詳細なコメントをありがとうございます。
最初に、全体的な感想から述べると、こうも議論がかみ合わ
ないものなのかと嘆息しきりだということです。私の投稿の主
たる議論は日本の社会変革がどのような進み方をしているのか
を明らかにすることにあったのですから、丸さんが批判すると
すれば、私の主張するようにではなく別の進み方をしているこ
とを示し、その見地から批判するべきであったでしょう。
しかし、丸さんの批判は無党派層の弱点だけを取りあげ、彼
らに政治革新の能力がないということを「証明」することだけ
に熱中しています。これはいかにも消極的な批判だといわなけ
ればなりません。そこで私の反論も丸さんの議論に合わせるほ
かないわけで、丸さんが無党派層批判に熱中する原因にまで遡
ってみることになります。
1、私の返事の結論
このサイトで何度も引用したことですが、丸さんへの返事は
次のレーニンの一文に尽きるということです。
この引用は、一字一句、何度でも読み替えして反芻してみる
べき価値ある言葉であって、世界の共産主義運動が失敗に終わ
るほかないことを予見(私の投稿(4)の<注6>参照)した
レーニンの根拠そのものでもあります。
この著作は編集者による注意書きを読めばわかるように、共
産主義インターナショナル第2回大会に間に合わせるべく急遽
作成されたもので、私に言わせれば世界の共産主義者に向けて
書かれたレーニンの『遺言』にあたるものです。だから、『帝
国主義論』や『国家と革命』以上に、今日では繰りかえし読ま
れるべき重要な著作なのです。
この引用の最後の一行を除けば、マルクス主義の戦術の基本
、弾力的な戦術の必要性を説いているわけですが、なぜ、その
ような弾力的な戦術をとれないことが「マルクス主義と科学的
な近代社会主義一般をすこしも理解しないもの」であるのかを
よく考えてみる必要があります。
その思想であれ、その資本主義分析であれ、また政治・経済
情勢分析であれ、最終的には政治戦術に収斂してくるからであ
って、政治戦術が誤っていれば、その前段の全ての分析が仮に
正しいものであっても、すべては水泡に帰するからです。だか
ら、戦術にマルクス主義の全思想、全神経、全センスが凝縮さ
れて表現されるのです。
また、実際的には多くの場合、政治戦術を誤まるということ
は、その前段の各種分析、理解も誤っているのであって、前段
の諸分析が正しくて戦術だけが誤るということはあまりないも
のです。というのは、前段の分析も政治戦術の提起も同じ思考
方法で行われるものだからです。すなわち、非弁証法的思考と
いうことになりましょう。
2、丸さんの主張全体を貫く典型的な議論
丸さんの議論の全体は、丸さん自身がどれほど自覚している
かわかりませんが、無党派層嫌い、その核心は生理的なまでの
中産階級嫌いで貫かれており、理論も何もなく、とにかく中産
階級嫌いを正当化する理屈がかき集められているというのが特
徴です。丸さんは驚かれるかもしれませんが、私にはそう見え
るのです。以下の全議論はその論証ということになります。
丸さんの投稿(2)で、次のように言われています。
この1行に丸さんの全議論の「秘密」が示されています。中
産階級は経済的に資本から自立しておらず、そんな連中に何が
できるか、というわけです。
まず、経済的に自立ということから言えば、労働力を資本に
売って生活している労働者は他の収入がなければ、すべて一人
残らず資本から経済的に自立することはあり得ないことです。
逆立ちしてもできない。共産主義を信奉する強固な意志を持つ
労働者ですら資本から経済的に自立することはありえません。
労働者階級も自立できません。不可能です。
経済的従属は意識の如何に関わりなく存在しています。こま
かく言えば、無党派層の一部は自立できる。一部の自営業者、
自由業、富農がそうです。しかし、こんなわかりきったことを
中産階級にぶつけてどうするんですか?
労働者階級は経済的にはまったく資本に従属しているからこ
そ、社会主義をめざす革命の主体としておのれを陶冶し革命を
遂行する歴史的役割を担っているというのがマルクス主義の一
般理論ではなかったのですか? 経済的従属は革命の主体形成
能力を否定する根拠にはならないのです。
むしろ、逆だ。切っても切れない経済的従属関係に置かれて
いることが、革命の主体形成能力を陶冶させる。中産階級の大
半も資本に経済的に従属しているからこそ、その多くは労働者
階級と同じ立場に立たされることになる。中産階級が経済的に
資本に従属していることは、彼らの政治革新能力を否定する根
拠にはできないものです。
だから、この丸さんの議論には誤った根拠で難癖をつけると いう中産階級というものへの毛嫌い、不信感だけが露出してい ます。私を「やっつけたい」丸さんの衝動の中身はこれです。 私が丸さんの言う無党派層の弱点(職場闘争の欠如、企業にお ける孤立、党派としての主体性の未成立)を認めているにもか かわらず、丸さんが執拗に無党派層の弱点を取りあげる「秘密 」がここにあるのです。
3、無党派層は何もしていないのか?
丸さんはその投稿(4)で私が丸さんの指摘する無党派層の
弱点を認めていることを「残念」と言っていますが、これは後
からとってつけたような奇妙な議論です。私が認めたのは丸さ
んが指摘する範囲(職場闘争の欠如、企業における孤立、党派
としての主体の未成立)でのことです。私は3点を明記してい
ます。
丸さんは「青い鳥」の投稿で、「無党派層は社会変革の担い
手としての日常的実践をほとんどしていない」(4)と主張し
ていたのですか? つまり、私が明記している3点の弱点を越
えて、社会全体における様々な社会運動を含めて無党派層は「
日常的実践をほとんどしていない」と主張していたのですか?
そうではないでしょう。もっと限定的だったはずです。
無党派層の社会運動全般を視野に入れて、彼らは「日常的実
践をほとんどしていない」と言うのであれば、丸さんの主張は
まったく根拠のないものになってしまいます。たとえば、「9
条の会」や平和共同候補運動一つとってもわかることです。私
の知り合いの弁護士や医者、学者、教師の様々な活動、主婦の
平和運動、定年退職者の様々なNPO、介護ボランティア、個
人加盟の組合活動、青年達の平和運動、核廃絶運動やフェア・
トレードにいたるまで、それこそ無数の運動があるのです。
それとも、丸さんはそうした無党派層の社会運動を「社会変
革の担い手としての日常的実践」ではないとでもいうのでしょ
うか? もし、そういうことだとすれば馬鹿げた話になってし
まいます。丸さんはいつから社会運動を選別する審問官になっ
たのだということになってしまいます。
4、「ためにする議論」になっている
丸さんは投稿(4)で良い教師になるための「ノウハウ講座
」を「それは基本的に<自分を変える>運動であって、<社会
を変える>運動ではありません。」と言っていますが、どうし
てこんなことが言えるのでしょうか? 個人の能力アップだけ
の問題ではないでしょう。組合員が開催主体となって組合員と
結びついていく運動の一環にあるわけだから、参加する教員が
「自分を変える」ならば、組合との結びつきも強まり、組合員
も増えていくことに結びついて行くじゃないですか。組合員が
増えることは組合の強化に結びついて行くじゃないですか。
これはもう職場における人間の内面の変化とその人間がもつ
職場における人間関係を人為的に切断する「ためにする議論」
です。人間が変わらないでどうして社会変革ができるのでしょ
うか。 丸さんは何のために他人に働きかけるのですか? こ
の丸さんの議論にも理屈抜きに私の議論を「やっつけたい」と
いう衝動があるだけです。この強烈なまでの丸さんの中産階級
嫌いが何に由来するのかは、この投稿の範囲を越えているので
止めておきましょう。
5、新しいものと古いものを分断する形式論理による誤解
丸さんの投稿(2)では、職場闘争やこれまでの権利闘争や
虐げられた労働者が手を結ぶ運動をしなくてもいいかのごとく
、私が主張していると述べていますが、私の投稿のどこを読ん
だらこんな解釈が出てくるのでしょうか? まったく不思議で
仕方がない。
それらのことは全て前提です。当然、やるべきことです。ど
んな新しい戦い方であろうとそれらは全て労働者の権利と生活
を守るためじゃないですか。だったら、新しい戦い方が必要だ
と言えば、形式論理で、これまでの戦い方は誤りだ、不要だ主
張していると判断すべきじゃないことは当然わかってしかるべ
きことじゃないですか。
私はこれまでの職場闘争の戦い方が誤りだ、不要だとはどこ
でも述べてはいません。これまでのやり方では限界があること
ははっきりしており、それはじり貧化している現状を見ればわ
かるだろうと言っているのです。
だから、新しい闘いの仕方を見つけ出す必要があり、そうし
た新しい戦い方が作り出せれば、もう、以前の戦い方も以前の
ままではなくなります。新しいものと古いものが結びつき全体
の闘いの姿を変えていくからです。新しいものか、これまでの
ものか、ではありません。あれかこれかではなく、あれもこれ
もです。ここでも「4」に見た人為的な切断同様の形式論理に
よる切断がみられます。
6、新しい運動の仕方は古いものをも変える
若い教員の要求である良い教師になるための「ノウハウ講座
」にしても、それを組合運動の戦略的中核の一つに位置づけ、
若い教員をそこに誘い、知識や技術、経験を教える過程を通じ
て、若い教員が一人で孤立しているのではないことを教え、彼
らとの人的結びつきを強め、新しい側面から組合の良さ、役割
を実感してもらい、そうして組合員になってもらい、今度はそ
の若い教員組合員にさらに若い孤立している教員に手をさしの
べることをやってもらい、そうして仲間に助けられ、助けるこ
とで団結や組合加入者が広がっていく運動ができあがれば、こ
れまでの組合員への勧誘運動や教員の権利闘争も非常にやりや
すくなるじゃありませんか。
私はそういうことを言っているのであって、新しい戦い方が
必要だといえば、古い戦い方が否定されているとする形式論理
的な解釈がまったく理解できない。職場での運動は新しい戦い
方と古い戦い方が別個に孤立して相互に何の関係もなく、相互
に影響し合うこともなく、存在できる場所ではないのです。だ
から、新しいものが生み出されれば、これまでのものもこれま
でのものではなくなるのです。どうして、こんなことがわから
ないのですか?
7、丸さんにあっては、なぜ提携ではなく選別排除になるのか
?
丸さんの中産階級嫌いが無党派層の弱点だけを取りあげて彼
らを選別し排除しているのです。それなりの長所があってもそ
れを見ることはない。こうして日本の共産主義運動の伝統とも
いうべき選別・排除が丸さんの議論にも受容されていくのです
。
私の思うところでは、丸さんの中産階級嫌いはレーニンの言
う「左翼主義」(「共産主義内の『左翼主義』小児病」でレー
ニンは詳述している)の気質の一つなのです。レーニンの場合
は主敵を除いて相手を『客観的』に見ること、相手の弱点を正
確にとらえることは主に提携の可能性を探るためであって、決
して選別し切り捨てるためではありません。なぜなら、弱小勢
力は、それ以外に勢力を拡大し政治情勢を切り開いていく方法
がないからです。レーニンによれば、この左翼主義はこんな単
純な真理もわからないと言っています。上に引用したレーニン
の文章を読んでください。
弱小勢力が長所も短所もある無党派層の弱点だけをこれでも
かこれでもかとあげつらい、そのあげくには経済的に資本から
自立していないという資本主義の下では一般には不可能な「欠
点」を指折り数える姿は正気の沙汰ではありません。
これは理論がどうのこうとか、政治情勢がどうのこうのとか
いう以前の問題で、こうした気質、心情を払拭できない勢力は
社会変革の一大勢力へ成長してゆく能力に根本的に欠けている
と断ぜざるを得ないほどのものです。 理論も現状認識もへち
まもなく、毛嫌いするものを選別し排除したいという衝動が丸
さんに文章を書かせています。
8、無党派嫌いがイメージを肥大化させる
それと誤解してもらっては困ることは、私が言う無党派が社
会変革を成し遂げてゆく十全な能力を持っているなどとは一言
も言っていないことです。彼らが主流になるというのは、彼ら
が十全な能力を持っていると言うこととはまったく別のことで
す。主流になるとは、まず数の上での中心だということ、そし
て数の上での多数派の彼らの思想は民主主義(憲法)だから、
民主主義思想を核とした運動が主流になるということです。だ
から、共産主義勢力は彼らと提携していけるし相互に協力し支
え合う関係にあり、相互の弱点を補い合って進むしか社会変革
の展望は開けてこないと言っているのです。「原さんが言われ
るように、立派で、政治意識も高い人たちならば」(3)と丸
さんは言っていますが、これも誤解です。政治意識が高いとい
うことは相対的なものです。支持する政党がないという一般的
な無党派や一般国民のなかでは政治意識は高いのであり、共産
主義者と比べれば一般に低いでしょう。また、政治意識が高い
ということは、時代を変革していくのに必要とされる政治的能
力を十分持っているということでもありません。もちろん「立
派」だなんて言葉を集団として見ている無党派に私は使ったこ
ともありません。
ここでは丸さんの中産階級という言葉を聞くだけで嫌になる
感覚がベースになって、私が言ってもいない勝手なイメージを
膨ませているだけです。
9、「見捨てられる」のは自業自得ではないか?
その結果、「無党派層に見捨てられた側に立っての精一杯の
<皮肉>」(3)も言いたくもなるわけです。ここにも丸さん
の見落とすことのできない無党派嫌いの重大な心情が吐露され
ています。丸さんの正直な心情なのでしょう。しかし、共産主
義者は「見捨てられた」と思ってはいけないのです。「見捨て
られた」のではなく、自分たちの働きかけが悪かったと考えな
ければならないのです。無党派層(国民だ!)から「見捨てら
れた」のは、自分たちの運動が国民から遊離するような思想、
運動だったからです。
日本の共産主義運動の歴史を顧みて、これは共産主義者がお
のれを律する不動の原則にするべき事です。これが不動の原則
にならないから独善が生まれてきます。共産党の戦前の「総括
」の特徴です。やがて、時代が大きく変わると、時代への適応
能力のなさが露呈し、理論も実践も骨化してきます。日本共産
党を見てご覧なさい。不破は今年の「赤旗祭り」で、日本資本
主義の第4の特徴に「反共主義」を格上げしたいとまで言って
います。共産党が国政選挙で連敗したのは、共産党を見捨てる
国民の「反共主義」が原因だと言っているわけです。
丸さんの議論は無党派層の弱点をさんざん取りあげて提携す
る相手に足りずと切り捨てておいて、無党派層から「見捨てら
れた」と言っているのです。これでもか、これでもかと無党派
層の弱点を取りあげ、職場闘争をできないとカス扱いして、自
分の方から選別し切り捨てる対応をとっているのだから、相手
に「見捨てられた」って当然じゃないですか? 恨みっこなし
じゃないですか。
これで我々の陣営は分裂し皮肉を言い合い、非力で無力にな
る。これが丸さんの願っていることなのですか? 自分の議論
がいかに無茶苦茶であるか、いかにわがままな議論をしている
か、もう、わかってもいいんじゃないですか。
丸さんの本能的なまでの中産階級への毛嫌いという感覚を野
放しにして、その感覚が選好する議論を組み立てるから、わが
ままで、従って展望の持てない自縄自縛に陥ることになるので
す。
10、そのままで肯定できるものはどこにあるのか?
これは時代を変革する立場に立とうとする者が言うべき言葉
ではありません。私の投稿(3)の13で、すでに丸さんの傍
観者的態度を指摘していた。無党派層を毛嫌いする丸さんは無
党派層を固定的に見ています。「現状のまま」とは、現瞬間を
切り取った状態のことを言うのであって、無党派も政治も動い
ています。無党派も変化する。どう変化するのか、どういう働
きかけをすれば何がどう変わるのか、そうしたことを考慮にい
れて接触(働きかけの一形態だ)することが事の始まりじゃな
いですか。
そこをはずして、「現状のままでは肯定的なものは得られな
い」(!)のでは、どこかに肯定的なものを探しに行くのです
か? そんなものはどこにもありはしないのです。どこにある
か、丸さんは指摘できるでしょうか? 逆立ちしても指摘でき
るわけがないのです。自分でさえ「現状のまま」では肯定的に
見ることはできないものです。 目の前の現実から離れて、だ
れが「青い鳥」を探しているのでしょうか? 無党派か、丸さ
んなのか?
11、無党派層を選別排除して得られる「一縷の望み」とは?
ここが丸さんの「青い鳥」の居場所だ。正直な心情が吐露さ
れている。これは無条件に正しい。ただし、現実をすべて捨象
した場合にはである。だから、観念的にしか居場所を見つけら
れないのです。「具体的行為の集成」は、丸さんの尺度に合う
ものも合わないものも日々集成されているというのが現実です
。
「一人一人は非力な人間」で右往左往し、多くの弱点を抱え
て闘ったり抱き込まれたりしているのは、無党派層であれ、丸
さんの「青い鳥」でさえ同じことです。だから、少しでも長所
があればそれを評価し、お互いに手を結べと私は言っているの
です。私の言っていることは単純なことです。
丸さんの言うことはまったく逆です。あれこれと丸さん好み
の基準を立てては選別し切り捨てる。これは現実をすべて切り
捨て排除することと同じことです。なぜなら、現実はどんな見
方をしても長所と短所を兼ね備えているからです。両者の混合
物だ。短所があれば切り捨てるのであれば現実を切り捨てるこ
とになり、社会変革から逃亡するしかない。
社会変革の第一歩は短所をなくし長所を探し、手を結ぶこと
からはじまる。丸さんは最初から社会変革の十全な担い手を捜
しているのです。まったくの観念論だ。だから、丸さんは「青
い鳥」の居場所でさえ「現状のままでは肯定的なものは得られ
ない」でしょう。なぜなら非力だからです。
すべての原因は丸さんのその左翼的な感覚にあるのです。そ
の左翼的感覚が提携ではなく選別・排除を強いている。そして
、自分で選別しておいて「見捨てられた」と感じているのです
。そしてどうなるのか? 「それでも私は、一人一人は非力な
人間の、ささやかな、でも具体的行為の集成が歴史をつくると
いう視点に、一縷の望みを託しているのです。」という観念的
なむなしい希望だけしか残らなのです。
これが丸さんの投稿(1)~(4)の帰結なのです。 中産
階級を毛嫌いする感覚に催促されて自分好みの基準を作り、そ
れを無党派層にあてがい、大木に育つにはひ弱だと切り捨て、
芽生えてきた緑をむしり取り、そうして自らの周辺を砂漠化さ
せ、とどのつまりは観念的な「一縷の望み」しかなくなるので
す。
丸さんの議論はすべて中産階級嫌いの感覚に支配されており
、感覚的な選好がその選好にあう材料をあちこちから集めてき
て議論を作らせているのです。その事例を最後にもう一つあげ
ておきましょう。
12、職場情勢は政治情勢ではない
私の議論全体の一核心に対する丸さんの評価が次のものです
。
中産階級を毛嫌いする心情を「理論化」(?)する丸さんの
論立ての基本がこれです。
私の投稿全体の一結論である現在の政治情勢を見る基準(改
憲を阻止することに有効なもの)が「偏狭」だと評価されてい
ます。つまり、彼らは生活の現実に圧迫されており憲法どころ
ではなく、せいぜいのところささやかな抵抗でもあればいいと
ころだが、それらの日常闘争は改憲阻止に有効なものという基
準ではすべて切り捨てられてしまうと言うわけです。同じこと
が丸さんの投稿(4)では「教条主義」とまで言われています
。丸さんにあっては政治情勢を評価する基準は職場情勢を評価
する基準になっているわけです。
丸さんは「偏狭」「教条主義」というその評価によほどの自
信があるのでしょう。自分の評価に何の疑問も感じていない。
そこが私には実に不思議なところなのです。この不思議さの基
礎に丸さん好みの感覚があり、それに依拠する議論の組み立て
があるのです。
この議論は大混乱そのものというほかありません。政治情勢
評価の基準だと私が言っているものが、職場における「日常闘
争」の評価基準にすり替えられている。すり替えられていると
いうより丸さんの頭の中では等置されているのです。丸さんの
頭の中では無意識のうち(これが問題だ)に、政治情勢=職場
情勢と等置されているのです。だから、何の疑いもなく、私の
言う政治情勢の評価基準が丸さんにあっては職場情勢、職場闘
争の評価基準になるのです。
丸さんの頭の中ではどちらも階級闘争だという観念のるつぼ
に溶け込まされているからなのです。この観念のるつぼの中で
は職場情勢と政治情勢は同じ階級闘争の二つの現象形態と把握
され、等置されてしまっているのです。あるいは、いろいろな
分野で行われる日常闘争こそ、政治情勢を根底で規制してゆく
ものであるという一般的には正しい議論が誤って単純化され、
職場情勢が政治情勢と規制する、職場情勢=政治情勢と短絡さ
れているのです。
しかし、私の言う政治情勢評価の基準とは諸政党や全国的な
政治運動等が登場する国政全体の動き=政治情勢に対する評価
基準なのであって、職場情勢や職場での闘争を評価する基準で
はありえない。基準をあてがう対象がそもそも違う。政治情勢
は職場での日常闘争には還元できない。政治情勢は職場闘争の
単純な総和ではないのです。だから、同じ基準をあてがうこと
はできないのです。
13、自分の好みにあう議論=基底還元論
こんな単純な誤りが起きても、その誤りに気がつかないのは
、両者を等置する思考が丸さんには自然で、したがって違和感
がないからです。自分の好みにあう結論をもってきてくれる歓
迎すべき思考なのです。
そのような思考が政治情勢を見ると、今度は次のようになる
。政治情勢と職場情勢の間には様々な政治・経済・社会の各部
面、各分野が地層のように積み重なって分厚い層をなしている
(フランスのレギュラシオン学派が精力的に研究していた。グ
ラムシの陣地戦論、ヘゲモニー論ともかかわる)のですが、そ
うしたものとしてではなく、薄っぺらい紙が3枚張り合わされ
たように理解されることになる。基底の職場闘争の動きがその
まま3層目の政治情勢の動きとして現れ出る世界なのです。職
場情勢=政治情勢なのである。新左翼の多くに特徴的な政治情
勢の主観的評価の根本原因がこれです。
この思考様式は共産党の場合も同様で、階級闘争の深部の力
がそのままで政治の表舞台で共産党を政治闘争の中心に押し上
げ、自共対決がいつも政治情勢の中心だと錯覚させています。
階級闘争の深部が政治闘争の表舞台(たとえば国政選挙)と薄
っぺらい紙一枚で隔てられている世界です。この思考様式は現
実の政治が持つ構造を無視した主観的な認識、観念論だという
しかありません。古くから基底還元思考とか本質還元思考と呼
ばれてきたものです。
政治情勢把握に顕著に現れるこの思考様式は、その誤りは簡
単にわかることですが、これが一向に反省されない、その誤り
に気がつかないのは彼らの感覚がそれを選好しているからです
。丸さんも無意識のうちに選好している。だから、疑うことが
ない。丸さんや彼らの感覚に合った思考様式なのです。彼らの
感覚がこの思考様式を選び取らせるのです。
それが長い習慣のなかで、いろいろな政治的理由がつけられ
て政治的に利用され反省されるどころか、むしろ打ち固められ
る。「日本の政治の未来は、今度の選挙で日本共産党が伸びる
かどうかにかかっています」と不破や志位はやるのです。自分
たちが政治の主役だという気分をくすぐり、党員に当事者意識
を持たせるのに役立つものに変貌させられています。
14、丸さんの共産主義に見る3原色
中産階級(古典的には「小ブルジョア階級」と言い換えても
いい。私は現代では「市民階級」と呼ぶべきだと思うのですが
)に対する生理的なまでの毛嫌い、基底還元思考、社会の底辺
にいる虐げられた者への執着(愛着)、これが丸さんの議論全
体を貫く基本的な色調、色の3原色です。これが共産主義とい
う衣を着ているのです。
余談になりますが、日本型左翼主義の3原色だとも言え、日
本の共産主義の諸党派はその歴史過程で3原色のそれぞれに強
弱の違いをつけて分化してきたように見えます。
しかし、その共産主義がおのれの3原色に合わせて裁断され
た「共産主義」の衣でしかないことは、ここで取りあげた丸さ
んの基準が提携ではなく選別・排除の基準となっていることで
もわかるでしょう。共産党は独特の無党派観で選別し排除する
。
現実の、長所もあれば弱点もある無党派層に働きかけて提携
するのではなく、好みの基準を立てて選別し、荒野に芽吹く緑
をむしり取るから丸さんの周辺は砂漠化し「青い鳥」の居場所
すらなくなるのです。レーニンが予見したように、敵はわが身
の内にあるのです。