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「現状分析と対抗戦略」討論欄

日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(2)

2006/11/15 原 仙作

9、左翼運動の退潮をもたらす庶民の経済事情
 そこで、少し統計上の話をすれば、日本の株式市場の時価総額は約500兆円、G DPは約550兆円であるが、昨年の個人の金融資産総額は1508兆円となってお り、世界最大の債権国の株式市場を丸ごと3個も買収できる額になっている。
 もう少し細かく見ると、個人の純金融資産を5段階に分けた最下層(3000万円 未満)3831万5千世帯(全世帯の78%)で見ても、純金融資産総額は512兆 円(日経新聞9月6日、野村総研調べ)となっている。一世帯平均1300万円、そ の総額は日本の株式市場全体を買収できる金額になる。株式総数の51%を取得でき れば、全株式資本を支配できることからすれば、大変な純金融資産である。この事実 は『イギリスにおける労働者階級の状態』を書いたエンゲルスを驚愕させるほどの事 態であるはずである。マルクスが言った平和的に資本を「買いもどす」(そのことを レーニンも指摘している。レーニン全集27巻、346ページ)ことさえ数字の上で は可能になっている。この最下層の一ランク上の層は701万9千世帯(全世帯の1 4.3%)、その純金融資産総額は246兆円、一世帯平均3500万円となってい る。
 むろん、その貯蓄は豊かとは言えない消費生活をさらに節約して蓄積したものであ り、平均1300万円の最下層の中には無貯金層約24%(「赤旗」2月5日)や1 00万世帯に達する生活保護世帯、122万の母子家庭などが含まれている。中高年 のリストラがあり、中産階級からの転落や非正規雇用の増大、経済格差の拡大も問題 になっているが、大局的に見て、最下層の純金融資産総額の50%でも、日本資本主 義を買収できる(!)ほどの経済状態では、労働者の階層化にともない、その意識も 変われば、要求の内容や運動の仕方も変わってこざるを得ないのは当然であろう。私 が全く新しい闘い方が必要じゃないのかという理由の経済的基礎がここにある。
 この日本資本主義を買収できるほどの経済状態をより良く理解するために、いくつ かの指標をあげて眺めてみよう。
(1)、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』とその続編というべき 『資本論』第1巻第5篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」にみられる労働者階 級の悲惨な生活状態=労働者階級の生活水準の古典的基準。
(2)、労働者の悲惨な生活状態を運命づける平均利潤率の成立と平均利潤率の傾向 的低下法則(『資本論』第3巻第3篇)の摘出=労働者階級に貧困な生活状態、貧困 な再生産費を強制する法則の成立。
(3)、戦前の日本経済分析の到達点ともいうべき山田盛太郎の著作『日本資本主義 分析』(1932年)は、日本の大工業における賃金、労働条件を次のように述べて いた。
 「典型的なインド以下的労働賃金および肉体消磨的労働条件」(『日本資本主義分 析』岩波文庫版76ページ)=戦前の軍・封帝国主義による日本型低賃金規定=戦前 の労働者・農民の生活水準規定。明治維新から60余年を経て、西欧帝国主義からの 悲願の自立で到達したのがこのような国民的生活水準であり、マルクス理論が鉄の必 然性をもって貫徹する様相を示していた。しかも、そのような生活水準、日本経済も 15年戦争で壊滅する。
(4)、戦後は高度成長によって、GDPは1959年の10兆円からバブル期の6 00兆円、その後の500兆円割れから現在の550兆円へと跳躍する。わずか30 年で60倍という驚異的な経済成長を達成するのである。GNP、GDP統計のなかっ た1950年頃から比較すれば、100倍にもなろうというすさまじさである。むろ ん、この数字は名目値であり実質値に換算しなければならないが、それでもこの経済 成長はIT革命が起こる以前の時代のものとしては、一国の自然成長的な経済発展の 常則を大きく突き破ったもので、冷戦という世界史的条件とそこにおける日本の位置 を考慮に入れなければ理解できないものである。
 朝鮮戦争の勃発に伴う朝鮮特需、ベトナム戦争にともなうベトナム特需はその一例 であるが、根本的にはアメリカの対日政策として、冷戦の東の最前線にある日本に対 し重化学工業の復活育成政策がとられたことである。この高度経済成長が、戦後の庶 民生活の社会・経済基盤の欠如と労働運動の興隆という条件の下で、自民党による日 本型「社会民主義的」政策(社会党が自民党に癒着した根拠!)を可能ならしめ、他 方では、長時間過密労働を伴いながら、庶民の貯蓄を可能にした経済的基礎である。
 そのうえ、歴史上に類例のないという意味では、日本にはもう一つの歴史的条件が あった。それは戦争の放棄を宣言する憲法の存在である。この憲法の存在が冷戦の利 益をフルに享受することを可能にしたのである。高度経済成長の到達点を見据える段 階で、この成長の仕組みと限界を最初に包括的に論じた論文に南克巳「戦後重化学工 業の歴史的位置」(「新マルクス経済学講座」5巻所収、有斐閣1976年)がある。 なお、著者は山田盛り太郎「日本資本主義分析」(岩波文庫版)の解説を書いている。
(5)、崩壊する前のソ連の初代大統領・ゴルバチョフが述べた言葉に「日本は世界 一成功した社会主義国だ」というものがある。この言葉をおおかたの日本の共産主義 者達は笑い飛ばすが、その淵源はレーニンにまで遡る。一挙に社会主義経済を作り上 げることが不可能なロシアの現実に直面して、レーニンは新経済政策(ネップ)に転 換し国家資本主義政策を採用するのであるが、その政策は国内経済再建の不可避の方 策であったということとは別に、もうひとつの着眼があった。それは次のようなもの だったのである。

「ドイツには、現代の大資本主義的技術と、ユンカー的=ブルジョア的な帝国主義に 従属する計画的組織との『最後の言葉』(最新の成果)がある。・・・軍事的、ユン カー的、ブルジョア的な帝国主義的な国家のかわりに、同じく国家を、だが、ちがっ た社会的な型の国家を、ちがった階級的内容の国家を、ソヴィエト国家すなわちプロ レタリア国家をおいてみたまえ。そうすると、社会主義が与える諸条件の総和がえら れるであろう。」(「左翼的」な児戯と小ブルジョア性について」1918年、全集 27巻342ページ)

 レーニンは、この社会主義の二つの「片われ」(ソビエト・ロシアとドイツ)を第 一次世界大戦が生んだ「未来の二羽のひよこ」と呼び、両者の結合したものが「社会 主義が与える諸条件の総和」、すなわち、本来の社会主義だというのである。ゴルバ チョフの最大の関心は、国家による経済のコントロールと国民の自由な経済活動との 新しい結合の型を探すことであったのだが、そのモデルを日本に見たのである。そこ には国家による経済のコントロールと自由な企業活動、そして、貧富の格差が少なく、 国民の大半が中産階級化している現実があった。 それが1990年前後。新自由主 義はこのゴルバチョフ・モデル(注1)を打ち壊しにかかっているというわけである。
(6)、個人金融資産との日米比較について。先ほどあげた最下層の個人金融資産を 世界の最富裕国・米国との比較で見てみよう。以下の数字は第一生命経済研究所のレ ポート(「わが国家計貯蓄の現状と方向性について」荒川匡史)からのものである。 統計の都合で6年前(2000年)の数字になるが、日本の場合、貯蓄0~300万 円世帯の全世帯に占める比率は15.4%(総務省「貯蓄動向調査」)である。一方、 同じ年の米国では0~3万ドル(当時1ドル=105円)の世帯比率は57.9% (The Federal Reserve Board"Survey of Consumer Finance")になっている。
 この米国の最下層の世帯比率・57.9%にまで日本の世帯数を広げると、貯蓄1 000万円~1400万円の世帯層まで入ってくる。ドルに換算して13万3千ドル、 13万3千ドルの貯蓄水準といえば、米の80%の世帯をカバーしてしまうのである。 米では2.1%の世帯が全貯蓄の47.9%を保有する寡占状態にある結果である。
 この事実が意味することは、物価水準の違いなどによる変容を受けるにしても、平 均的に見て、日本の低所得者層の貯蓄水準は世界の最富裕国の低所得者層より高いも のであるということである。しかも、アメリカの場合、基軸通貨ドルによる為替操作 で世界の富を収奪している特権的帝国主義国であるという事情を考慮すれば、日本の 庶民の保有する純金融資産の高さが想像されよう。OECDの発表している2004年の 購買力平価は1ドル=135円で、現在の1ドル=115円と比較すると、日本の庶 民の貯蓄の価値は15%ほど目減りするが、それでも、日本の低所得者の貯蓄水準は 米より高いのである。
 左翼運動では、(6)にあげたような事実を政権弁護論のように感じて無視しよう とする傾向があるが、事実はまず事実なのであって、事実を前提に社会運動を構築す る努力、工夫、反省が必要なのである。社会の最底辺には、絶対的貧困層が存在する ということも、この事実を覆すわけではない。社会科学的には、まず、主要な傾向、 その特徴が問題なのである。絶対的貧困層が多数派ではないのである。最近は、相対 的貧困率が世界5位から、米に次いで第2位に浮上してきたと言われ、経済格差の影 響が深刻に出始めているが、それでもここで示した特徴はかわらない。
 このような貯蓄水準は先に述べた高度経済成長の結果である。輸出主導型経済と相 関関係にある過少消費生活と長時間過密労働の生み出した純金融資産であるとはいえ、 その経済資産が中産階級の労働者階級からの自立(注2)を支えているのである。
 こうして、翼を失った共産主義と国内の共産主義運動の退潮に加えて、ここにもう 一つ、労働者階級から経済的にも意識の上でも自立した広範な中産階級が立ち現れて くるのである。

<(注1)、ソ連の崩壊を受けて日本共産党は新綱領を制定するのだが、「未来社会 論」をめぐっては、党首・不破(当時)のようにマルクスの「ゴータ綱領批判」(1 875年)解釈をひねくり回すより、実際に社会主義国家の運営に携わったレーニン やゴルバチョフの着眼こそ検討されるべきであったろう。そうすれば、「生産手段の 社会化」を具体的に展開する手がかりが得られたはずである。IT革命という新しい技 術的基礎のうえでは、レーニンの着眼も新しい様相を帯びて立ち現れてくる。
 今日の良心的な左翼系の学者も同様で、古典解釈で抽象的に「アソシエーション」 (原義:自由な諸個人による生産のための連合体)論を論じたり、それを個別企業モ デルで具体化する議論にとどまっていてはすでに時代に置いて行かれている。ポイン トは、国家によるコントロール+「アソシエーション」+自由な経済活動の相互関係 とその全体構想ならびにそこへのプロセスの問題を語らねばならぬであろう。
 ターゲットの一つは「アソシエーション」の現存疎外形態=独占大企業での運動形 態の構想である。共産党がこの4月に行った「職場問題学習交流講座」における志位 の総括的提案は旧来のものと変わらない。新機軸はない。企業に虐げられた労働者と 手を結ぶ方法と団結による生活防衛の権利闘争ということである。しかし、運動が発 展している事例を見ると、典型的なものは学校教員組織における「良い教師になるた めのノウハウ講座」の盛況である。ここに新しい運動を進めるための鍵がある。生活 防衛を中心とする従来型権利闘争から全人格的成長要求を中心とした運動への軸足の 転換は大独占におけるホワイトカラー層の運動に展望を開くものになるのではないの か。
 大企業職場における党支部の消滅傾向という危機を抱えながら、職場闘争の経験も ないであろう党官僚が、職場の声を聞き取り調査をしてまとめるという工夫もなけれ ばアイデアもない、習慣的な対応からどうして抜けられないのであろうか? こうい うところにもこの党の危機が感じとれるのである。>

<(注2)60年代の後半に入って、中産階級の広がりに対応して、大衆社会論が提 起され、マルクス主義の側からは労働貴族論が提起されていた。今日では労働貴族論 は見られなくなったが、その理由は労働者階級の一部ではなく、かなり広範な層がす でに見た純金融資産を保持するようになった現実があるからである。当時は日本の資 本主義が発展しているのに労働者階級意識が国民に浸透しない原因が問題だという意 識があった。マルクス主義の一般法則の貫徹を阻害する原因が探られ、資本が労働者 階級に賃金以上の余剰を与えるのは限定された一部に限られるはずだという先験的意 識があったのである。
 資本主義にあっては主要な階級はブルジョア階級と労働者階級ということになる。 しかし、これは一般論であって、どのような資本主義国家もすべて必ず二大階級に分 裂する必然性が貫徹するわけではない。社会的諸条件の組み合わせの中では、この分 裂作用が何らかの社会的要因により阻止される場合もある。古典的な事例は労働者階 級の運動が支配階級と融和的になったイギリスの事例。マルクスはその経済的根拠と してイギリスによるアイルランドの植民地支配をあげていた。現代においては、自国 に産する石油収入で国民が国家に寄生する産油国社会まである。こういう社会では、 階級分化が明確な傾向として貫徹せず阻止されることになる。
 社会的要因は別だが、日本でも戦後のほとんどゼロからの出発と、そのもとでの過 少消費生活の定着(「うさぎ小屋」)、長時間過密労働(「エコノミック・アニマル 」)、教育水準の高さ、労働運動の高揚(春闘)、冷戦構造の出現と米帝の対日政策、 日本国憲法などの諸要因が複雑に絡み合い、保守政党である自民党による日本型「社 会民主主義的」政策が実行され、1億人を越える人口を擁する社会に中産階級意識を 持つ者の比重が8割にものぼる中産階級社会が出現する。それが現在では自民党の新 自由主義政策でぶち壊されようとしてわけだが、この中産階級を「労働者階級」概念 でくくるところに無理がある。
 日本の中産階級の中核(中の中と中の上という意識をもつ層)は、その過半が自己 の労働力を売却して生活する社会階層でありながら、その経済資産によって、経済的 地位の上でも意識においても、労働者階級から自立していると見るべきであろう。そ の自立の基礎は日本の株式資本全体を優に支配できるだけの純金融資産という強固な ものである。
 この事実はマルクスの平均利潤率法則が貫徹しているとすれば、予想外のことであ るが、おそらくは、過少消費生活と長時間過密労働を主要な要因として蓄積された経 済資産なのである。労働者の賃金水準はその社会の文化的その他の諸条件で可変的で あり、日本の場合、ここに示された程度の金融資産を保持することは労働者の再生産 費として必要なのだという解釈では、新たに出現した日本社会の特徴を見失うことに なる。そのことは、アメリカとの比較で見るとわかることである。基軸通貨ドルによっ て世界の富を搾取する特権を持つアメリカにおいてさえ、庶民の保有する純金融資産 は日本には及ばない。
 このような日本における中産階級の労働者階級からの自立は、産油国のような国家 への寄生やイギリス等の植民地での超過利潤への寄生ではなく、戦前来の低位生活水 準から出発して平和憲法の保持と国民諸階層の社会運動、勤労者の刻苦勉励、節約に よって生じたものであるというところに画時代的な積極的な意味がある。寄生的な資 産蓄積でないことからくる自立志向がある。
 なお今日、北欧においては、ワーク・シェアリング方式などにより日本より高い一 人あたりGDPを達成する国(ノルウェー)が出現しつつあるが、ここには検討すべ き新しい時代の問題、旧列強の戦後資本主義とは労働の編成原理を異にした新しい時 代の問題があるが、その点は「17、過渡期社会」で触れる。>

10、現在の無党派層は常則的な存在ではない
 この無党派層は小ブルジョア階級として、分解吸収されていくことが予定されてい る政治闘争の観念図式にすんなりと収まる常則的な存在ではないのである。その経済 的地位自体が、一国の常則的経済発展のうえに成立したものではなく、社会主義諸国 の崩壊という社会主義の世界史的実験の失敗を背後にもち、また、旧来の政党政治・ 政治運動、とりわけ社共の政治運動にあきたらなくなって政治世界に登場してきてい る。社会党の崩壊、1998年参議院選における共産党の押しあげと共産党からの離 反という過去10数年の政治史をふり返ればわかることである。
 この無党派層の政治運動は、その出自からして従来の社会主義・共産主義運動に対 してある耐性、免疫をもっており、容易なことでは、変化しない既存の共産党などと 融和することはない主体性をもっている。例の観念図式からすれば共産党の成長が必 然であり、その発展の中に取り込まれていくはずの無党派層が逆に社共の戦後の政治 運動から独立して来るという逆転現象が起きており、また、労働者階級から自立する 経済基盤さえもっている。この現実を例の観念図式で裁断できるわけがないのである。
 その意味では無党派層はすぐれて党派的なのであり、その経済基盤で見ても経済構 造の高度化にともなって新たに成長してきた階層に属する者が多く、絶えず補充され、 容易に分解・没落するものではなく、また、大企業労働者や公務員なども多いと推測 され、旧来の没落する都市商工業者や小農などの小ブルジョア階級とは様相を異にし ている。
 それゆえに、この無党派層は基本対抗の一極たる資格を喪失し翼を失った共産主義・ 党に代わって、空位となった基本対抗の一極を占める可能性が出てきていると見るべ きなのである。両者で一極を構成することになるのか、無党派が代位するのか、ある いは共倒れに終わるのかは共産党などの自己変革と無党派への対応の仕方にかかって いるのである。
 なお、ついでまでに述べれば、小泉が新たに掘り起こした新保守層、右傾化する青 年層の出現も、グローバリズムの展開にさらされて不安定化する中産階級の経済的地 位に由来する。同じ経済的基盤から二つの無党派が時間をずらして成長してくる。新 自由主義の攻勢にもある程度安定的な層からは、先に従来の無党派層が形成される。 その一方、新自由主義の本格的な攻勢をまともに受けて、後からやってきて中産階級 への展望が見えず没落傾向を強める層、ならびに、中産階級の生活を享受してきたう えで、世帯として独立した途端に「負け組」を自覚させられる青年世代が現れ、その 多くが左翼にではなく右翼になっていくという転倒現象が現れる。
 この転倒現象もまた、左翼の新しい運動の仕方が必要なことを示しているのである。 60年代、70年代には青年の鬱屈した心情を左翼がとらえたのであるが、現在は右 翼がとらえている。そこに従来の左翼運動の否定的な影響を見ないわけにはいかない であろう。

11、日本国憲法の歴史的地位
 無党派層の思想とその歴史上の位置について、私はこのような見方に立っており、 別の表現を用いれば、日本の共産主義運動にもベルリンの壁を崩壊させた新しい歴史 の波(世界的な民主主義運動)(注3)が押し寄せてきていると考えることができる。 その波頭が日本では革新無党派層として現れてくる。
 このような見方に立つと、共産党が「改良主義的変質」を払拭すれば新しい「左翼 的高揚」の波を創り出すことができるとか、迎えることができるという見解は世界史 の地殻変動を見ないマルクス主義の一般理論を下敷きにした一つの幻想に見えるので ある。ありうるとすれば、それは「左翼的高揚」ではなく、まちがいなく民主主義的 高揚だけだということになる。
 日本国憲法がその理念、イデオロギー、綱領になる。小泉、安倍の攻撃と護憲派の 攻勢的な戦いが日本国憲法を革命の綱領に押し上げる。歴史の新たな諸条件の組み合 わせが、歴史上に出現したブルジョア憲法の究極の形態である日本国憲法を革命の綱 領たる地位に押し上げようとしている。
 ブルジョア憲法が発達した資本主義国の革命の綱領だと言うのは、まったくの論理 矛盾だ、ナンセンスだと嘲笑してはいけない。マルクス主義の一般理論にしたがった 形式論理をところかまわず振り回してはいけない。私は日本国憲法が革命の綱領だと 言っているのではなく、革命の綱領になるのだと言っている。資本主義社会に住んで いるから、国民はやがて社会主義を求める意識を持つようになるという単純な経済決 定論がもはや通用しない歴史環境が出現しているのである。多くの国民に聞いてみる といい。大多数は、共産主義国家は死んでもいやだというであろう。このような国民 意識が経済的諸条件と並んで、現在の政治を動かす一つの規定的要因として作用して いるのである。そして、日本には戦後60年を経てなお意識の上でも経済的地位の上 でも労働者階級から自立した広範な中産階級が存在しているのである。すでにインター ネット上でも「9条党」などの様々な名称で、憲法を社会変革の綱領とする動きが現 れてきていることを見るべきである。
 戦後の歴史的経過の中で、日本国憲法に付与されたその歴史的役割に大きな変化が 生じてきているのである。歴史的な役割の転換を一身に担うことになったのは、日本 国憲法の絶対平和主義の思想であり、その思想を条文に体現した憲法第9条があるか らである。周知のように、憲法9条はマッカーサーにより、日本の軍国主義復活を封 印する保障(天皇制存続と抱き合わせに)として創案されたものであるが、支配層の 9条廃絶願望やアメリカの圧力に抗して、今日まで維持されてきた。
 日本国憲法に新たな歴史的役割を与える新たな歴史的条件とは、次のふたつのもの である。一つには、日本国憲法は、新自由主義と「戦争のできる国」をめざす支配層 の攻撃にさらされて、軍国主義を封印する手段から支配層の攻撃に対抗する平和・福 祉国家の守護神(思想、イデオロギー)へと変貌する。戦後を妥協による共存で生き てきた両者の関係が敵対関係としての本質を顕在化させる。もう一つは、社会主義世 界体制の崩壊にともなう共産主義の理想の失墜である。これらの新しい変化が広範な 中産階級の存在と結びついて日本国憲法を革命の綱領に押し上げるのである。
 なぜ中産階級が憲法をおのれの綱領にするのか? 憲法がもともと彼らの自立、自 己決定思想の母胎であるということと、改憲勢力の経済綱領が新自由主義であり、中 産階級の経済的地位を攻撃するからである。
 この国には作るべき未来社会について、大きく言って二つの綱領があった。日本国 憲法と日本共産党綱領である。理想社会をめざす戦後の社会運動の中にあっては、日 本国憲法は日本共産党綱領の後塵を拝しており、ブルジョア民主主義よりもプロレタ リア民主主義(共産主義)の優位性は論ずるまでもない自明のことであった。しかし、 世界的に共産主義の理想が失墜するに及んで、この国が進むべき社会・国家の理想= 綱領として日本国憲法の地位が今や確定したのである。
 日本共産党の新綱領は日本国憲法への敗北宣言なのである。そのことは当サイトの 特設欄・綱領改定で「綱領改定案の民主連合政府の研究(1)(2)」(2003/ 9/11)という投稿で書いたことである。新綱領から、ソ連崩壊を経験した今日で はますます抽象的になった古いユートピアを書いただけの看板にすぎない共産主義社 会(生産手段の社会化)を取り除いてみればいい。残るのは独立と全憲法条項を完全 実施する資本主義の枠内での改革だけである。新綱領では、社会主義社会へいたる道 が社会発展の法則的な道としてではなく、「国民の合意のもと」(新綱領)に進むべ きものとして国民の選択の問題にゆだねられているのであるから、その選択の議論は 将来の問題に過ぎない。現実の実践では、資本主義の枠内での民主主義的改革だけが 語られることになる。つまり、憲法の全条項の完全実施が中心となる実践である。共 産党の日常の実践では事実上、日本国憲法が綱領になるのである。
 平和国家のためにたたかう守護神にして日本社会の未来を示す綱領、これが、今日 の歴史的条件が日本国憲法に与えている新たな歴史的な役割である。護憲ではなく、 『活憲』運動となるべき歴史・理論的根拠もここにある。日本国憲法こそ、広範な国 民に社会改革とより良い未来社会への希望を呼び覚ますことができる。まさに日本国 憲法は社会革命の思想・綱領になるのである。したがって、現憲法を守り抜くことが できるかどうかは、一般民主主義の政治課題の一つではなく、日本における革命の根 本問題だということになる。
 ここに、これからの全政治情勢が収斂していく核心があるのであり、すべての政治 情勢がここをめぐって争われることになるのである。諸党派のあらゆる政治行動とそ れによって引き起こされる政治的結果の評価は、この核心からのみ正しく評価できる のである。すなわち、改憲を阻止することに有効なもののみが評価の対象になる。そ れに反するものはすべて反動的なものになる。
 そこでは、共産党の政治運動はこの世界的な民主主義運動の一部となり、この無党 派層の政治運動のもつ積極面を支援し拡大させる連携が不可欠になる。「政党支持な し層」の中から、この無党派層を探し出し、それと共同する。つまり、無党派層の政 治運動の積極的な側面、その可能性を重視し、彼らと積極的に関わっていくことがど うしても必要であるということになる。彼らの多くが現在のところ民主党支持である ことなど問題にならない些事である。
 この無党派層とどのように連携するか、その連携によってどのように政治情勢の局 面をかえるか、その工夫、ここに日本の社会主義・共産主義運動の再生のカギがある と言える。この連携の有り様が両者を変える。共産党が自己変革する触媒、試金石に なる。
 今日の政治情勢が歴史的に生成してきた無党派層と共産党の連携に独特の歴史的意 義を付与しているのである。革命の綱領になる日本国憲法が両者の提携を強制する。
 その関係は、いわば、運命共同体であって、消え去り解体していく小ブルジョア政 治運動と「前衛」党という通常の関係では断じてない。私が無党派層の積極面、その 可能性を評価する歴史的・理論的理由がここにある。

<(注3)ここにいう「世界的な民主主義運動」については、当サイトの「組織論・ 運動論」欄の2005年2月20日の投稿(「川上さんへ」)でその大要を述べてい るので、参照してもらいたい。>