」6 2ページ。中央公論社、2004年。)

 さて19世紀の人であるマルクスは、その著書「資本論」で 次のように述べている。

 「工場内規には、資本家が彼の労働者に対して振るう専制権 力が、 私的法律として身勝手に表現されている。そこには通 例ならばブル ジョアジーに愛されている分権についての規定 も、あるいはもっと 愛されている代議制度についての規定も 見当たらない。」

 と。21世紀も早数年が過ぎようという今日に至ってなお、 わが国の労働現場には、ドイツに見られる、従業員の選挙によ って選ばれた委員によって構成され、経営者に対し解雇等、労 働者としての権利に直接かかわる個別の案件について一定の権 限を有する「従業員代表委員会」のような、限定的な「分権」 「代議制度」すらなく、いわんやより本質的な「民主主義感覚 (直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」が入り込む制 度的余地も存在しない。日本の有権者数約一億人に対し、役員 を除く雇用労働者数は約5千万人という。この5千万人の中に は未成年者等、有権者でないものが含まれているにしても、日 本の有権者の半分近くが雇用労働者であることは間違いない。 したがって無党派層が有権者全体に占める割合とそう変わらな い割合で-と言うことはかなりの割合で-雇用労働者の中にも 無党派層が形成されている、と推定して-そう不自然な推定で はないだろう-以下、しばらく論を進めてみよう。
 19世紀のブルジョアジーなどとは違い、無党派層にとって 「民主主義感覚(直接民主主義指向)」と「自己決定」の思想 」は「愛」などといった情緒的なものを通り越して「認識の核 心」「強固に形成されてきた思想」の域にまで達している。し たがって、自分たちにとってもっとも身近で、現にその生活時 間の大半を占めているはずの自身の職場、労働現場に老いてこ そ、まず真っ先に「民主主義感覚(直接民主主義指向)」と「 「自己決定」の思想」を断固として確立し、全面的に展開しな いことには”いられないはずである”。もちろん、実際に職場 に「民主主義感覚(直接民主主義指向)」や「「自己決定」の 思想」が確立されるまでには、数々の困難に満ちた長期にわた る闘争が伴うであろう事は容易に想像がつく。だから現時点で 、全国の多くの職場においてなお「民主主義感覚(直接民主主 義指向)」についても「「自己決定」思想」についても、ただ それを戦い取ろうと「必死にもがいている姿」ばかりが「捉え 」られるだけで、現実の成果としては一向に「捉え」られない としても、これは仕方ないかもしれない。
 だが実際に今日のわが国の労働現場を見渡したとき、「民主 主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」の成 果だけでなく、それらを求めて「必死にもがいている姿」まで もがほとんど「捉え」られないの一体どうしたことだろう?
 もちろん、そのような「もがき」が皆無だとは言わない。し かしまれに捉えられたにしても、それが-選挙のたびに無党派 層が見せ付ける、あの膨大なパワーとは比較しないにしても- 細々とした、あるいは散発的なものにとどまっているのは、一 体どうしたことだろう?
 フランスのある文学者は、

 「この大失業時代に、こんなに多くの職場で(大学生や高校 生だけ ではない)、賃上げのためのストライキではなく、業 務の良好な遂 行のため、そして時には人々の安全のために不 可欠な人員を確保す るためにストライキをやっているという 、この状況はまともな話で はない。」(ヴィヴィアンヌ・フ ォレステル 金塚貞文訳「経済の 独裁」光芒社)

 と言って自国の惨状を嘆いているが、わが国においては「業 務の良好な遂行のため」「人々の安全のために不可欠な人員を 確保するため」のストライキすら「こんなにも多くの職場で」 まったく存在しない。フランスとは違い、日本では「業務の良 好な遂行のため」や「人々の安全を確保するために不可欠な人 員」は十二分に確保されている、とも思えないから「この状況 は」フランス以上に「まともな話ではない。」そういった種種 の「不可欠な人員」の確保を往々にして軽視しがちな資本の運 動や経営の理論に対し-就業規則に「分権についての規定も」 「代議制度についての規定も」ない以上-団結、集会、デモ行 進、そして場合によってはストライキをもってしてでも、自ら 声を上げ、要求を実現させるべく「必死にもがいて」見せるこ とこそが、無党派層が「認識の核心」「強固に形成されてきた 思想」とするところの「民主主義感覚(直接民主主義指向)」 「「自己決定」の思想」にかなった行為と言うものではないだ ろうか?
 それなのに、雇用労働者としての無党派層は、成果主義賃金 、裁量労働制、世紀雇用から非正規雇用への置き換え、時には 不当解雇も伴う陣削減、長時間の過度労働(しかも対価の支払 われない!)等々を多くの場合黙認することで、もっとも身近 な職場における「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自 己決定」の思想」の成立する余地を日々ますます破壊されるが ままに任せ、のみならず、自らと自らの仲間を、うつ病、過労 死、過労自殺にまで追いやっている。
 まるで雇用労働者の中には無党派層などほとんど存在しない かのようである。
 もしかしたら、雇用労働者の中には相当数の無党派層がいる はずだ、という最初の推定が間違っていたのだろうか。無党派 層のほとんどは現役引退世代や、自営業者や、専門職等の自由 業者といった非雇用労働者によって占められているのだろうか 。職場における「民主主義感覚(直接民主主義指向)」や「「 自己決定」の思想」がおざなりにされているように見えるのは 、無党派層の大半が雇用労働の当事者ではなく、それゆえ雇用 労働現場における「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「 自己決定」の思想」の問題に無知ないし無関心だからなのだろ うか?
 いや、そんなことはないはずである。
 何しろ、無党派層の「政治意識は高く、侮れない知識と情報 の担い手」でもあるのだから、たとえ自分自身が雇用労働者で なくとも、

 「よく「民主主義の根っこは職場にある」といわれる。雇用 労働者 が多数を占めており、その生活時間の大半が職場にあ ることを考え れば、職場の空気がこの国を支えていくことは 間違いない。」(島 本慈子「ルポ解雇」岩波新書)

ことは十分に理解しているはずだし、当然、雇用労働者が現在 おかれている、「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自 己決定」の思想」からは程遠い状況についても熟知しているは ずである。したがって、非雇用労働者無党派層の「認識の核心 」「強固に形成されてきた思想」が、雇用労働現場における「 民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」 を求めて「必死にもがいている姿として」はっきりと「捉え」 られるのは、実に自然なことである・・・。
 だが、その自然なはずの「姿」が、現実にはなかなか「捉え 」ることができない。この不自然さは一体何に起因するのだろ うか?

 (下)に続く