人文学徒さん、お久しぶりです。
先日は、北朝鮮問題に関する私の投稿への言及をありがとう
ございました。
家庭の事情、仕事の事情から、できることが非常に限られて しまっているので、6月頃にちょっと触れた原剛編著『中国は 持続可能な社会か-農業と環境問題から検証する-』も、途中 まで読んでそのままになっています。しかし、退耕還林政策の 問題点はその前半部分に触れられていたので、人文学徒さんの 問題意識はよく理解できました。やすしさんの最近の言及も、 ストンと胸に落ちるものです。
ところで、人文学徒さんは、関志雄著『中国経済革命最終章 資本主義への試練』(日本経済新聞社2005年5月24日初版第 1刷刊)という本をお読みになっていらっしゃいますか。著者 の政治的な立場は、「さざ波通信」に集う方々とは正反対のよ うですが、非常に興味深い分析がされています。私も熟読して はいませんが、その「まえがき」には、次のような言葉があり ます。
> 一九七〇年代末、改革開放政策に転換してから、中国は年 平均九%という高い成長率を遂げてきたが、これは社会主義を 堅持したのではなく、それを放棄した結果である。民営企業の 成長と国有企業の民営化の進展に象徴されるように、中国は資 本主義に向けて疾走しており、すでにもはや社会主義ではない という段階に達している。
社会主義から資本主義への移 行は、計画経済に代表される旧体制を壊し、新体制を確立する ことである。この過程において、東欧・ロシアでは、経済危機 や所得の二極分化を経験してきた。程度の差はあるが、中国も 同じような課題に直面している。(中略)
中国経済の現 状は、政府の公式見解では「社会主義の初級段階」に当たると 説明されているが、労働者階級と資本家階級が同時に創出され ていることから、資本主義の初級段階、すなわち「原始資本主 義の段階」に近い。その行き着くところは、社会主義の高級段 階ではなく、資本主義の高級段階とも言うべき「成熟した資本 主義の段階」であることは間違いない。しかし、資本主義の高 級段階は、その初級段階と違い、人治より法治、独裁政治より 民主政治、さらには、所得???の再分配による貧富の格差を是 正するための制度を前提としており、その道は必ずしも平坦で はない。
ずっと以前に、さつきさんとのやり取りの中で、中国やベト ナム、キューバの社会体制に関する認識が付随的論点になった ことがありました。その際私は、現代中国を念頭に置いて議論 をしていましたが、ベトナムなどについては、基本的には中国 とは違った見方をすべきだとも考えており、さつきさんがベト ナムに期待を寄せていた気持は、当時からよく分っているつも りでした(キューバについては不知)。
何清漣氏が指摘する(ちなみに、関志雄氏の著書の中でも、 『中国現代化の落とし穴 噴火口上の中国』が引用されていま した)閉鎖的利害共同集団や賄賂政治という、「アジア的」な 共通欠陥は、この日本も含めて感じられますが、その「行き着 くところ」は、まったく違って来うるというのが私の印象です 。
現代中国にしてみても、ベトナムと同じような意味でのソフ ト・ランディングが望まれることは当り前ですが、やはり何か 、人口があまりにも多すぎるせいか、ひとりひとりの人間を大 切にする発想が、政権担当者らにあまりに乏しすぎることが、 悲観的評価に連動してしまいます。
川上慎一さんなどは、社会保障の充実と生活格差の不存在な どを指摘されて、「旧ソ連・東欧の社会主義には、大きな問題 もあったが優れた点も少なくなかった」という感じの総評を述 べられているようです。
この点に関しては、結局旧政権のおしなべての倒壊という結 果は、「人はパンのみにて生くるものに非ず」という真理を明 確に示したと私は思っています。「これほどの利点があるのだ から、多少の問題点は、社会体制自体を破壊することなく漸進 的に改革していけばよかったのだ」というのは、あの「倒壊」 が、当該社会自身が持っている客観的矛盾の「解決」として出 現した(それが仮に「反革命」であれ~私はそうは思いません が…)事実を、過小評価していると思っています。やはり、当 該社会体制の根本的変革、日本共産党としては「掌を返す」と いわれるだけの評価の変更、が、不可避だったと思われるので す。ただ、それを深い総括もなしに行うことが、鉄面皮になる のだと思います。
約20年前の「ソ連・東欧の激変」の時にも痛感したのですが
、なぜこれらの国家社会の中に、おしなべて真の「社会主義的
改革派」ともいうべき政治潮流が確固として成長しなかったの
か、を、私はずっと考え続けてきました。民衆の人権・民主主
義への要求は、あれほど激しいものだったのに、大体において
「ゆりかごと一緒に赤ん坊まで流してしまう」結果となってし
まい、その後拝金主義者らが大きな顔をして跋扈する社会がロ
シアなどでは顕著です。
「社会主義の70年」は、このような人間形成しかなしえな
かった、ということを、直視する必要があると思っています。
当事者である人間は、「社会主義」時代に人間形成をした者だ
からです。
その決定的な要因と考えられるのは、やはり言論の自由と民
主主義の抑圧だと思っています。もしも、情報の自由な流通が
外国からの情報をも含めて徹底的に保障されていたら、民衆の
中に資本主義に対する強い幻想は生まれなかったでしょう。ま
た、政治活動の自由と職場・地方政治・国政への意見反映が保
障されていたら、「社会主義改革派」の政治潮流が必ず出現し
ていたでしょう。
そうした要素を不可分にビルトインさせた「社会主義像」の
再構築が、いま求められているのだと思っています。何だか脱
線気味で済みません。