前回の私の投稿(現状分析と対抗戦略欄06.9.12およ
び15付「無党派層の青い鳥―小泉とムバラクの圧勝に寄せて
(上)(下)」以下「青い鳥」)は、直接原さんに当てたわけ
ではなかったので、このたび、原さんから長文のお返事(「現
状分析と対抗戦略欄06.11.15および16および22付
「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共
産主義(1)(2)(3)(4)」以下「時代の到来」)を寄
せていただいたのは、予想外のことであり、大変うれしく読ま
せていただきました。
ただ、「青い鳥」については、説明不足から原さんに誤解を
与えてしまった点もあるように思われます。
今回、その説明不足を補い、合わせて、原さんの見解に対す
る私の考えを述べさせていただきたいと思います(4回に分け
る予定です)。
引用は「」で表記し、出典を示さないものについては「時代 の到来(1)」からの引用です。
「・・・政治的代弁者はさまざまな仮像を演出して無党派層の 票の取り込みをはかっている。2005年以前は民主党であっ たし、2005年総選挙では小泉であった。」
「時代の到来(1)」冒頭、原さんによる「青い鳥」の要約
部分からの引用です。
上の要訳だと、「仮像」は民主党や小泉が一方的に「演出し
」たように受け取れます。しかし
「・・・実態にかかわりなく、(時には自分自身さえ欺いて! )あたかも代表されているかのごとく振舞うことも可能なので はないだろうか?」
「2005年9月11日の高投票率が意味していたものは、・ ・・7割近い有権者が、自分が、自分以外の何者かによって代 表されることができると本気で思ったか、(自分自身を欺いて )そう思おうとしたということであった。」(以上「青い鳥( 下)」)
などの記述で私が言いたかったのは、有権者・無党派層もまた
、<能動的に>「仮像を演出して」いる点です。この「仮像」
は<代表する―される>側両者の共同で「演出」されるのです
。そこに低投票率でムバラクが圧勝したエジプト大統領選挙と
の大きな違いがあるのです。
それから、原さんの要約では民主党と小泉の例しか挙げられ
ていませんが、ここに該当する「青い鳥(下)」の原文では、
<共産党>についても言及しています。原さんはなぜか「仮像
を演出し」た例から共産党だけを省略していますが、90年代
後半の共産党の選挙躍進もまた、民主党の躍進と並んで、後の
小泉の圧勝に先行する「仮像」に過ぎない点を、ここで改めて
強調しておきたいと思います。
「…無党派層の弱点を重視する「青い鳥」の方法は…2大基本 階級の政党として支配的ブルジョア政党と共産党を両極に置き 、その他は政党であれ、無党派層の政治運動であれ、それらす べてを中間にある政治運動として、最終的には階級闘争からド ロップアウトするか、両基本政党のどちらかの陣営に合流する か分解吸収されていくものと見る考え方である。…この分析ツ ールを用いると、現在の無党派層はやがて両極分解を遂げるも のであり、その積極面も共産党陣営に移行していく場合にのみ 生きることになる。しかし現状では、その傾向を示していない のであるから、弱点のほうがクローズアップされるということ になる…」
まず私は、階級が政党を伴うことを自明の前提とは考えてい
ません。政党抜きでも階級や階級闘争は成立しうるし、従って
、いわゆる階級政党は、階級闘争におけるひとつの<表現>に
過ぎないのです(階級に依拠することなく政党・政治運動が成
立することも十分ありえます)。それに、ブルジョア階級や労
働者階級<それ自体ではない>「支配的ブルジョア政党」や「
共産党」にブルジョア階級や労働者階級が代表<される>とす
れば、それは「仮像」に過ぎないではないですか。
次に、私は「2大基本階級の政党として」一方の極に共産党
が置かれることを自明の前提とは考えていません。実際、55
年体制下において<実質的に>労働者階級側の極に「措定」さ
れたのは、社会党・総評ブロックだったではありませんか。
また、私は確かに、無党派層が労働者階級として闘争すべき
だとは思っていますが、それは<政党に>合流し、分解吸収さ
れていくこととはまったく別の話です。また、将来無党派層が
<実際に>「どちらかの陣営に合流」し、または「分解吸収さ
れていく」かどうかについて、私は何の断定もしていません。
それから、無党派層が「共産党陣営に移行し」たからといっ
て、それだけで、「その積極面」が「生きる」とは私は考えて
いません。
「私の言う無党派層の主流(多数は)は…1998年には共産 党を躍進させ…」
と原さんも認めるとおり、90年代後半、少なくない「革新的 無党派層」が選挙に際して共産党に「合流」しましたが、「そ の積極面」が生きたことなど何一つなかったではありませんか 。私の言う無党派層の「弱点」とは、共産党なり民主党や小泉 なりの「陣営に移行してい」かざるを得ない、その主体性と自 立の欠如を言っているのです。
「共産党職場支部自体が…立ち消え状態になっている…現状が あるのに、無党派層が職場で闘っていないのを彼らの弱点と言 えるだろうか?弱点だと言うとすれば、無党派層に共産党以上 の要求をしていることになるであろう。共産党が半世紀も実践 して確立できなかった職場闘争を無党派層が実践できていない と批判するのは「そうあるべきだ」という観念からする批判と いうほかない。この領域での運動は立ち消えになるほかなかっ た既存の運動形態の反省のうえに新たな運動の模索の段階にあ ると見るのが客観的な見方であろう。」
共産党職場支部の消滅は、職場闘争の<必要性>を否定する
ものではないはずです。むしろ、共産党職場支部が消滅してい
るのであればなおのこと、それに変わる職場闘争が早急に開始
されなければなりません。なぜなら、職場闘争の不在は明らか
に、政府の新自由主義政策および資本と経営の攻勢に対し、決
定的な「弱点」となっているからです。このような状況の中で
<共産党と比べて>無党派層の職場闘争の欠如が弱点といえる
かどうか、などという議論にどれほどの意義があるのでしょう
か?原さんは、「無党派層に共産党以上の要求を」するなとい
わんばかりですが、少なくとも現状、「社会変革」の担い手た
るに十分ふさわしいとは言いがたい共産党に求められる程度の
要求にすら、無党派層はこたえられないというのなら、そんな
無党派層に「社会変革の大事業」を期待するのはあまりにも酷
です。
また、原さんも認められるとおり、共産党が職場闘争を「半
世紀も実践して」結果「確立できなかった」のに対し、無党派
層は実践すら「できていない」。それについて原さんは「無党
派層が職場闘争を実践できていないと批判するのは「そうある
べきだ」という観念からする批判」といわれますが、ならば原
さんは、何か積極的な理由から、職場闘争などやる<べきでは
ない>とお考えなのでしょうか?
原さんは、引用した部分のすぐ上のところで
「政治的実践の領域では…その基本思想だけの比較で先進度の 度合いをはかるという方法がまちがっており、政治思想の真価 はその政治的実践で判定されるべきもの」
とも述べられています。
ならば、無党派層が認識の核心、強固に形成された思想とし
ている―と原さんが主張される―民主主義感覚(直接民主主義
指向)や自己決定思想を、職場において一向に実践できていな
い以上、少なくとも職場闘争の「領域で」、無党派層とその「
政治思想の真価」にどのような判定を下すべきかは明白なはず
です。にもかかわらず原さんは、共産党には適用するこの判定
基準を<なぜか無党派層については適用せず>判定を避け、「
立ち消え状態になるよりほかなかった既存の運動形態の反省の
うえに新たな運動形態の模索の段階にあると見るのが客観的な
見方であろう」と結んでいます。
模索をしている間にも、年々過労死と過労自殺の屍の山がつ
みあがっている点はここではおくとしても、このような「見方
」は、かつて原さんが、現実の情勢が欠落した自己正当化の大
嘘と切って捨てた、共産党の4中総<善戦健闘>報告と比べて
、それほど「客観的な見方」でしょうか?あるいは、不破の<
科学の目>と比べて、それほど「客観的な見方」なのでしょう
か?
障害者自立支援法成立について原さんは
「あの闘いほどヒューマニズムの原点に立って訴えられる、そ れこそすべての国民を怒らせることができる闘いはなかったの である。」
「それを大きな運動にできないところに共産主義運動の生命力 の枯渇が示されている」
といわれますが、そもそも、無党派層が真に「社会変革の大事
業」の担い手たる存在であるのなら、「共産主義運動の生命力
」など抜きでも、いくらでも「ヒューマニズムの原点に立って
」怒り、空前の大運動を展開できてしかるべきではなかったで
しょうか?にもかかわらず、国民・無党派層が「共産主義運動
の生命力の枯渇」の<せいで>、「それを大きな運動にできな
い」とすれば、それは同時に、国民・無党派層のヒューマニズ
ムの枯渇をも示す事態ではないでしょうか?
それとも原さんはここでも、共産党がやっていないこと、で
きていないことは、「革新的無党派層」<も>やる<必要が>
ない、やる<べきではない>とお考えなのでしょうか?
そんな無党派層による「社会変革の大事業」がもたらす社会
とは、現状よりもいくらかでもましなものなのでしょうか?