お返事有り難う、とても嬉しかった。大事な議論がされていますし。
さて貴方が以下のように語られる内容は全面的に賛成です。
【社会保障の充実と生活格差の不存在などを指摘されて、「旧ソ連・東欧の社会主義には、大きな問題もあったが優れた点も少なくなかった」という感じの総評を述べられているようです。この点に関しては、結局旧政権のおしなべての倒壊という結果は、「人はパンのみにて生くるものに非ず」という真理を明確に示したと私は思っています。「これほどの利点があるのだから、多少の問題点は、社会体制自体を破壊することなく漸進的に改革していけばよかったのだ」というのは、あの「倒壊」が、当該社会自身が持っている客観的矛盾の「解決」として出現した(それが仮に「反革命」であれ~私はそうは思いませんが…)事実を、過小評価していると思っています。やはり、当該社会体制の根本的変革、日本共産党としては「掌を返す」といわれるだけの評価の変更、が、不可避だったと思われるのです。ただ、それを深い総括もなしに行うことが、鉄面皮になるのだと思います。】
【「社会主義の70年」は、このような人間形成しかなしえなかった、ということを、直視する必要があると思っています。当事者である人間は、「社会主義」時代に人間形成をした者だからです。】
さて、杞憂かも知れないけど一言。ここでご批判されるような立場で僕は中国問題を見ているのではありません。純粋に「世界の大問題」と考えているだけです。直しかたは、民主集中制の廃棄、社会民主主義的に実践的な党という以外には言えることは少ないですが。
こういう貴方の「社会主義」問題意識に触れて、哲学問題としてさらに一言。「上部構造の相対的独自性」、「土台への反作用」と語られてきたものが全く具体化されなかったということではないでしょうか。実践的にはもちろん、理論的にも全く弱い視点だったと。反作用と言える物で強調されたのは、「認識」だけだったと考えています。これでは存在の問題としては、もう「勝負が着いている」と語っているのと同じです。その事を僕はこのさざ波でもいつも、こう批判してきました。土台の視点が強すぎる経済決定論の一種で、そういう客観主義的哲学であると。
ここでは僕はいつも、敗戦直後に雑誌「世界」の座談会に始まった当時のマルクス主義(的)哲学者たちの「主体性論争」なるものを思い出します。真下信一と丸山真男が、古在由重、村松一人、清水幾太郎などに対して行ったものです。なお、僕は真下信一の不肖の弟子でして、この論争については主体性を強調した側の立場を、教えを受けていた当時はほぼ感性的・直感的にですが支持し、80年代から理論化を始めて、現在はそれが確信になったという体験を持っています。
今後の討論を実り豊かな物にしたいという、簡単な自己紹介でした。