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「現状分析と対抗戦略」討論欄

樹々の緑さん、とんびさん、さとうさんへ

2006/11/25 原 仙作

樹々の緑さんへ  コメントをありがとうございます。私以上に投稿を詳細に読 んでいただいて感謝しています。社会主義世界体制が崩壊し、 共産主義は不評を囲っていますが、やはり本来の科学的社会主 義の思想と方法は貴重なものであって大事に残し発展させる必 要があると思っているのです。ですから、不破のような許し難 い議論はきちんと分解し批判しておくべきだとも思っているの です。科学的社会主義とはかけ離れた、あのような議論の仕方 をする人物が一国の命運にも関わる時代の綱領を書いていると いうのは、現実の複雑怪奇、時代の魑魅魍魎というものなので しょうか? 
 時として複雑な思いにとらわれることがありますが、現実の 無限の可能性の表現かと楽観的に考えることにしています。

さとうしゅういちさんへ
 コメントをありがとうございます。
 活発な活動とそのエネルギーに敬意を表します。後につづく 投稿にあまり期待をされても困りますが、時間がかかっても、 今後の議論の蓄積のためにおおまかな形だけはつけておきたい と考えています。

とんびさんへ
 長々の投稿を読んでいただいてありがとうございます。簡単 にコメントへの返事を書きます。
 まず、日本国憲法が革命の綱領へ上昇を開始しているという のは事実の問題であって、天皇条項がある憲法が革命の綱領に ふさわしいかどうかという評価とはまったく別の問題です。ふ さわしくないという者は別の綱領を持ち、憲法を綱領とする部 隊とできるところで提携すればいいだけのことです。
 共産党の新綱領の民主連合政府は「理論なき現実主義」の産 物であって、天皇条項を含めた全条項の遵守にその現実主義( 理論の放棄)が現れています。自衛隊活用論も同じです。共和 制をめざす原理からすれば、どこからも天皇条項遵守という議 論が出てくるはずはないのです。
 そういうわけで、私は先の投稿で共産党の新綱領を「高く持 ち上げ」ているわけではありません。歴史の比喩で言えば、ボ ルシェヴィキがソビエト運動の要求(綱領)を自党の綱領にし たわけではないし、する必要もないのです。
 おのれの信念に従った諸政党、諸運動がおのれの見解を主張 しながらある連合へと進んでいけばいいだけのことです。その 見解のぶつかりあいの中からさらなる発展への合意が形成され 、運動は新たな発展段階へと進んでいくわけで、単一の流れに おのれの綱領を解体して合流し一色になる必要はないんじゃあ りませんか?

 それから、1998年の不破の安保凍結の連合政権と私 の主張する民主党との協力関係ですが、私の主張は共産党と民 主党との連合政権論ではありません。言わば、民主党を政権に つける「助っ人」というだけのことです。民主党が政権を取っ ても政権に入らず、政権維持に一定期間協力するというだけで す。眼目は改憲阻止に有利な条件作りと無党派層の政治運動と の連携にあります。

 もう一つの「改造」か「粉砕」かをめぐる投稿でマルク スの真意が「粉砕」であると論定することと、歴史時代の違う 現代の日本で「粉砕」は適用できないということは「ねじれ」 ではありません。これを「ねじれ」と理解するのは不破と理解 の仕方が同じ理解の仕方が必要です。
 私に言わせれば、ようやく鉄道が普及しはじめたとはいえ、 近距離の交通手段は馬車が主流で飛行機もない時代に、マルク スが「粉砕」だと言ったら、宇宙から標準を合わせてミサイル を撃ち込む時代の国家も「粉砕」だということになるという理 解がそもそも解しかねるのです。こうした解しかねる理解から すれば私は「ねじれ」ていることになるわけです。
 不破はマルクスを「粉砕」だと解釈したら、現代も「粉砕」 になると理解して、トリックを使ってまで何とかマルクスを「 改造」主義者に仕立てあげ、「ねじれ」を解消するわけです。
 「改造」か「粉砕」かに関して、古典の議論から学ぶべきこ とは、幾分単純化(暴力革命を通例とする世界史的条件を捨象 )して言えば、労働者階級が国家を管理運営するには民主共和 制の国家形態が必要だということなのであって、それが絶対王 政以来の帝政ボナパルトの独裁国家機構を「粉砕」した民主共 和制パリ・コミューンであり、ツアーリの独裁国家機構を「粉 砕」した民主共和制ソビエトであったということです。
 今日では目の前に民主共和制の国家(日本の場合、形式的に は君主制)があるのですから、「粉砕」してまた別の民主共和 制の形態(コミューン、ソビエト等)を作り出す必要はなく、 不具合な部分は「改造」すればいいだけのことです。
 このことは目の前の具体的な社会的、歴史的諸条件から直接 出てくる結論であって、それを不破のように、強迫観念に駆ら れてパリ・コミューンを「改造」と読み替えないと、日本でも 「改造」と理論的に定式化できないと観念するところに不破の おかしな「科学的社会主義」理解があり、トリックに走らせる 原因があるのです。