引用は「」で表記し、出典を示さないものは「時代の到来(3)」からの引用です。
「時代の到来(3)」の冒頭、原さんは、無党派層を指導・獲得の対象としか見ない共産党の前衛意識、外部注入主義を指摘されるわけですが、私は、共産党とはまた違った立場から、無党派層を無党派層として現状のままとらえても、そこから肯定的なものは得られないだろうと考えています。
無党派層が、無党派層としての立場から職場を始めとするそれぞれの生活の場に戻り、1人1人具体的な労働者や生活者の立場にまで「解体」され、その上でそれぞれの日常の場から闘争を立ち上げていった時―たとえば、職場で憲法28条=団結権・団体交渉権・団体行動権を自ら実際に行使し、いまだ憲法25条<健康で文化的な最低限度の生活>が確立しているとは言い難い職場も多いこの国で、それを改めて獲得し直そうとする時、そこに初めて、憲法を守り抜く―というより、憲法を自ら<実践>することで、憲法を自らの手に<奪い返す>―展望、ひいては社会のより良い変革の可能性も生まれると私は考えています。
原さんは、1200万の無党派層が民主党を押し上げているといわれます。でも、民主党を押し上げているのは何も革新的無党派層だけではありません。その中には例えば、郵政労働者がいます。
郵便配達の現場やそれに従事する労働者のことなど一顧だにしないだろう民主党候補の後援会加入カードを、1人5枚以上集めてこい、といった方針が組合本部から現場に下りてきます。そして実際現場組合員たちは、5枚ないしそれなりの枚数の後援会加入カードを集めてきます。しかしそれは何も<政権交代のためなら、自分の職場や労働のことなど二の次>といった崇高な自己犠牲の精神からではなく、長年の組合員としての惰性、あるいは分会役員クラスの職場活動家との個人的関係からそうするのであって、言ってみれば、かつて<権利の全逓>とまで言わしめた職場闘争の日々の残滓が―原さんの言う「立ち消えになるほかなかった既存の運動形態」(「時代の到来(1)」)の残滓が―民主党の基礎票の一部を支えていたりもするのです。
私が「青い鳥(下)」で、現在の無党派層のあり方と対比して
「…―それがまったく不十分で、みすぼらしく、多くの点で徹底的に批判されてしかるべきものだったにせよ―職場や、社会の各断面の身近な日常から、「連帯」し、「国民的結合を」図り、「政治的組織を生みだ」すべく「自分自身の名前で主張し」、自らを自らで代表しようと「必死にもがいている姿」は、死滅しつつあったのである。」
と書いたのは、たとえば、かつて国鉄労働者が<こんなときに危なくて電車なんか出せるか!>といって、上がなんと言おうと強風のときに電車を出させなかったとか、あるいはもっと些細な例を挙げれば、どんなに処分されようとも、仕事中に組合員証を付け続ける労働組合員とか、そういったささやかな、はっきりいって個人的エピソードに過ぎないような行為の中に、自分の労働を、自らの労働の現場を、決してほしいままにはさせないという明確な意思表示を見るからです。そしてそれこそが、民主主義感覚(直接民主主義指向)、自己決定思想の萌芽であると信じているからです。
もちろん、60年代、70年代に労働運動の現場を担った末端組合員たちの政治意識がどの程度だったかは疑問です。小学生が学校の避難訓練に参加するのと同じような感覚で、組合動員のストやデモに参加していた組合員も少なくなかったでしょう。でも、そんな組合員が、闘争に際して処分され、クビ切られ、あるいはクビ切られた仲間のために身銭を切ってカンパする、その具体的行為こそ―丸山真男の著作でもなければ、もちろん宮本顕治の著作でもなく、無名の、1人1人は非力な人たちによる、ささやかな、でも具体的な行為こそ―戦後民主主義の最良の部分を担ったのではないでしょうか?
また、私が「青い鳥(下)」の最後で
「メーテルリンクの「青い鳥」の中で、チルチルとミチルが世界中探し回って見つけることができなかった幸せの青い鳥が、実は我が家の鳥かごの中にいたように、日常の生活の中でついに見つけることのできなかった無党派層の「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」は、なんとインターネットの網の中に囚われていたのだった。無党派層が自らの青い鳥を自由に羽ばたかせてやる日は、一体いつになるだろう。」(*注)
と書いたのは、原さんが言われるような「傍観者的態度」というよりも、その本心は、無党派層が―原さんが言われるように、立派で、政治意識も高い人たちならば―どうして郵政民営化に際して
<毎日郵便を届けに来るあのおじちゃんは、民営化で一体どうなるんだろう?>
とほんのちょっとでも思ってくれなかったのか?あるいは障害者自立支援法に関連して言えば
<養護学校や特殊学級に通っている子たちは、卒業したら一体どこに行くんだろう?>
と思ってくれたなら、という、無党派層に見捨てられた側に立っての精一杯の<皮肉>なのです。
原さんの言う革新的無党派層が、―自分とは直接かかわりはないけれど―他者の身の上について気にかけ、疑問を持ち、その疑問を、組織的な運動ではなくても、身近な人に話してみたり、新聞に投書したり、政府・与党や関係省庁、法案に賛成する議員たちに問い合わせたりしていたなら、―法案の成立事態は阻止できなかったとしても―もっと違った状況も切り開きえたのではないでしょうか?
もちろん、自分から声を上げ、行動することはなかなかできることではありません。私だってできていません。でも、少なくとも、抗議すべきことに毅然と抗議すること、他者に思いをはせて行動することを、みんながよしとする社会であってほしいではないですか。現状闘えていないのをさも闘っているかのように強弁したり、自分ができていない闘いは、やる必要もない、つまらない戦いなのだと自らを欺いたり、他の連中だって闘えていないのに、どうして自分だけが闘う必要があるんだと開き直るようなあり方、しかもそのようなあり方が、<意識の高さ>や、せいぜい<投票行動>だけをもって賞賛されるような風潮から、一体何が得られるのでしょうか。
今、闘えていないのなら、まずはそれを認めるところから出発しなくてはなりません。
いろいろ批判を受けることも多い共産主義ですが、それでも私は、一人一人は非力な人間の、ささやかな、でも具体的行為の集成が歴史をつくるという視点に、一縷の望みを託しているのです。
(*注)ちなみに、チルチルとミチルは、自分たちだけで<幸せ>を独占してしまうことを良しとせず、自ら青い鳥をかごから出し、大空へと羽ばたかせてやるのです。