1、はじめに
私の見る無党派層についての見方に対立する見解(現状分析欄「無党派層の青い鳥
-小泉とムバラクの圧勝に寄せて(上)(下)」丸 楠夫)が投稿されているので、
この機会に無党派層をどう見るか、その歴史・理論的根拠について改めて考えてみた
い。この問題は、広く視野を広げれば、社会主義世界体制の崩壊後の現在の世界情勢
を理解するうえでも、日本の政治情勢を理解するうえでも、非常に重要な意味をもっ
ている。そのことは6年前に出版され評判にもなったネグリ、ハートの大著『帝国』
(2000年)で打ち出された新しい社会変革の主体「マルチチュード」なる概念を
想起するだけでもおよその察しがつくであろう。ネグリ、ハートの議論は世界史的範
疇を無理に作り出そうとして思弁的なのだが、ここでは具体的である。
無党派層は現在の日本の政治情勢の特徴を一身に体現する存在で、その把握を見誤
れば全政治情勢の核心をとらえ損なう、言わば、政治戦略の試金石たる存在なのであ
る。しかし、旧来の共産主義運動の側は古い理論の枠組みにとらわれて、この無党派
層の歴史的役割をとらえ損なっており、その結果として、政治情勢を打開する道をみ
ずから閉ざし、自らを窮地に追い込む一方、巨大与党の誕生を許し改憲の危機を迎え
ているのである。
議論展開の素材として、上記投稿(以下、「青い鳥」と呼ぶ)を利用させていただ
くことにする。
2、対立する無党派観の要約
では、本論にはいるとして、「青い鳥」の見解を要約すれば次のようになる。これ
までの諸党派のイデオロギーを離れて、自分の頭で考え、その行動を決定していこう
とする無党派層の台頭は国政選挙に大きな影響を与えているが、しかし、この無党派
層は日常生活の場である職場では個々に分断され連携のない無力な個人となってい
る。職場でたたかうことができない。
この無党派層が、まとまった力を発揮できるところは投票行動だけで、それ故に、
その政治的代弁者を既存の政党から選び投票することになる。ところが、その政治的
代弁者はさまざまな仮象を演出しては無党派層の票の取り込みをはかっている。
2005年以前は民主党であったし、2005年総選挙では小泉であった。このよう
に変遷していく無党派層は、自己決定の思想を持ちつつも政治では代弁者を選ぶしか
手のない動揺的な存在でしかなく、職場においては無力な存在であることを考え合わ
せると、自らを政治の主体として押し出す力はない。
要するに、私が無党派層の存在を時代の新しい動因として積極的にみているのに対
し、「青い鳥」は逆に無党派層をその実情から積極的なものとして見るにはあまりに
も欠点が多い存在で、とても新時代を切り開く主体と見ることはできないと言われて
いる。
3、検討を進めるにあたっての無党派層の区分
無党派層を見る「青い鳥」と私の違いを検討するに先立って、あらかじめ、次のこ
とに注意しておきたい。投票に行く従来の無党派層・約1200万票と昨年の総選挙
で新たに増え、その大半が小泉に流れた800万票を一括しないで別個に取り扱うこ
とにする。その理由は投票行動が明確に違うからである。「青い鳥」の見解では両者
は一括されているが、私の検討対象は従来の1200万票の無党派層である。
これまでの無党派層の票は1200万票前後で、昨年の総選挙でも、その大半は従
来の投票行動をとったものと推定される。民主党の総得票数は比例では100万票
(前回の4.5%)減ったにすぎず、小選挙区では前回より300万票増えている。
民主党が惨敗した東京の小選挙区でみても、各小選挙区の総得票は239万票で、前
回より1万票減っているにすぎない。これに対して、自民党は100万票増やして圧
勝しているという関係にある。それゆえ、投票に行く従来の無党派層の多数が民主党
から小泉へ移動したわけではないのである。先に革新的無党派層が登場してきて、小
泉が保守的な「新無党派層」を新たに掘り起こしてきたと、さしあたってとらえてお
けば足りる。
マスコミ報道は、両者を区別なく無党派層として一括して出口調査をするので、民
主党へ投票した無党派層比率の減少分がそのまま自民党へ流れたという解説になるの
である。 新たに掘り起こされた800万票のうち、一過性のものがどれくらいあ
り、新保守層というべき票がどれくらいなのか判別しなければならないが、その辺の
ことは、まだよくわかっていない。が、印象的な区分けをつけ加えておくと、従来の
1200万票の多数派は崩壊した社会党を中心に野党に投票してきた人たちであり、
政治に関心があり、一定の政治知識と投票経験を積み重ねてきた革新的な層であるの
に対し、小泉が新たに掘り起こした層はそれこそ政治の新人たちである。投票経験が
なく、政治知識もなく、政治にほとんど関心がなかった人が多く、生活の没落感を
ベースにしたその鬱屈した心理を小泉劇場政治にかき立てられて小泉自民に投票した
層である。この層の先端部分は政治的無関心から一気に右翼的な心情を抱くにいたっ
た青年層である。昨年の総選挙で二つの無党派が出そろったのである。
4、私のイメージする無党派層
なお、議論をわかりやすくする手だてとして、私の持つ無党派層のイメージをあら
かじめ形象化しておくことにしよう。前項で述べたように、私の言う無党派層は、最
初から選別的で、「支持政党なし層」という形式的概念でくくった人間集団ではな
い。一般には「支持政党なし層」は有権者の過半数と言われ3500万から4000
万人と見られている。そこには形式的な分類で見て、通常は棄権する層、気が向けば
時々投票する層、そして、通常は投票する層がある。私の言う無党派層の主力はこの
3分類の中の最後の分類集団に属している。これが約1200万票前後ある。これら
の3分類からなる「支持政党なし層」という意味での無党派層は、それこそ、いつの
時代にもあったもので、時代の変化と共に多様な様相を帯びていくのだが、その多様
な様相を記述・分類し、政治史的な意味づけをするのは学者の仕事で、我々がその多
様な様相からどのような特徴を選別し、どのようなグループを取り上げるべきかは、
実践の視点を持つことなしには不可能なことである。この点は政治活動をする者には
非常に重要なことなのだが、客観的認識というと、往々にしてこの視点が抜け落ちて
無党派層=「支持政党なし層」という観念に引きずられてしまうのがふつうである。
「支持政党なし層」は雑多なカオスで、時に応じてくるくると投票態度を変える柔
軟性があり、とらえどころがなく、既成政党にとっては恐怖の存在だ云々というマス
コミに典型的な見解になりがちなのである。こうした見解の延長線上に、政党による
票取りの対象として無党派層が対象化される。なお、この1200万票前後の無党派
層を職業別に分類したデータなどがほしいところであるが見あたらない。推測で言う
ほかないが、日本の職業構成比率を基準にして見ると、都市勤労者の比率が高く、相
対的に高学歴の職業層が多いのではあるまいか。
前口上はこれくらいにして、私の言う無党派の主流(多数派)は90年代に社会主
義世界体制の崩壊、日本経済のバブル崩壊、日本社会党の崩壊という3大崩壊を契機
に政治に登場してくるもので、1995年の都知事選で青島都知事を生み出し、
1998年には共産党を躍進させ、2000年以降は民主党を「二大政党」の一角に
押し上げている反小泉の政治革新派である。その思想的な核は同心円型ではなく楕円
形となっており、楕円形の核の左の端に、たとえば「平和共同候補」運動に賛同する
人達がいるというイメージだと思ってもらえばいい。今はやりのブログでいえば、多
くの読者を持つ「世に倦む日日」がそれにあたる。その主張の思想的立脚点は憲法に
体現された戦後民主主義であり、これが楕円形の核の中心にくる。
5、対立する見解の概観
さて、「青い鳥」と私の対立を概観してみよう。表面的にいえば、私が無党派層を
新しい可能性を持つ存在として、その可能性に重点を置いてみているのに対し、「青
い鳥」はその現状に重点を置いてみている。一般的に言えば、まず、現状がどうなの
かが問題になる。その点では「青い鳥」が指摘する無党派層の弱点(職場闘争の欠
如、企業における孤立、党派としての主体の未成立)はそのとおりであろう。しかし
また、この無党派層という存在が、現実の政治に大きな影響を与えていることも否定
できないことである。
現在の政治に大きな影響を与えている積極面とその可能性を重視するのか、それと
も、現実に見える弱点を重視して見るべきなのか、その根拠はどこにあるのかという
ことが問題になる。
私は、以前の投稿で述べたように、その自立的意志決定(自己決定)の思想に新し
い政治・社会運動の可能性を見ており、その点に重点をおいて評価するべきだという
考えに立っている。一つには、社会主義諸国の崩壊や社会党の崩壊という現実が、既
存の政党や他人の言うことを無批判に受け入れていてはダメだということを教えた結
果として生まれてきた歴史的生成物であること。二つには自己決定の思想は民主主義
の個人における中核思想であること。戦前来のリベラル派知識人がその存在の欠如を
嘆いた「市民社会」の担い手が登場したのである。第3は、今後どのような経過を辿
るにしても、国民の民主主義意識に依拠することなしには社会変革の大事業は成功し
ないということ。第4に、これまでの共産主義運動が時代へ対応できなくなりつつあ
ることが理由としてあげられる。
「青い鳥」の見方は、おおむね、これまでの共産党や他の共産主義者達が抱いてき
た見解と同じものである。この見解の共通点は、無党派層の政治運動を中間階級(小
ブルジョアジー)の政治運動と押さえたうえで、その政治的見解は強固なものではな
く、右にも左にもぶれやすく、階級的な主体性を持つことができないと見る。その政
治的動揺性と分散性はこの中間階級の本姓ともいうべきものであって、ブルジョア階
級と労働者階級の間を動揺し、終局的には、両者のどちらかに分解吸収されるか、そ
れとも階級闘争から脱落していく。このような見方はマルクスやレーニンがその政治
運動の中で作り上げてきた見解である。
参考までに、新日本出版の「社会科学総合辞典」から「小ブルジョアジー」という
項目を拾うと次のように記述している。
「小所有者階級のこと。主として農民・手工業者・小商人などの独立自営業者からな る。また、現代では開業医師、弁護士、税理士などの都市勤労市民層も、これにふく まれる。彼らは、わずかではあるが生産手段および消費手段を所有するので私的所有 者としての意識を持つが、他面ではみずから労働する勤労者であり、その生活状態も 賃金労働者とあまりかわらず、またたえず没落する危険にさらされている。そのため 階級的には、彼らは、私的所有者として資本主義社会を擁護しようとする面がある が、勤労者としては労働者階級にちかい立場にあるという二重性を特徴としている。 社会的には個々に孤立し分散しているため、団結しにくい。だが、資本主義が帝国主 義の段階に入り、独占資本による支配がひろがるとともに、独占資本と小ブルジョア ジーとのあいだでの矛盾が深まり、連帯、団結の方向も生まれ、今日では労働者階級 の同盟者になる可能性が強まっている。」
「青い鳥」の指摘する無党派層の欠点や政治的動揺性、主体性の欠如は、この辞典 の説明とピタリと符合していることがわかるであろう。「青い鳥」では小ブルジョア ジーという用語を使っておらず、無党派層の過半が賃金労働者であろうと推測してい るが、その政治運動を小ブルジョアジーの政治運動と同質のものとして理解している と見て間違いないであろう。
6、対立する見解の二つの原因
この評価の違いを引き起こす原因は二つある。一つは歴史としての現代の位置につ
いての認識の違いであり、もうひとつは無党派の現状を分析する方法の違いである。
まず、分析方法の違いから言うと、無党派層の弱点を重視する「青い鳥」の方法
は、定型化した政治闘争の観念図式に乗せて分析していることである。この観念図式
はどういうものかと言えば、すでに述べたように2大基本階級の政党として支配的ブ
ルジョア政党と共産党を両極に置き、その他は政党であれ、無党派層の政治運動であ
れ、それらすべてを中間にある政治運動として、最終的には階級闘争からドロップア
ウトするか、両基本政党のどちらかの陣営に合流するか分解吸収されていくものと見
る考えかたである。中間にあるものは主流にはなれない。マルクス主義の階級闘争論
からすれば、こうした政治闘争の一般的観念図式が生まれてくる。この分析ツールを
用いると、現在の無党派層はやがて両極分解を遂げるものであり、その積極面も共産
党陣営に移行していく場合にのみ生きることになる。しかし、現状では、その傾向を
示していないのであるから、弱点の方がクローズアップされるということになるわけ
で、「青い鳥」の見解がそれにあたる。つまり、上の辞典の記述からできあがる観念
図式を現実に適用して、現実に我々の目の前にある無党派層を理解しているのであ
り、その適用が現実の無党派層の特徴とも矛盾しておらず、やはりその特徴的な欠陥
が指摘できるというわけである。
次に、見落とすことができないのは、この観念図式の適用は、適用する分析者が意
識すると否とに関わらず、次のことを分析の前提にしているということである。すな
わち、現状はこの観念図式で分析できる現状だということである。いわば、マルク
ス、レーニンの時代と現代は地続きのものである、あるいは、もう少し現代に引き寄
せて言えば、戦後は地続き、あれこれの政治経済の変化はあれ、70年代も80年代
も21世紀の現代と地続きであるという歴史認識を前提にしている。資本主義が支配
的な生産様式となった社会では普遍的に、歴史貫通的に適用できる分析ツールなのだ
という認識を前提にしている。
しかし、政治闘争の領域では社会主義諸国が崩壊して以降、この地続きの連続性は
断ち切られている。かの崩壊以前は、まがりなりにも共産主義は一つの理想でありえ
たものが、理想としての地位を決定的に失墜したということ、その理想は歴史の現実
となり、我々が現代史の目撃者としてその崩壊、失墜を経験してしまったということ
がある。ここに、共産主義運動にとっての歴史の断絶が生まれている。 断絶という
言葉が不適切なら、旧来の共産主義の理論、分析ツールを安易に適用できない時代の
大きな変化があったと言い換えてもいい。この分析ツール(政治闘争の観念図式)を
適用する論者はこの断絶を見ない。私の見解では、この断絶があるからこそ、この分
析ツールは適用できないのである。
7、共産主義の理想の失墜が意味するもの
そこで、共産主義の理想が失墜したことの意味を考えてみよう。この失墜は、日本
共産党がソ連の崩壊を「双手をあげて歓迎する」とか、「あれは社会主義国じゃな
かった」といったところで事態は変わりはしない。結党以来、70年も社会主義国だ
と言い続けてきて、一夜にしてその主張を否定する議論は方便というしかなく、大多
数の国民はそんな説明に納得していないのである。政治行動は人間の意識を通ずるこ
とでしか発現しないのであるから、共産党がどう認識を変えたかではなく、大多数の
国民にどう受け取られ、社会主義国の崩壊がその頭脳にどういう像を結んだかが問題
なのである。共産主義はそこに住む住人に見捨てられた国家、社会であり、これから
進むべき未来社会のモデルとしてもダメなものであるという経験に基づいた確たる像
を結んでいる。
この事実の重みについて、共産党や、共産主義信奉者はあまりに軽視している。マ
ルクスも、レーニンも予想しなかった世界史的大事件が出現したのである。それは、
どこか一国で共産主義政権がへまを犯したというレベルの問題ではないのである。共
産主義という思想そのものへの世界史的な歴史の事実に基づく批判なのである。しか
も民主主義の欠如という根本的な批判である。パリ・コミューンはマルクスに『共産
党宣言』に書かれた共産主義の一般的諸原則の一部修正を迫ったが、そのパリ・コ
ミューンの比ではないのである。パリ・コミューンはフランス全土を襲った革命では
なく、パリという一都市の反乱に過ぎなかった。それでもマルクスをして共産主義の
一般的諸原則の一部を修正させたとすれば、社会主義諸国の世界体制が崩壊したとい
うことが、共産主義理論にどれほどの修正を迫るものであるか、少しは想像してみる
べきである。
マルクス主義が成立して以来、これほどまでに深刻な批判は受けたことがないので
ある。社会主義国だと思われていた東ヨーロッパとソ連圏の国のほとんどの国民か
ら、それこそ数億の国民から一斉に愛想を尽かされて投げ捨てられてしまったのであ
る。その深刻さは共産主義運動にとって他に比べるべき事件がなく、それこそ想像を
絶する事態なのである。たとえて言えば、これまでのマルクス主義の全理論を根底か
ら覆すような大事件なのである。
かつて支配層から流されていた共産主義は「こわい」という議論などとはその批判
の深刻さがまったく違う。こうした疑うべくもない事実によって、かつてデマゴギー
のように流されていた非難も事実の基礎を得ているのである。これまで非難されてき
たことが基本的な「正当性」を得てしまったのだ。いまだに共産党員の議論に「反共
毒素」なる言葉を見かけるが、物事の変化をまったく理解できない底抜けの頭の持ち
主であると言わねばならない。しかも、その批判されている論点の多くのもの(あれ
これの民主主義の欠如)は資本主義国の共産党が現在まで党の生命として抱えてきた
ものである。たとえば、党組織における「民主集中制」というもの。それだからヨー
ロッパの共産党のほとんどが放棄したのだが、日本共産党は相変わらず頑強に維持し
ているものである。他人事ではなく、思想の源流を共にするものとして、その責めを
負わねばならない事態が出現したのである。しかも、日本の隣にはこれ見よがしに、
見るも無惨な北朝鮮の現実が、日本の国民に、日々、あれが「社会主義」の現実なの
だと見せつけている。
この現代史の深刻な経験によって、大多数の国民には共産主義は改めて聞く必要が
ないほど不要なものになってしまっているのである。今なお、一定、共産党を支持す
る理由は、その社会的弱者擁護の政策と運動があるからである。国民は共産主義抜き
の社会的弱者擁護の政治運動体でいいと言っているのである。この決定的な事実を忘
れては、マルクス主義の戦略・戦術などとてもたてられないというほどの重大な政治
条件の変化が発生しているのである。国民意識に国家体制としての共産主義は不要だ
という確たる観念ができあがれば、その国民意識を通じて、社会主義世界体制の崩壊
は国内要因に転化し、政治運動を進めるうえでの国内の重要な政治的条件となってい
るのである。共産主義の政党は政権を任せる政党としては、大多数の国民の選択肢に
入らないというゆるぎない政治的条件が出現したのである。ただ、これだけの理由か
らだけでも、国内の共産主義運動は巨大なハンディを背負ってしまっているのであ
る。半身不随となるほどのハンディである。
共産主義運動の歴史は、そのような予想外の歴史段階に足を踏み入れているのであ
る。共産主義に無知な国民に共産党の真の姿を教えるという歴史段階ではなく、歴史
上に現存した共産主義国家の悲惨な現実を国民はすでに知っている。共産党以上によ
く知っているほどである。
それゆえ、共産主義運動、共産党のあり方を全面的に見直し、失墜したモデルに代
わりうる説得力のある具体的なモデルを提示できないかぎり、共産党が望むような支
持者の拡大は現れないのである。共産党の新綱領で旧来の「生産手段の社会化」を
「生産者が主役の生産手段の社会化」と言い換えたところで、歴史に現れた「生産手
段の社会化」の失敗、その悲惨の重みを爪のアカほども払拭できるわけではない。抽
象的だという点ではマルクスの時代と選ぶところがない。具体的な「生産手段の社会
化」を歴史的に経験した後では、「生産者が主役」となる具体的仕組みを示した「生
産手段の社会化」システムを国民の前に示し、「これならばすばらしい!」と国民を
納得させられなければならない。悲惨な結果を招くほかなかった歴史具体の「生産手
段の社会化」を乗り越える歴史具体の「生産手段の社会化」が提示されなければなら
ないのである。それができるのか?
それを「青写真」として、科学的ではないと回避するのは翼を失った鳥に安住する
と宣言したに等しいのである。マルクスの時代なら青写真ですむことも、社会主義社
会の70年間の実験の後では、青写真では済まないのである。
話をわかりやすくするために、共産党を鳥にたとえれば、共産主義の理想はその
翼であり、社会的弱者の利益擁護の政策と活動はその足である。共産主義の活動家を
アクティヴな実践に飛翔させる力はその翼にあった。その翼は国民の共感、支持を調
達する一方の柱でもあった。しかし、社会主義諸国の崩壊と露呈した歴史の惨状を見
た後では共産党は翼を失った鳥、足で歩くしかない鳥になったのであり、もはや、そ
の姿は本来の鳥とは言えないものになっている。それゆえ、共産主義の理想を失墜さ
せた共産主義運動や共産党は、もはや例の観念図式にある基本対抗の一極たる十全性
を備えているとは言えないものになっているのである。
翼を失えば、残るのは社会的弱者擁護の政策と運動であり、もはや、共産主義と社
会民主主義、そして(ブルジョア)民主主義は地続きのものとなる。 階級的利害の
対立が、即、対抗の基本政党として共産党を措定することを許さない現実が出現した
のである。
8、国内の共産主義運動の歴史的退潮
この無党派層は社会主義諸国の崩壊という世界史的大事件を背景に、現実を見る限
りでは旧来の社会主義・共産主義運動の歴史的退潮のうえに登場してきた存在なので
ある。
現実の過程は、成長の流れもあり退潮の流れもあり、それらが複合的にからみあい
ながら進んでいるのが常態で、その複合的な絡み合いの全体の基調が退潮として特徴
づけられるのである。共産主義の「必然」を信ずる人たちは、おのれの信念にかなっ
た現象は、それが些事であっても明日の大木に成長する芽として過大に評価する傾向
が強い。必要なことは、現在の主要な傾向、基調がどうなっているかということにあ
る。歴史的退潮の現実を便宜的に、ここでは日本共産党を中心に概観してみよう。
なお、退潮といっても、過去の社共中心の政治・労働運動が福祉重視の革新都府県
政を生み出すなど大きな役割を果たしてきたことや、今でも一定の役割を果たしてい
ることを否定するものではない。そうした一定の役割を現在でも果たしておりながら
も、全体の傾向としては退潮ということが基調となっているというのである。
(1)、まず、無党派層の個人主義思想を旧来の尺度で判定することについてであ
る。ブルジョア民主主義思想より一段進んだ政治思想としてのプロレタリア民主主義
という尺度で無党派層の政治思想の先進度を評価することが、社会主義世界体制崩壊
後の今日ではまちがっているということを力説したい。
共産党の政治的実践は無党派層より遅れてしまっている。一例を挙げれば、無党派
層の多くは政権交代を求めているが、共産党は自党の拡大だけである。「平和共同候
補」運動の登場と比較してみることも有益であろう。共産党にとって、国政を転換す
る構想と戦術は視野の外にある。この共産党の政治姿勢は、改憲をめぐる現在の政治
情勢を考えればセクト主義というありきたりの言葉では表現できないほどに想像を絶
するもので、この党の「共産主義」思想の本質、限界の露呈ともいうべきものであ
る。
政治的実践の領域では無党派層より遅れており、思想だけの比較とは逆のものに
なっている。というより、その基本思想だけの比較で先進度の度合いを測るという方
法がまちがっており、政治思想の真価はその政治的実践で判定されるべきものなので
ある。
(2)、労働組合運動もその組織率をみれば1949年をピークに長期低落傾向が
続いており、現在では19.2%にすぎない。全労連が結成されて20年近く経つ
が、それでもこの長期低落傾向に歯止めがかけられないでいる。
(3)、また、職場での闘争という点ではどうか? 独占企業の共産党職場支部自
体が後継者難でどんどん立ち消え状態になっていることは、この春に行われた「職場
問題学習・交流講座」をみればわかる。このような現状があるのに、無党派層が職場
でたたかっていないのを彼らの弱点と言えるであろうか? 弱点だと言うとすれば、
無党派層に共産党以上の要求をしていることになるであろう。 共産党が半世紀も実
践して確立できなかった職場闘争を無党派層が実践できていないと批判するのは「そ
うあるべきだ」という観念からする批判というほかない。この領域での運動は、立ち
消えになるほかなかった既存の運動形態の反省のうえに新たな運動形態の模索の段階
にあると見るのが客観的な見方であろう。
(4)、他の大衆運動はどうか? NGOやらNPOとか、市民の多様な運動が進んでい
るが、従来型の社共中心の運動は衰退の一途ではなかろうか? 社共中心どころか、
社共が手を結ぶことすらほとんどできないでいる。かつての共産主義運動の牙城・学
生運動が見る影もないのは象徴的である。連合赤軍事件からすでに30年の歳月を経
てなお復活の兆しが見えてこないのは、60年代末の「全共闘」運動の負の遺産で説
明することはできない。60年安保の大運道の挫折も10年足らずで学生運動は復活
したのである。また、昨年10月に成立した障害者自立支援法である。あの法律は稀
代の悪法というべきもので、障害者の生存権を否定する法律である。あの法律の成立
を阻止できなくて、どんな悪法を阻止できるのかというほどのもので、あの闘いほど
ヒューマニズムの原点に立って訴えられる、それこそ全ての国民を怒らせることがで
きる闘いはなかったのである。それを大きな運動にできなかったところに共産主義運
動の生命力の枯渇が示されている。
(5)、国政ではどうか? 言わずもがなの惨状にある。2000年以降の国政選
挙における5連敗は共産党史上初のものであるはずで、基礎票100万票の流出に見
られるように従来の支持者がどんどん離れている。直近の衆議院補選・神奈川16区
では、昨年の総選挙比で55%減となり、他党派に倍する減少という驚くべき事態も
現れてきた。地方選をみても画期的なものは長野県政とか最近の滋賀県政で、ここで
も共産党は無党派層の後塵を拝するばかりである。伝統ある沖縄でさえ、やっと共闘
の伝統を維持できたという水準で、全国的に見れば一つの例外というしかない状態で
ある。
なお、地方自治体の選挙ではそれほどの後退はみられないが、それは、国政ではな
く、身近な問題で弱者擁護の役割を果たしているからである。共産党は、国政での凋
落と地方自治体選での健闘のちがいの意味をよく考えてみるべきであろう。国民から
は身近な問題では支持されるが、国政上の主張が支持されないという理由をである。
(6)、思想、理論の分野ではどうであろうか? 60年代後半から70年代前半
にかけて、岩波の「思想」に対抗して「現代と思想」とか、「科学と思想」、「唯物
論」などの季刊誌が続々と創刊され、大手書店に行けば、マル経の書棚が近経を圧し
て売り場空間を占領していた時代、それと比べれば、国民文庫が絶版になり、マル・
エン全集やレーニン全集さえ古本屋でしか入手できない時代、ポスト・モダンが流行
る時代との差は、まさに今昔の感とため息が出るほどの落差である。
共産党の「科学的社会主義」が時代の変化に突き動かされて古典解釈の変更に着手
したのであるが、その変更へいたる研究がどういうものであったかは、私の二つの投
稿「レーニンが無知なのか、不破哲三が無恥なのか?」(理論政策欄、2004/9
/9)および「不破哲三の古典研究のカラクリ芝居が教えること」(同、2006/
11/4)で示したとおりである。残念ながら、そこにはくみ取るべき新しい理論的
解明は何もなかったのである。
(7)、共産党の党勢に対する私の見解に対立するものとして、最近出たものに次
のものがある。党社会科学研究所長・不破が党の若手幹部を集めて党史の講義を行
い、最大15%の目盛りを打ったグラフで戦後の国政選挙の得票率推移を表示し、無
理やりつくった右肩上がりのジグザグなグラフを「政治対決の弁証法」(「赤旗」9
月2日)と称して党「発展」の論証にしている。が、不破はグラフの目盛りも科学的
な分析ツールとしては任意ではありえないという社会科学の初歩を忘れたらしい。不
破はグラフの目盛りを虫めがねとして利用しているにすぎない。虫めがねに結んだ像
を見て、「このアリは巨大なアリだ」と言ったとしたら、人は笑うであろう。議会革
命の戦略(実践の見地!)からすれば、50%の目盛りを打つべきで、そうなると
「発展」は停滞から凋落に変貌するはずである。
1949年の9.8%から1998年の14.6%、2005年の7.2%という
流れは50%の高見からみれば停滞-凋落というほかないではないか。マルクス主義
は現実を具体的に分析するところから出発する。獲得するべきあらゆる認識の基礎で
ある。ここをおろそかにしては、全ての認識を見誤り、誤った政治戦術しか打ち出せ
なくなる。願望を分析と呼んではなるまい。白を黒と言いくるめる宣伝のツールとし
てしか理解されてない不幸な弁証法、この弁証法は、この党にあっては常に不当で不
遇な扱いを受けてきた。この弁証法の欠如の意味するところは最後に詳しく検討す
る。
ここに上げた共産党陣営を中心とする左翼陣営の大状況は、旧に復する思考や判断
基準、運動方法で挽回できる事態ではないであろう。戦後も半世紀以上が過ぎて、し
かも国民の圧倒的多数が給与生活者になっている現状で、共産党の職場支部の多くが
立ち消えていく姿はどんな理由があるにしろ、これまでの共産党・共産主義の労働運
動、政治運動の破産傾向を示しており、まったく新しい闘い方が必要になっているこ
とを示しているのである。旧来の社会主義、共産主義運動のリストラクチャリングが
必要なことを示しているのではないのか?
この総退潮の現実が、基本対抗の一角に共産党を措定する例の分析ツールの無効性
を雄弁に示しているのである。この現実のうえに翼を失った共産党の姿を置けば、上
記の政治観念図で基本対抗の1極に共産党をアプリオリに措定することができないこ
とはますます明瞭になるだろう。
それはあまりに「清算主義的な見方」だというお定まりの批判が予想されるが、で
は、主要な傾向がどちらにあるのかと反問したいところである。