私が、皮肉ではなく、本当に残念に思ったのは、原さんの長
文のお返事も、<無党派層は社会変革の担い手としての日常的
実践をほとんどしていない>という事実―と言っても、それは
私の立場から見た「」付きの事実に過ぎないのですが―を否定
するものではなかったということでした。
それどころか原さんは、この事実を無党派層の「弱点」(「
時代の到来(1)」この「弱点」という語は、私の「青い鳥」
では一度も使われていません。)としてあっさりと認め、その
うえで、<「弱点」ばかりが目に付くのは、お前が定型化した
観念図式に囚われているからだ>といって、その観念図式と、
その元になっている共産主義が、現代ではいかに通用しないも
のであるかを証明するのに、お返事の大半を費やされていまし
た。正直に言って、本来、私が<事実>としてあげた無党派層
の「弱点」を正面から否定すべきところが、共産主義や共産党
、既存の左翼運動の否定―そういう否定や批判自体が間違って
いるということではないのですが―に摩り替わっているという
印象を、私は禁じ得ませんでした。
また、無党派層の社会変革の担い手としての優位性・正当性
の証明にしても、共産党・既存の左翼運動との比較において語
られるばかりで、とりわけ、日常闘争の不在は結局―原さんが
言う―「民主主義的高揚」(「時代の到来(2)」)にとって
もマイナスでしかないのでは?という懸念を払拭する説明も何
一つありませんでした。
その他の論点は―共産党の頑迷な自党第一主義とそれに起因
する実践対応への鋭い批判を除けば―あえて刺激的な言い方を
させてもらえば、「「そうあるべきだ」という観念からする」
(「時代の到来(1)」)主張、または立場の違いで二様に取
れるものばかりでした。
いくつか例を挙げれば、まず、戦後日本の国民の中産階級化
は植民地からの超過利潤によるものではなく、国民の自助努力
によって達成された(「時代の到来(2)」参照)という見解
です。
原さんは割と断定的な口調で語られていますが、<かつての
ように海外領土を武力制圧して政治的に直接統治せずとも、世
界市場のますますの拡大、世界のより一層の資本主義化によっ
て、もっぱら経済的な方法―たとえば借款、各種ひも付きの援
助、<自由>貿易(注1)―だけでも、旧列強諸国に「超過利
潤」ないしそれに類する経済的優位がもたらされるようになっ
たのではないのか?>という所まで視野を広げれば、話はもっ
と混沌としてきそうです。(注2)
注1.その実態は貿易条件の慎重な操作に過ぎなかったりし ます。
注2.少なくとも、先進国では今日実に平和裏に機能してい る労働市場や労使間の雇用契約=労働者から資本への剰余価値 の移転も、その草創期においては、農民から土地を<強奪>し 、国家の強権的介入によって人々が労働者にならざるを得ない 状況に追い込まれていくような例も見られました。目に見える あからさまな強制がなくなったからといって、それだけで一方 から他方への一方的な富の移転もなくなったとは言い切れませ ん。
あるいは
「列強間の戦争を過去のものにした最大の要因は、経済的な要 因ではなく、戦後世界に広がった強力な民主主義運動」(「時 代の到来(3)」)
という見解にしても、たとえば、<世界市場の拡大・発展に伴 う各国経済の相互依存の深化が、経済にとってあまりにも大き な波乱要因となる列強間戦争を、市場・資本がもうかつてのよ うには許容できない状況をもたらしたのではないのか?>(注 3)といった視点についても十分検討したうえで、「最大の要 因」から「経済的な要因」を排除したのか、少なくとも今回の 一連の投稿を読む限りではまったく明らかでありません。
注3.イラク戦争程度の騒乱でさえ、原油国際価格の大幅な 上昇をもたらし、各国経済に少なからぬ混乱を与えました。
また、原さんは、原さんの言う無党派層の全体が護憲・反身 自由主義で一致しているかのようにいわれ(この見解は「時代 の到来(1)(2)(3)(4)」全編を通じて貫かれている 基本テーゼです)、かつ、小泉の郵政解散・総選挙による自民 党の新自由主義政党化と対する民主党の―小沢の代表就任に象 徴される―在来型自民党化によって、原さんの言われる無党派 層と民主党間の矛盾・対立は当面解消した、とも言われます( 以上「時代の到来(4)」参照)。しかし、原さん自身、原さ んの言われる無党派層について、その
「多数派は崩壊した社会党を中心に野党に投票してきた人…」 (「時代の到来(1)」)
とみなしているわけで、これがその通りなら、原さんの言う無 党派層は、93年総選挙で在来型自民党だけでなく社会党をも 大敗させたうえで、<普通の国><日本改造>を掲げる新自由 主義的改革の旗手、小沢をキーマンとする非自民連立政権を発 足させ(注4)、その後曲折を経て民主党を押し上げるにいた ったということになります。
注4.このとき、小泉・安部から野中広務、亀井静香、鈴木 宗男にいたるまで、自民党に残った面々は<守旧派>呼ばわり されました。ちなみにこのとき小泉は、小選挙区制反対の急先 鋒でもありました。小選挙区制の欠陥、あるいは怖さを当時か ら認識していたという点は、小泉が9.11で見せた<巧みさ >を考えるうえで注目に値します。
そう考えると、原さんの言う無党派層は、憲法を含む戦後民
主主義体制とそれに付随する55年体制、とりわけ社会党に飽
き足らなかった層、それゆえにそれらを見放した層と見ること
もできるのではないでしょうか?(注5)
少なくとも、原さんの言う無党派層の全体ないし大半が、護
憲・反新自由主義指向であるとの判断の根拠はまったく明確で
はありません(注6)。(なお、日本人の「中産階級化」、「
労働者階級からの自立」(「時代の到来(2)」参照)を、む
しろ帝国主義的・新自由主義的路線に対する世論の容認・親和
性の要因の一つとする見方については「さざ波通信」第2号「
不破政権論―半年目の総括―(下)」、同第4号「新ガイドラ
イン法の成立と従属的帝国主義(上)」参照)
注5.原さんの言う無党派層が本当に護憲・反新自由主義指 向であるなら、それ以前同様、93年以降も「社会党を中心に 」投票するのが、最も合理的な矛盾のない選択であったはずで す。
注6.例えば
「なぜ中産階級が憲法をおのれの綱領にするのか?憲法がもと もと彼らの自立、自己決定の母体であるということと、改憲勢 力の経済綱領が新自由主義であり、中産階級の経済的地位を攻 撃するからである。」(「時代の到来(2)」
という一文。そもそもここで言う「中産階級」が(<何から> という点も含めて)本当に「自立」しているのか?「自己決定 」の思想を本当に持っているのか?それほど自明なことでしょ うか。後半についても、双方が経済での対立状態を確実に憲法 問題でも引きずってくれるという根拠はまるで不明です。そも そも改憲には、そういった経済的対立を、復古主義や愛国心を 強調することでごまかしてしまおう、という要因もあるのでは ないでしょうか?
仮に、原さんの言う無党派層が護憲・反新自由主義で一致し
ているとしても、「新自由主義の自民党と在来型自民党の政策
を引き継ぐ民主党という入れ替わりが生じた」(「時代の到来
(4)」)ことで原さんの言う無党派層と民主党間の経済政策
をめぐる矛盾・対立が、―たとえ当面にせよ―解消したのかは
なお疑問です。
そもそも原さんの言う「在来型自民党の政策」がどのような
ものをさしているのか不明ですが、例えば、民主党が11月2
8日に発表した「政権政策(たたき台)」―民主党が小沢代表
のもと、小沢も直接関与して作成した初の、まとまった政策文
書―を見ても、農家への所得保障制度創設を除けば、積極財政
・保護主義的傾向は必ずしも明確ではなく、むしろ貿易・投資
の自由化や民間事業の規制撤廃、財政支出の大幅な削減等をう
たい、新自由主義的傾向はなお払拭されたとは言い難いものと
なっています。また、法人税率の引き上げや累進税制の強化・
最高税率引き上げによる所得再配分についての言及も皆無です
(そもそもこの「(たたき台)」には、税制についてのまとま
った項目がありません)。(注7)
注7.「(たたき台)」を受けた党内議論も始まったようで すが、新聞報道を見る限り、<消費税率の引き上げを明記しな いのはけしからん>といった類の話ばかりのようです。
もっとも、私に民主党の新自由主義的なところばかり目に付 くのは、例の<定型化した観念図式>にとらわれているためで あるおそれもあるので、ぜひ皆さん、各自民主党ホームページ を参照のうえ、
「こうして無党派層の政治運動は、改憲を主導する自民党に対 抗する民主党を押し上げることを通じて、自己の経済的基盤を 擁護し、政権交代という「政治改革」をすすめると同時に、改 憲を抑止する道を探し当てたのである」(「時代の到来(4) 」)
と言う原さんの結論の、とりわけ「自己の経済的基盤を擁護し 」について改めて考えてみてください。もしかしたら私には見 ることのできない「在来型自民党の政策」なるものを<発見> できるかもしれません。
原さんは私の「青い鳥」を、定型化した観念図式にとらわれ
た見方、と断じましたが(「時代の到来(1)」参照)、原さ
んの「時代の到来」もまた―それとは別の―古い観念図式にと
らわれた見方であるように私には思われました。
原さんの言う日本人の中産階級化(「時代の到来(2)」参
照)が達成されたのは、ケインズ主義的政策ないし社会民主主
義(注8)による庶民の購買力増と国内市場の持続的拡大が、
企業にも労働者に対する安定雇用と持続的賃上げを可能にし、
それがさらに庶民の購買力、国内市場の拡大をもたらすという
、持続する好循環によるものでした(注9)。この好循環は共
産主義によってもたらされた訳ではありません。共産主義抜き
でも、国民の生活は向上するし、実際したのです。しかも、実
もふたもないことを言えば、労働運動抜きでも、この好循環は
成立するのです(注10)。共産主義どころか労働運動(及び
それと表裏一体である労働者意識)すら、生活向上のためには
必要なかったのです。(注11)
さらに、この持続する好循環の時代は、文化的・思想的・歴
史的な日本・日本人をそれほど意識・強調せずとも、あるいは
戦前のように国家が露骨に統制しなくとも、国民全体に波及し
ていく実体を伴った経済的上昇機運が、実質的に国民を統合し
得たのです。
注8.こういう政策を可能にしたのも、平和憲法によって戦 前のような多額の軍事負担から解放されたからです。原さんも 指摘する通り、平和憲法が日本の繁栄に多大な貢献をしたのは 疑いえません。
注9.その恩恵は大企業正規男性従業員に先行して現れまし た。これは、日本で民間大企業労組がいち早く協調化した大き な要因の一つといえるでしょう。一方、その恩恵に取り残され がちだった公共部門、一部中小企業の労組(国労、全逓、全金 等)は比較的後のころまで、その戦闘性を喪失<できなかった >のです。また、以外にも各地で地区労がしぶとく生き残って いるのは、当時から中小企業労働者や社外工・臨時工等、同じ く恩恵に取り残されがちだった層の組織化を直接担うことが多 かったのも、影響しているのかもしれません。
注10.もちろん、春闘に代表される労働運動が、この好循 環の恩恵をより広い層に効率よく波及させ、好循環を一層促進 したのは確かでしょう。
注11.これらの事態は一見、「資本が労働者階級に賃金以 上の余剰を与えるのは限定された一部に限られるはずだという 先験的意識」を否定する(「時代の到来(2)」参照)ものの ように見えます。しかし、ひとたび視野を世界に広げ、ほんの 「一部」の地域・人口を占めるに過ぎない先進国と、第三世界 を中心とする多くの地域との経済格差に目を向けていたなら、 この問題にはなお検討の余地があることが、当時においてもわ かった筈なのです。
しかしこのケインズ主義的・社会民主主義的好循環も、国内 市場の飽和という思わぬ壁にぶちあたります(注12)。 ケ インズ主義的政策ないし社会民主主義によっては、少なくとも かつてほどの高成長は、次第に日本も含む先進国では得られな くなっていったのです(注13)。 しかもこの時期、国内外 の市場では、旧来の西側先進国だけでなく、発展途上国とみな されてきた国々から成長してきた新興国まで本格的に参入し始 めます。さらに、そもそも政府や資本がケインズ主義ないし社 会民主主義的路線を受け入れたのは、共産主義への対抗、ない し共産主義に触発されて、という要素もあった訳ですが、その 共産主義が、ソ連・東欧圏の崩壊で完全に失墜してしまいまし た。それは同時に、資本や国家にとって、ケインズ主義や社会 民主主義によって資本主義を<修正>する政治的・イデオロギ ー的意義の著しい低下も意味していたのです。しかもソ連の衰 退・崩壊は、東西両陣営の経済的結束まで衰退・崩壊させます 。かつては米ソ両大国が発展途上国をイデオロギーの草刈場と していましたが、今や全世界が、各国各企業入り乱れての経済 の草刈場へと変貌したのです。
注12.もはや<三種の神器>や<3C>ほどの―経済全体 を牽引するような―爆発的売れ筋商品はなかなか思い当たりま せん。
注13.だからといって、ケインズ主義が完全に無効になっ たとはいえません。国内個人消費に裏付けられた<そこそこの >成長を達成する上では、なお、その有効性は失われていない でしょう。しかし、共産主義の<脅威>もないのに、なぜ資本 が<そこそこの>自己増殖で満足しなければならないのか?共 産主義の<脅威>抜きで、資本に<そこそこの>自己増殖で我 慢させることができるのか?といった、ケインズ主義そのもの の有効性とは別の問題が持ち上がっているのです。
これらの要因が、今日の新自由主義の興隆を準備したのです
が、社会主義諸国の崩壊した時期は、原さんが言うのとはまた
違った「断絶」(「時代の到来(1)」参照)ももたらしてい
たのです。
それは、共産主義や労働運動・労働者意識抜きでも生活が向
上した時代、右翼思想や国家による統制強化抜きでも国民が統
合され得た時代、ケインズ<革命>の成功にすがっていればよ
かった時代、実は、自民党から社共に至るまで、解釈の相違は
抱えつつも、少なくとも当面の<最小限綱領>ないし<歴史的
妥協>としては大筋で日本国憲法を許容し得た時代(注14)
との「断絶」だったのです。
注14.グローバル化の時代、資本は自らの自己増殖欲求の 命ずるまま、少々政情不安な地域にも進出していかなければな りません。しかしそうなると、進出先での<自衛>の問題も出 てくるし、そうでなくとも、進出先政府に対し、自らに有利な 条件を認めてもらうための直接・間接の軍事力ないし本籍国政 府の<威信>や<国際的影響力>も必要になってきます。そし てこの瞬間、平和憲法は資本にとって、繁栄の保障から自己増 殖活動のくびきへと転化するのです。東西冷戦下、政治的・軍 事的・イデオロギー的のみならず、経済的にも団結した西側陣 営の一員として、一国平和主義を謳歌できた時代は、資本のあ くなき自己増殖欲求を満たす上では、過去のものとなったので す。
しかし原さんは「この断絶を見ない」(「時代の到来(1) 」)のか、冷戦とバブル崩壊以前の定型化した観念図式に引き ずられ、「全人格的成長要求を中心とした運動」に反比例して 「生活防衛の権利闘争」を軽視し(「時代の到来(2)」参照 )、「負け組」青年が右翼になる要因として「従来の左翼運動 の否定的影響を見」るだけで満足し(「時代の到来(2)」参 照)、国民の少なからぬ層に日本国憲法への疑念や不信、ある いは現状追認的な無関心が広がる中で、
「改憲を阻止することに有効なもののみが評価の対象になる」 (「時代の到来(2)」)
という教条主義を振りかざし(注15)、左翼運動の現状は「 旧に復する思考や判断基準、運動方法で挽回できる事態ではな い」「まったく新しい闘い方が必要になっていることを示して いる」(「時代の到来(1)」)、あるいは、労働者の中産階 級化によって「その意識も変われば、要求の内容や運動の仕方 も変わってこざるを得ないのは当然」「全く新しい闘い方が必 要じゃないのか」(「時代の到来(2)」)等と繰り返し述べ ながら、結局、一人一人は非力な人たちが、みんなで要求を練 り上げ、一緒に交渉に臨み、あるいは協力してストライキに訴 えるという、社会主義草創期以来の伝統的思考・判断基準・運 動方法を超えて、(直接)民主主義を、自己決定の思想を、我 が物にしていく具体的運動方法は何一つ提起できない―(注1 6)
注15.もちろん、すでに護憲を信条としている人同士なら 、護憲に特化して共闘を進めることは、有効であり、不可欠で さえあるかもしれません。しかし現時点で改憲指向、ないし憲 法問題に無関心な人に護憲の輪を広げるには、その人にとって 身近な問題や困難、あるいは興味のある政治問題を取り上げ、 そこから、憲法の諸理念へと切り結んでいく<逸脱><遠回り >も、必要ではないでしょうか?
注16.私は、原さんがあげる「良い教師になるためのノウ ハウ講座」(「時代の到来(2)」)のような例を否定する気 は毛頭ありませんが、それは基本的に<自分を変える>運動で あって、<社会を変える>運動ではありません。
もっとも、こんな見方もすべて、私が例の、定型化された観 念図式にとらわれているからに過ぎないことを願いつつ、ひと まず筆をおきたいと思います。