ちょっと投稿が少ないようなので、あえて言わずもがなのメールを送ります。
なお皆さん、継続は力です。社会的信用問題です。投稿を増やし合いましょう。
さてと、ところで、原さんと丸さんの討論に割って入ります。
原さんを支持しますね。まず、原さんの以下の本質的な指摘において。左翼には根強くこういう特徴があると思いますし、僕もこれには凄く抵抗がある。現代社会分析が欠けた、教条主義だと思います。要するに、具体的な「こうして世の中を変えよう」という討論に対して、「古典にはこう書いてあるから違う」と語って、討論したつもりになっている。こうした論議はもう止めませんか。窮乏革命論ももー全くだめです。客観主義以外のなにものでもありません。
「中産階級(古典的には『小ブルジョア階級』と言い換えてもいい。私は現代では『市民階級』と呼ぶべきだと思うのですが)に対する生理的なまでの毛嫌い、基底還元思考、社会の底辺にいる虐げられた者への執着(愛着)、これが丸さんの議論全体を貫く基本的な色調、色の3原色です。これが共産主義という衣を着ているのです」
次いで、そういう「教条主義」の発生の実践的な弱点が以下の点にあるという指摘も全く賛成です。
「このサイトで何度も引用したことですが、丸さんへの返事は次のレーニンの一文に尽きるということです。 『力のまさっている敵に打ち勝つことは、最大限の努力を払う場合にはじめてできることであり、かならず、最も綿密に、注意深く、慎重に、たくみに、たとえどんなに小さなものであろうと敵のあいだのあらゆる『ひび』を利用し、各国のブルジョアジーの間や、個々の国内のブルジョアジーのいろいろなグループまたは種類の間のあらゆる利害の対立を利用し、また大衆的な同盟者を、よしんば一時的な、動揺的な、ふたしかな、たよりにならない、条件的な同盟者でも、手に入れる可能性を、それがどんなに小さいものであろうと、すべて利用するばあいにはじめてできることである。このことを理解しないものは、マルクス主義と科学的な近代社会主義一般をすこしも理解しないものである。』(『共産主義内の『左翼主義』小児病』全集31巻58ページ)
この引用は、一字一句、何度でも読み替えして反芻してみるべき価値ある言葉であって、世界の共産主義運動が失敗に終わるほかないことを予見(私の投稿(4)の<注6>参照)したレーニンの根拠そのものでもあります。」
そして以上の本質的諸点を方法論的原因として、何よりも丸さんら旧左翼の教条主義が、以下の実践的諸点をほとんど語って来なかったということが指摘されています。この点では日本共産党も同様の対象であると思いますが、全部正しいと思いますね。
「私の投稿の主たる議論は日本の社会変革がどのような進み方をしているのかを明らかにすることにあったのですから、丸さんが批判するとすれば、私の主張するようにではなく別の進み方をしていることを示し、その見地から批判するべきであったでしょう。」
確かに丸さんも日本共産党も、「自民、民主2大勢力の間に割って入るためにはこうしよう」と提起して、成功してみせることによって、「力のまさっている敵に打ち勝つことは、最大限の努力を払う場合にはじめてできること」という、現代日本的な実践的・創造的な観点は何も存在していないと思います。理論的に存在するのは、労働者待ちという客観主義だけです。「『こうなるはず』という宣伝さえ続けていれば、いつか労働者が社会をひっくり返す時が来る」という「理論」だけが存在するということです。実際に行っていることはそういうことにしか見えません。生産力がなんらか社会を変えるとは、本当でしょう。しかしながら、社会主義的生産関係的なものは選挙に勝って政権を取らなければなにも始まらないはずです。社会主義的生産関係は従来の生産関係と違って自然成長的には生まれず、権力掌握後の問題のはず。そして、選挙、政権に関して「労働者階級云々」はもうやめにしませんか。それどころか「窮乏」と選挙とは直接関係はないと語っても良いぐらいと、僕は考えています。アメリカを見ても生活困窮者は選挙には行かず、発展途上国のようにポピュリズムに引っかかるということすらもないというのが現実ではないでしょうか。5年、10年単位のことが必要なのに、悠々と20年、30年単位のことを語るとするならば、客観主義と言うよりも必要なことは何も語っていないというに等しいと考えます。