引用は「」で表記し、出典を示さないものは「時代の到来( 2)」からの引用です。
「時代の到来(2)」の冒頭、繰り返し強調されるのが
・日本の庶民層の純金融資産の莫大さ(「日本の株式市場全体
を買収できるほど」)。
・それに裏付けられて、中産階級意識を持つものが人口の8割
を占めている。
・しかもそれが「労働者階級から経済的にも意識の上でも自立
した広範な中産階級」として今日立ち現れている。
といった点です。
そしてそれらを背景に成立した革新的無党派層の「要求の内
容や運動の仕方」が、従来のものとは「変わってこざるを得な
いのは当然」と原さんは結論付けられています。
ここで注目しなければならないのが、原さんの言う<中産階
級の自立>が、<労働者階級からの>自立であり、決して<資
本>や<経営>からの自立<ではない>という点です。原さん
の言う「中産階級」は、原さん自身言うように
「その過半が自己の労働力を売却して生活する社会階層であり ながら…労働者階級から自立している」
つまりこの「中産階級」は、全体としての純金融資産の多寡
や本人たちの「意識」とは何のかかわりもなく、現実において
は<純然たる労働者>として<労働市場>に、<労働力の売買
契約>にその生存を完全に<依存>し、資本と経営の<指揮監
督のもと>労働力を提供しているのです。また、労働者階級か
らの自立の「強固」な「基礎」となっている、全体として見れ
ば莫大な純金融資産にしても、「中産階級」を構成する個々人
で見れば、労働市場から撤収しても生涯の生活の見通しが立つ
ほどの額を保有しているわけではなく、つまり、個々の「中産
階級」が資本や経営から経済的に自立する基礎としては、あま
りに脆弱です。原さんの言う「中産階級」は、労働者階級から
は「経済的にも意識の上でも」自立していながら、資本や経営
からは―少なくとも経済的には―<まったく>自立していない
のです。
もちろん、「中産階級」<全体の>純金融資産は、優に「日
本の株式市場全体を買収できるほど」です。しかし<実際に>
買収し、「日本の株式資本全体を…支配」するためには「中産
階級」の相当部分が、資本と経営に対する<対決姿勢を明確に
し>、<「中産階級」として団結>して行動する必要がありま
す。
では、そのような団結は一体何によってもたらされるのか?
労働者階級としてではなく「中産階級」としてなされる主張
、要求とは一体どんなものなのか?
「中産階級」としての団結は労働者階級としての団結より現
実的なのか?より強力で、より望ましいものなのか?
等、興味や疑問はつきませんが、唯一確かなのは、そのよう
な「中産階級」としての団結も、莫大な純金融資産保有者とし
ての行動も、現在ほとんど<存在しない>ということです。む
しろ、このような<秘められた>途方もないパワーが強調され
ればされるほど、現在の現実の「中産階級」や無党派層の連帯
、団結の欠如や多くの職場における資本・経営への屈服、無抵
抗、不戦敗がますます際立ってきます。
つまり原さんの言う「中産階級」は、「意識の上でも」資本
や経営からほとんど自立できていないのです。だから、「経済
的にも意識の上でも」「労働者階級から自立している」はずの
「中産階級」が、実はその日常生活の大半を<従順な労働者>
として、資本と経営のもと死ぬほど無茶な要求にも唯々諾々と
ただひたすら耐え忍ぶ日々を送っているという、一見するとお
かしな事態を、日本中で目にすることができるのです。
なお、原さんの言う「中産階級」の―資本や経営からのでは
なく―「労働者階級からの自立」、それも莫大な純金融資産の
保有に裏付けられた「自立」が、彼ら彼女らに実際の政治の面
で、たとえば郵政民営化をめぐって、郵政労働者や無貯蓄世帯
に対してどのように振舞わせたか、については「青い鳥(下)
」を参照してください。
「中産階級」のこのような「自立」のあり方は、日本におけ
る「民主主義的高揚」のためにも、本当に好ましいものなので
しょうか?
「ターゲットのひとつは「アソシエーション」の現在疎外形態 =独占大企業での運動形態の構想である。共産党がこの4月に 行った「職場問題学習交流講座」における志位の総括提案は旧 来のものと変わらない。新機軸はない。企業に虐げられた労働 者と手を結ぶ方法と団結による生活防衛の権利闘争ということ である。しかし運動が発展している事例を見ると、典型的なも のは学校教員組織における「良い教師になるためのノウハウ講 座」の盛況である。ここに新しい運動を進めるための鍵がある 。生活防衛を中心とする従来型権利闘争から全人格的成長要求 を中心とした運動への軸足の転換は大独占におけるホワイトカ ラー層の運動に展望を開くものになるのではないか。
大企業職場における党支部の消滅傾向という危機を抱えなが ら、職場闘争の経験もないであろう党官僚が、職場の声を聞き 取り調査してまとめるという工夫もなければアイデアもない、 慣習的な対応からどうして抜け出せないのであろうか?こうい うところにもこの党の危機が感じとれるのである。」
ここで私が個人的に興味をそそられるのは、「職場闘争の経
験」に基づき、「職場の声を聞き取り調査してまとめ」れば「
全人格的発展要求を中心とする運動」が前面に出るはずだ、と
いう原さんの確信が一体何に由来するのかという点なのですが
、それはさておき、私は「青い鳥(上)」で、無党派層が認識
の核心、強固に形成された思想とする―と原さんが主張する―
民主主義感覚(直接民主主義指向)、自己決定思想が、日本の
多くの職場でほとんど確立されておらず、にもかかわらず無党
派層はその現状に多くの場合屈服していることを指摘しました
。そして、多くの人にとって日常の主要な生活の場を占める職
場で、民主主義感覚(直接民主主義指向)や自己決定思想が不
在であるばかりか、その不在の克服を目指す運動すら不在であ
る状況は、国政規模での民主主義感覚(直接民主主義指向)、
自己決定思想の実現にも深刻な悪影響を与えるであろうことを
示唆しました。
また、「青い鳥(上)」では
「わが国においては「業務の良好な遂行のため」「人々の安全 のために不可欠な人員を確保するため」のストライキすら「こ んなにも多くの職場で」まったく存在しない。」
とも私は述べました。
さて、労働者が職場で自ら、「従来型権利闘争」に立ち上が
る<ためにすら>、自らの労働等への自負や誇りに裏づけられ
た、雇用主からの人格的独立は必須ですから、原さんが言う「
良い教師になるためのノウハウ講座」に代表される「全人格的
成長要求を中心とした運動」は確かに重要です。しかし、労働
者の民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想を反映
する職場の運営抜きに、あるいは「業務の良好な遂行のため」
「人々の安全のために必要な人員を確保するため」の資本や経
営に対する要求・運動(別にストでなくとも良いですが)抜き
に、「良い教師になるためのノウハウ講座」というようなこと
だけが突出してしまえば、それは個個の現場や労働者が一方的
にすべての矛盾を抱え込む事態、さらには、本来資本や経営が
負うべきはずの責任までがうやむやになってしまう事態さえ招
きかねないのではないでしょうか。
一方で原さんは、「志位の総括提案」=「従来型権利闘争」
には否定的な見解を示されているように受け取れます。しかし
今、現に、「企業に虐げられ」生活や権利を侵害されている労
働者が明らかに多数存在しているにもかかわらず、その人たち
と「手を結」んで「団結」し、「生活防衛の権利闘争」をせず
に、共産党に一体<何をしろ>というのでしょうか?
それとも原さんは、新しい「運動形態の構想」「新機軸」さ
え示せれば、「全人格的発展要求を中心とする運動」に専念す
るどころか、「生活防衛の権利闘争」さえままならず、現に「
企業に虐げられ」ている人のことなど<どうでも良い>とお考
えなのでしょうか?
原さんは、「企業に虐げられた労働者と手を結」び、「団結
による生活防衛の権利闘争」を行おうという共産党の対応は、
「職場闘争の経験」に基づくものでもなければ「職場の声を聞
き取り調査してまとめ」たものでもない「慣習的な対応」とい
って、「この党の危機」を「感じと」られるわけですが、共産
党、労働者の党を名乗る以上、今、現に虐げられている労働者
と手を結び、団結し、生活防衛の権利闘争を闘って、それで党
が―党のために闘争があるのではなく、闘争のためのひとつの
ツールに過ぎない党が―「危機」に瀕しても、それは本望と思
うべきことではないでしょうか(もっとも、今の共産党にそれ
が十分できているかどうかは、また別の話です)。
「…小泉が新たに掘り起こした新保守層、右傾化する青年層の 出現も、グローバリズムにさらされて不安定化する中産階級の 経済的地位に由来する。…新自由主義の攻勢からもある程度安 定的な層からは、先に従来の無党派層が形成される。その一方 、新自由主義の本格的攻勢をまともに受けて、…没落傾向を強 める層、…「負け組」を自覚させられる青年世代が現れ、その 多くが左翼にではなく右翼になっていくという転倒現象が現れ る。
この転倒現象もまた、左翼の新しい運動の仕方が必要なこと を示しているのである。…青年の鬱屈した心情を…現在は右翼 がとらえている。そこに従来の左翼運動の否定的影響を見ない わけにはいかないであろう。」
「…現憲法を守り抜くことが…日本における革命の根本問題だ ということ…に、これからの全政治情勢が収斂していく核心が あるのであり、すべての政治情勢がここをめぐって争われるこ とになるのである。諸党派のあらゆる政治行動とそれをめぐっ て引き起こされる政治結果の評価は、この核心からのみ正しく 評価できるのである。すなわち、改憲を阻止することに有効な もののみが評価の対象になる。それに反するものはすべて反動 的なものになる。」
「現憲法を守り抜く」、あるいは<政権交代>といった主張
の正しさは疑うべくもありません。
しかし、<高度な政治スローガン>を掲げるばかりで、―<
認識の核心><強固に形成された思想>であるはずの―民主主
義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想を生活の場から実
践・確立するための日常闘争はまったく放置され、<人々の安
全のため><業務の良好な遂行のため>の職場闘争はおろか、
今、現に虐げられ、生活を脅かされている多くの労働者と手を
結び団結することすら「立ち消えになるほかなかった既存の運
動形態」(「時代の到来(1)」)として軽蔑し、職場闘争を
取り上げるにしてもそれは「全人格的成長要求を中心とした運
動」等「アソシエーションの現在疎外形態=独占大企業での運
動形態の構想」を示す限りにおいてであり、障害者自立支援法
等の悪法が大きな反対運動もなく成立したり、「新自由主義の
本格的攻勢をまともに受けて」「鬱屈した心情を」抱えた青年
が「右翼になっていくという転倒現象が現れる」のも、すべて
―自らの闘争、とりわけ日常の生活闘争の不在のせいでは断じ
てなく―「共産主義運動の生命力の枯渇」(「時代の到来(1
)」)「従来の左翼運動の否定的影響」のせいであり、自らは
そんな青年層とは違って「新自由主義の攻勢にもある程度安定
的な層」に属し、莫大な純金融資産の保有により「意識の上で
も経済的地位の上でも労働者階級から自立した」、社会変革・
「民主主義的高揚」の―無謬の!?―担い手である1200万
の革新的無党派層―
これが原さんの言う無党派層であるならば、その姿は、<天
皇制打倒>等、高度な政治スローガンを掲げるばかりで大衆か
ら遊離したかつての<前衛政党>の姿と、どれほどの差異があ
るのでしょう?
もっとも、こんな疑問は、当時の情勢における<天皇制打倒
>と、今日の情勢における<護憲><政権交代>が持つ意味を
無理やり同一視する、現実を無視したこじつけに過ぎない、と
お叱りを受けるかもしれません。
しかし、1930年代後半、反ファシズムを掲げて社民勢力
からブルジョアの一部まで含む広範な共闘を訴えた人民戦線戦
術が、同時に、労働者・農民大衆の身近な生活要求とその獲得
のための日常闘争の重視と<セットで>提起・実行されたこと
を思い出せば、広範な層を包摂しうる普遍的スローガン<さえ
掲げれば>、「企業に虐げられた労働者」も「新自由主義の攻
勢をまともに受けて…没落傾向を強め…「負け組み」を自覚さ
せられる…鬱屈した心情」の青年層も、―生活防衛の権利闘争
」など抜きでも―スローガンに賛同・協力して当然、そうあっ
てしかるべきと考えるなら、それこそ<前衛の思い上がり>と
いうものではないでしょうか。
「負け組」青年が「左翼にではなく右翼になっていくという
転倒現象」にしても、「従来の左翼の否定的影響」のせい<だ
け>であるのなら、なにも右翼まで行かずとも、中道やリベラ
ル(思想的にいえば、例えば<丸山真男>とか)あたりでとど
まってもいいはずです。それが一足飛びに右翼にまで行ってし
まうのは、本来左翼が取り組むべき「負け組」とされたもの同
士の連帯・団結の現実の日常生活レベルでの十分な実践の不在
が、左翼の<政治スローガン>に偽善を感じさせ、想像の中で
国家・政府のもと国民・日本人として<連帯>し、小泉や安部
といった政治ヒーローとの<団結>にすがらざる得ない状況に
「負け組」青年を追い込んでいるからではないでしょうか。
「改憲を阻止することに有効なもの」しか「評価の対称に」
しない偏狭さに、「企業に虐げられた労働者」や「負け組」青
年が入り込む余地が、一体どこにあるのでしょう?
どんなに立派なスローガンを掲げても、それに力を与えるの は身近な生活の場からの日常闘争であるはずです。それは革命 の綱領を日本国憲法にしたところで、同じはずです。ましてや そのような闘争の在り方抜きに、日本国憲法が革命の綱領に押 しあがってくることなど、あろうはずがないではありませんか 。