「丸さんの中産階級嫌いが無党派層の弱点だけを取り上げて彼 らを選別し排除しているのです。」 「理論も現状認識もへちまもなく、毛嫌いするものを選別し排 除したいという動機が丸さんに文章を書かせています。」
私の無党派層・中産階級に対する「毛嫌い」が、私に無党派
層・中産階級を選別し、排除させている、と言うのが、原さん
の「三原色」において繰り返し言及される、全編を通じての一
貫した主要テーマといっていいでしょう。ところで、なぜ原さ
んが、私が無党派層・中産階級を嫌っている、と、こうまで固
く信じ込んでいるのか?これは「三原色」中におけるひとつの
謎です。原さん自身、なぜ自分がこのような確信を得るに至っ
たかについて、何も明らかにしてくれないからです。まあ私が
勝手に推測するに、私が無党派層・中産階級を嫌っている、と
いう確証が先にあるのではなく、無党派層・中産階級の批判・
弱点ばかり挙げ連ねている、ということから後付で、丸は無党
派層・中産階級を嫌っている<のだろう>と、原さんもまた勝
手に推測している<のだろう>とは思います。だからこそ私の
無党派層・中産階級嫌いについて、「丸さん自身ががどれほど
自覚しているかわかりませんが」という、強気なのか弱気なの
かわからない、ある意味正直な発言も漏れるのでしょう。しか
し、考えてみれば、人間がある対象についてその批判、弱点ば
かりを挙げ連ねるのは、その対象を嫌っているからとは限らな
い訳で、こよなく愛すればこそ、あえてお小言ばかり言ってい
る、という事だって十二分に有り得るではないですか。
本題に入りましょう。
原さんは、私が無党派層・中産階級を選別・排除していると
言いながら、私が、投稿中のどの文章、どの語句によって、ど
のように無党派層・中産階級を選別、排除したのか、決して短
くはない「三原色」中とうとう明示できていません。結局、私
が無党派層・中産階級の弱点、批判ばかり上げ連ねている、と
いう事をもってして<それは無党派層・中産階級を選別・排除
しようとしているからに違いない>と後付的に自分の中で合理
化を図っているに過ぎません。それもそのはずで、私は別に無
党派層・中産階級を選別も排除もしていなければ、個人的に嫌
ってもいないからです。そもそも、もし仮に私が、原さんが言
う意味での無党派層・中産階級を選別、排除しようとしても、
あるいは毛嫌いしようとしても、それは不可能なのです。
なぜなら、原さんが言う意味での無党派層や中産階級など、
ほとんど成立していないからです。少なくとも私はそう考えて
います。
ほとんど居もしないと言っていいものを―少なくとも自分が
そう考えているものを―嫌うことはできません。
ほとんど在りもしないと言っていいものを―少なくとも自分
がそう考えているものを―選別、排除することもできません。
例えば、原さんの言う中産階級は、古典的な意味での絶対的
に窮乏化していく労働者(階級)とは言えない=古典的労働者
階級像を否定するもの、とは言えるかもしれません。しかし、
古典的労働者階級像の不成立は、即、労働者階級とは別の階級
の成立を意味するものではないはずです。大体、原さんの言う
中産階級は、原さん自身その大半は雇用労働者であるといい、
その上、中産階級としての一定の意識的な統一した主張や中産
階級としてのある程度の意識的な団結した行動もほとんど見ら
れません。つまり、経済的な面(生産手段との関係)で見ても
政治的な面(階級意識)で見ても、階級と言える要件を満たし
ているとは思えません。確かに、国民の圧倒的多数派が、自分
の生活を<中流>と認識していることは以前から指摘されてい
ました(一億総中流意識)。しかし一般的に考えて、上や下と
いった<両極>を選択するには相対的に強い<自覚>ないし<
意識>が伴いますが(注1)、中という分類には<まさか自分
が上だなんて思いません><さすがに下とまではいえないな>
といった意識まで含み得る曖昧さがあります。例えば、当面衣
食住に切迫しておらず、冷蔵庫、テレビ、洗濯機等の耐久消費
家電が一通りあり、その一方で子供の教育費や住宅ローン、老
後のことを考えると家計に余裕はない、といった人は誰でも<
中流>を選択しかねません(注2)。
注1
そう考えると、
「国労が69年4月に行った組合員意識調査によれば、中流意
識が国民の90パーセントを占めるようになったこの時点で、
中流だと思っている者が31.4パーセント(それも圧倒的多
数は中の下)に過ぎず、下の上だと思っている者が38.4パ
ーセントで、下の下とする者も26.4パーセントを占めてい
た[「総評調査月報」1970年4月号]。」(兵頭?「労働の
戦後史(上)」東京大学出版会)
という国労組合員の意識は当時としてもかなり驚きです。国労
は組合員のこの相対的に強い生活意識ゆえに、比較的後まで、
その戦闘性を喪失<できなかった>ものと考えられます。しか
しそのような戦闘性―とそれを支える組合員の生活意識―はこ
の時すでに、国民多数派からは相当隔絶したものだったのです
。国労はそれを最後まで認識しえず、自らの戦闘性を過信し、
崩壊へと向かいます。
ちなみに、兵頭は国労組合員のこのような意識の背景として
「64年春闘での池田=大田会談により、公企体賃金の民間準
拠が確認されたとはいえ、民間大企業と国鉄労働者の十数パー
セントに及ぶ賃金格差は埋められないまま残されたといわれる
…そのうえ、国鉄の場合には、「青空の見える人事管理」が敷
かれた鉄鋼の場合とは違って、昇進ルートの上限はかなり低い
ものであった…」(前掲書)
点を指摘しています。
注2
「もしアンケート票作成者が、「あなたは中流と呼ばれるため
に、どういう条件を満たしていなければならぬと考えますか?
持ち家を持っていることですか。その家の広さはどれくらいな
ければいけませんか?十坪以上、二十坪以上、三十坪以上、四
十坪以上あること。収入は年五百万円以上なら中流と思います
か。それとも一千万円以上なければ中流といえないでしょうか
。資産は五千万円以上あることが中流の条件ですか。それとも
一億円以上あることですか…」などという質問に答えさせ、自
分は、その条件を満たしていると思うか、と最後に質問したら
、決して「一億総中流」のような結果は出なかったはずである
。それは断言してもいい。」(なだ いなだ「心の散歩」三笠
書房 知的生き方文庫所収「一億総中流と、「並」という考え
」)
「断言」できるかどうかはともかく、アンケートの質問のあ
り方、ひいては中流の定義(の曖昧さ)に着目したなだの指摘
には鋭いものがあります。
「…このアンケートにはそんなことをあれこれ考えていたら答
えられないのである。もっと大まかに、いいかげんに答えても
らわなければならない…その場合、「考えてみれば、わたした
ちの生活、まあまあね」という感想のかわりに、わたしたちは
中流ですと答えられる。」(前掲書)
なだは、「一億総中流」という回答の真意は
「「並み」の生活のいいかえとしての「中流」という言葉」
の表れに他ならないと指摘します。他にもなだは、
「…日本語には、中流の下を示す言葉が「流」を使う表現の中
にはない…日本語に、下流という言葉はある。しかし、それは
川下の部分をさすだけで、日常的に社会の下層を示す意味では
使われない。ある種のカテゴリーの表現では、「下」はタブー
の言葉となって用いられないのだ。
つまり、上流、中流、があって下流がなければ、自分は中流
だという答えは、上中下の中だということを意味していない。
」
「「上」の天丼と「並」の天丼は、メニューに書かれていても
、下の天丼の名前は書かれていない。…もしかしたら、「特上
」の天丼はメニューに付け加えられているかもしれない。「特
上」を「上」とすれば、上は中、並は下ということになる。上
中下と三分割すればそういうことだが、ともかく、言葉のうえ
では並は下ではない。」
といった日本語の言語感覚についても指摘しています。もっと
も、「下流」という言葉については、例のベストセラー本によ
って「社会の下層を示す意味」としても、昨今定着した感もあ
りますが。
そう考えると、「中流」と答える人の真意は、単に、私は人
「並」、世間「並」です、といっているに過ぎない可能性も色
濃くなってきます。少なくとも、<中流>生活意識をもってし
て、原さんが言うような「中産階級」成立の根拠とするのは著
しく厳密さに欠けるでしょう。
結局、原さんが中産階級と呼んでいるものの大半の実態は、
(政治的な意味での)階級意識を―労働者階級としてのもので
あれ、「中産階級」としてのものであれ―ほとんどもたない、
(経済的な意味での)労働者階級なのです。同様に、無党派層
にしても、民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想
の担い手としては、現状ほとんど政治的・社会的に登場してこ
ないのですから、原さんの言う意味での(革新的)無党派層も
未成立であるといわざる得ません。
要するに、原さんの示す無党派層認識、原さんの示す中産階
級認識は、現実には適合しないものばかりなのです。それを無
理に現実の無党派層、現実の<中流>―というか<並>―層に
当てはめて解釈しようとすると、私が一連の投稿で示してきた
ように、倒錯した、あるいは皮肉な事態になってしまうのです
。原さんは「三原色」の冒頭、
「丸さんの批判は無党派層の弱点だけを取り上げ、彼らに政治 革新能力がないということを「証明」することだけに熱中して います。」
と言っていますが、あえて「弱点」「証明」という言葉を使っ て私の前回の投稿について語るとすれば、それはまず何よりも 、原さんの示す無党派層認識、原さんの示す中産階級認識の「 弱点」を指摘し、それらの認識が現実には適合しないことを「 証明」するものだった、ということになるでしょう(注3)。 それをあたかも、現実の無党派層、現実の<中流>層を選別・ 排除しているかのごとくに受け取るのは、原さんが、自身の無 党派層認識、自身の中産階級認識を、まったく無批判に、何の 疑問も抱かず、現実そのものであると思い込んでいるからに過 ぎません。
注3
私の、「原仙作氏の「時代の到来」に寄せて」を注意深く読ん
でもらえれば、そこではしつこいぐらいに「原さんの言う無党
派層」「原さんの言う「中産階級」」あるいは、原さんの「時
代の到来」からの引用としての「革新的無党派層」という表現
が執拗に使われていることに気づくはずです。私は、何も伊達
や酔狂でこんなまだるっこしい言い方をしていたわけではあり
ません。
もっとも、こんなことを言うと原さんは、<現状、自分が言 うような無党派層や中産階級が未成立であっても、今後成立す る余地はある。その余地をいかに生かしていくかこそが、日本 の社会変革の進むべきあり方だ>と言われることでしょう。だ とすると、現状の無党派層あるいは中産階級という概念自体は そのまま用いて、いわば、あるべき無党派層、あるべき中産階 級を追求・育成していくということになります。しかし、それ は果たして(どのように、という点も含めて)可能でしょうか ?あるいは、より現実的でより有効なことでしょうか?それに ついてはもう少し後で論じることになります。
「数の上での多数派である彼ら(無党派層のこと―引用者注) の思想は民主主義(憲法)だから、民主主義思想を核とした運 動が主流になるということです。…(無党派層について)…「 原さんが言われるように、立派で、政治意識も高い人たちなら ば」(3)と丸さんは言っていますが、これは誤解です。政治 意識が高いということは相対的なものです。…また政治意識が 高いということは、時代を革新していくのに必要とされる政治 的能力を十分持っているということでもありません。もちろん 「立派」だなんて言葉を集団として見ている無党派層に私は使 ったこともありません。」
まず「立派」という安直な語を使用してしまったことをお詫 びします。その上で、「立派」という語を、原さんが05.8 .5付け「2005年の都議選と日本共産党」で原さん自身が 無党派層に対して使っている語を使って
「原さんの言う無党派層が、「民主主義感覚(直接民主主義指 向)」「「自己決定」の思想」を「認識の核心」「強固に形成 されてきた思想」とし「侮れない知識と情報の担い手」で、政 治意識も高い人たちならば…」
と置き換えて、改めて考えてみたいと思います。
2005年の小泉の郵政解散・総選挙に際して、原さんの言
う無党派層も含めてほとんど誰も、郵政事業の現場労働者のこ
とや、―郵政民営化によって外資に食い物にされるかもしれな
い郵便貯金すら持ち合わせていない―無貯蓄世帯が当時すでに
2割に達していたことは、話題にさえしませんでした。また、
原さんが「ヒューマニズムの原点に立って訴えられる、それこ
そ全ての国民を怒らせらることができる闘い」になるはずだっ
たという障害者自立支援法をめぐっても、原さんの言う無党派
層も含む国民の中に、成立阻止に向けた怒りはおろか、法案自
体への関心すら大きく広がることはありませんでした。このよ
うな無党派層のあり方に、「彼らの思想は民主主義(憲法)だ
」といえる要素がどれほどあるのでしょうか?「民主主義思想
を核とした運動が主流になるという」展望にどれほどの説得力
を持たせることができるでしょうか?むしろ無党派層(とそれ
を含む国民の多数派)のこのようなあり方は、「民主主義(憲
法)」「民主主義思想を核とした運動」を実現していくことの
困難さを痛感させるものではないでしょうか。
それでも、原さんの言う無党派層は、他の人々と比べれば「
政治意識が高い」といえるのかもしれません。しかしそれは、
「時代を変革していく政治的能力を十分持っている」いない以
前に、わざわざ「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自
己決定」の思想」を「認識の核心」「強固に形成されてきた思
想」とする「侮れない知識と情報の担い手」と形容すべき状態
にあるといえるのでしょうか。
結局、原さんの無党派層認識、原さんの中産階級認識は、希
望的観測に過ぎないのではないでしょうか。「「そうあるべき
だ」という観念」(「時代の到来(1)」)は現実を見誤らせ
かねません。
ところで、原さんは「三原色」においても相変わらず
(無党派層のことを指して)「彼らの思想は民主主義(憲法) だから」
といっていますが、これはどの程度自明なことなのでしょうか ?この点については前回の投稿でもいくつか疑問を示したはず ですが(詳しくは丸 楠夫「原仙作氏の「時代の到来」に寄せ て(4)」参照)、それについて回答はおろか言及することも なく、同じような前提を何の説明もなくさも自明のことのよう に用いるというのは、一体どういうことなのでしょうか?原さ んは、他者の疑問や疑念に答えることで、自説をより説得力あ るものにしていくということには、まったく関心がないのでし ょうか?それとも、答えようにも答えられない、何か理由があ るのでしょうか?これも、今回の原さんの「三原色」中の謎の ひとつです。
「9.「見捨てられる」のは自業自得ではないのか?
その結果、「無党派層に見捨てられた側に立っての精一杯の <皮肉>」(3)もいいたくもなるわけです。ここにも丸さん の見落とすことのできない無党派層嫌いの重大な心情が吐露さ れています。丸さんの正直な心情なのでしょう。しかし共産主 義者は「見捨てられた」と思ってはいけないのです。…」
私は「原仙作氏の「時代の到来」に寄せて(3)」において
「…原さんが言われるような「傍観者的態度」というよりも、 その本心は、無党派層が―原さんが言われるように、立派で、 政治意識も高い人たちならば―どうして郵政民営化に際して
<毎日郵便を届けに来るあのおじちゃんは、民営化で一体どう なるんだろう?>
とほんのちょっとでも思ってくれなかったのか?あるいは障害 者自立支援法に関連して言えば
<養護学校や特殊学級に通っている子たちは、卒業したら一体 どこに行くんだろう?>
と思ってくれたなら、という、無党派層に見捨てられた側に立 っての精一杯の<皮肉>なのです。」
といっているのであり、ここで私が「立って」いる「無党派層
に見捨てられた側」が、「共産主義者」(の側)を指している
のではなく―どの文脈から「共産主義者」という語を引っ張っ
てきたのでしょうか?―、「毎日郵便を届けに来るあのおじち
ゃん」の側、「養護学校や特殊学級に通っている子たち」の側
であることは明白であるかと思います。この点、確認していた
だいて意義がないようであれば、原さんは「三原色」の丸々一
項目全文を、自身の読み間違えに基づいて書かれていることに
なります。
私としても、原さんがご自身の読み間違え相手にドン・キホ
ーテさながらの<突撃>ぶりをさらしているのは見るに忍びな
いので、原さんのためにも、「9.「見捨てられる」のは自業
自得ではないか?」全文の撤回を、原さんがすみやかに明言さ
れることを要求します。
なお、これは私のまったくの希望ですが、併せて、なぜこの
ような読み間違いをしたのか、について、原さん自身による簡
単な(自己)分析の一文も添えていただければ幸いです……
と、ここまで入力していて気がついたのですが、原さんの「
三原色」の「9.「見捨てられる」のは自業自得ではないか?
」を読み返すと、例えば、「しかし共産主義者は「見捨てられ
た」と思ってはいけないのです。」という文は、「しかし共産
主義者は<「毎日郵便を届けに来るあのおじちゃん」や「養護
学校や特殊学級に通っている子たち」が、>「見捨てられた」
と思ってはいけないのです。」と、解釈することも可能なよう
です。同様に原さんの「三原色」の「9.」全文を、「<「毎
日郵便を届けに来るあのおじちゃん」や「養護学校や特殊学級
に通っている子たち」が、>「見捨てられる」のは自業自得で
はないか?」あるいは「<「毎日郵便を届けに来るあのおじち
ゃん」や「養護学校や特殊学級に通っている子たち」が、>「
見捨てられる」のは<「共産主義者」の>自業自得ではないか
?」、と解釈することも、どうやら可能なようです。もし原さ
んが本当にこのようなつもりで書いていたとしたら、上で私が
言っている撤回云々はまるっきり頓珍漢な話になってしまいま
す。この点、ぜひとも原さんには確認のお返事を寄せていただ
けるよう、よろしくお願いします。
「「私は、共産党とはまた違った立場から、無党派層を無党派 層として現状のままとらえても、そこから肯定的なものは得ら れないだろうと考えています。」(3)
これは時代を変革する立場に立とうとするものが言うべき言 葉ではありません。・・・無党派層を毛嫌いする丸さんは無党 派層を固定的に見ています。「現状のまま」とは現段階を切り 取った状態のことを言うのであって、無党派層も政治も動いて います。無党派層も変化する。どう変化するのか、どういう働 きかけをすれば何がどう変わるのか、そうしたことを考慮にい れて接触(働きかけの一形態だ)することが事の始まりじゃな いですか。
そこをはずして、「現状のままでは肯定的なものは得られな い」(!)のでは、どこかに肯定的なものを探しに行くのです か?
そんなものはどこにもありはしないのです。どこにあるか、 丸さんは指摘できるでしょうか?逆立ちしても指摘できるわけ がないのです。」
無党派層とは、社会のさまざまな分野のさまざまな一端を担
い、一人一人顔も名前もある多種多様な人々を、継続的な特定
政党支持を持たない有権者(支持政党なし層)でかつ政治参加
・選挙参加に比較的積極的(政治・選挙に関心が高い)という
共通項でくくった、一種の分類であり、概念です。
では、無党派層に働きかける―具体的に「働きかけ」の対象
をとらえ、具体的な「働きかけ」の方法を考え、具体的な「変
化」を考慮して実際に「働きかけ」る―とは、一体具体的に何
をすることでしょうか?
例えば<無党派層である○○さん>への「働きかけ」の仕方
であれば、ある程度具体的にイメージできるでしょう。しかし
それは無党派層への働きかけである以前に<○○さん>という
固有の顔も名前もある一人の人間への「接触」、「働きかけ」
であり、○○さんが無党派層であることは、せいぜい、○○さ
んに「接触」「働きかけ」する上でのひとつの考慮点であるに
過ぎません。あるいはもう少し大雑把に、例えば<無党派層で
ある労働者><無党派層である年金生活者>への「接触」「働
きかけ」について考えるにしても、それは具体的にはまず何よ
りも、<労働者>や<年金生活者>への働きかけとならざるを
得ないでしょう。
むしろ<無党派層への働きかけ>を先に考えてしまうと、そ
れはあまりにも漠然としすぎていて、かえって具体的な働きか
けをますます困難にするだけではないか。そして結局は、小泉
的なイメージ選挙、広告代理店的なキャンペーン政治、マスコ
ミをどれだけ動員できるかの勝負、に行き着くしかないのでは
ないか。それを仮に小泉・安倍的路線とは逆の方向を目指すた
めに用いたとしても、そんなことでは、民主主義感覚(直接民
主主義指向)・自己決定思想を実現化していく民主主義的高揚
の時代からはますます遠ざかってしまうのではないか。そう私
は考えるのです。それは<無党派層と手を結ぶ>ことを考える
場合でも同じことです。
だったら最初から<無党派層への働きかけ>という発想では
なく、<○○さんへの働きかけ><労働者への働きかけ><年
金生活者への働きかけ><…への働きかけ>……とだけ考えて
いけばいいのではないか―もちろん個々の働きかけにおいて、
相手が無党派層であることを考慮する必要が出てくることは当
然あるでしょう。というよりもむしろ、<無党派層>という概
念は、相手に働きかける際に考慮すべきひとつの<情報>とし
て、その都度とらえていけばいいだけではないか―。そうした
働きかけは、<結果的に>無党派層へ働きかけを<したことに
もなっていく>のではないか、と考えるのです。そして諸個人
や諸分野への具体的な一つ一つの「働きかけ」によってこそ、
―例えばフランスで、労働者・学生を中心とする多くの人々が
、<政党>によることなく、自分たち自身のデモとストライキ
と、そして何よりも社会的連帯を生み出す力によって、政府の
CPE(初期雇用契約)を撤回させたように(注4)―多様な
諸個人や諸分野それぞれの民主主義的感覚(直接民主主義指向
)・自己決定思想が連帯し、社会変革を担っていく展望も切り
開かれ得る、と考えるのです。
注4
もっともそのフランスにしても、先の移民暴動でも明らかなよ
うに、依然として分断と困難を抱えているのですが。
ですから私は、原さんのように無党派層という概念を、さら に革新的無党派層とそれ以外に分類したり(ところでこれは、 原さんが繰り返し私に対して使うところの「選別」には当たら ないのでしょうか)、中産階級という概念を新たに持ち込んだ りする議論に、あまり意義を感じないのです。むしろ現実をよ り見えにくくするだけではないかとさえ思えるのです。しかも 原さん自身、革新的無党派層以外の無党派層への働きかけにつ いて
「青年たちの胸ぐらに飛び込んで、「ヒーロー」が偽りのヒー ローであること、青年たちが騙されていること、青年たちの窮 状は小泉が作り出したものであること、加害者は実は「ヒーロ ー」その人であることを暴露し、民主主義のかけがえのない価 値を、平和のかけがえのない価値を訴え、その価値こそが青年 たちに自由を与え、生活を守り育て、日本の未来を切り開く源 泉であることを攻勢的に、死力を尽くして訴えることができな ければ勝てない。」(06.9.9「2005年総選挙におけ る小泉圧勝の原因と護憲派の欠陥」)
といった決意表明しかできていないのです(注5)。それでも まだ、原さんの言う革新的無党派層や中産階級が―社会の民主 的変革の担い手としての能力を相当に持った存在として―十分 成立している、というのならともかく、原さん自身、自分が言 っている無党派層や中産階級について
「時代を変革していく能力を十分持っているということでもあ りません」
と言っているのです。
注5
これが単なる決意表明ではなく本当に、文字通り不特定多数の
「青年達の胸ぐらに飛び込んで…暴露し…訴える」と、かなり
の確率でトラブルになりそうです(何しろ「胸ぐらに飛び込」
んで来るのですから、逆に「訴え」られてしまうかもしれませ
ん)。
ならば現状、世間で広く無党派層という概念が定着している
からといって、あるいは学者やジャーナリズムの一部がそれを
希望の原理のごとく語るからといって、その<概念>の枠にこ
だわって対抗戦略を考える必要はないのではないでしょうか。
ここで私は、さざ波通信をご覧の皆さんに声を大にして言い
たい。
無党派層という<概念>の枠に踊らされるのは―そしてその
概念の枠によって他人を躍らせることも―もうやめましょう。
無党派層という<言葉>は、いっそのこと死語にしてしまい
ましょう。
宮崎県知事選を受けて、<無党派層対策が求められている>
と言う政党や政治家、マスコミに対して、<お前らの言う無党
派層対策って何だ>と質問状をたたきつけてやりましょう。
と。
もっとも、以上のような見解に対しては、「それはあまりに
「清算主義的な見方」だというお定まりの批判が予想されるが
、では、主要な傾向がどちらにあるのかと反問したいところで
ある」(「時代の到来(1)」)。
「私の言う政治情勢評価の基準とは諸政党や全国的な政治運動 等が登場する国政全体の動き=政治情勢に対する評価基準なの であって、職場情勢や職場での闘争(引用者注6)を評価する 基準ではありえない。基準をあてがう対象がそもそも違う。政 治情勢は職場闘争の単純な総和ではないのです。だから、同じ 基準をあてがうことはできないのです。」
この辺りの議論を私なりに整理しますと
「改憲を阻止することに有効なもののみが評価の対象になる。 」(「時代の到来(2)」)
という原さんの見解に対し私が、
「国民の少なからぬ層に日本国憲法への疑念や不信、あるいは 現状追認的な無関心が広がる中で」(「原仙作氏の「時代の到 来」に寄せて(4)」)
そんなことを言っていたら「「企業に虐げられた労働者」や 「「負け組」青年」を含む広範な層に運動を広げることはでき ないのではないか(「原仙作氏の「時代の到来」に寄せて(2 )」参照)と疑問を呈し、それに原さんが今回「三原色」の1 2.13.14.の項目において
<自分が「改憲を阻止することに有効なもののみが評価の対象 になる」といったのはあくまで「諸政党や全国的な政治運動等 が登場する国政全体の動き=政治情勢に対する評価基準」とし てであって、生活の場からの日常闘争の基準(注.5)として ではない。>(「三原色」12.13.14参照)
と答える、といったところでしょうか。
注6
原さんの「三原色」の原文の書き方だと、私が「職場情勢」「
職場闘争」だけしか言っていないような印象を受けますが、わ
たしは一連の投稿で
「職場や、社会の各断面の身近な日常から、「連帯」し、「国
民的結合を」図り、「政治的組織を生みだ」すべく「自分自身
の名前で主張し」、自らを自らで代表しようと「必死にもがい
ている姿」は、死滅しつつあった」(「青い鳥(下)」)
「どんなに立派なスローガンを掲げても、それに力を与えるの
は身近な生活の場からの日常闘争であるはずです。」(「原仙
作氏の「時代の到来」に寄せて(2)」)
「原さんの言う革新的無党派層が、―自分とは直接かかわりは
ないけれど―他者の身の上について気にかけ、疑問を持ち、そ
の疑問を、組織的な運動ではなくても、身近な人に話してみた
り、新聞に投書したり、政府・与党や関係省庁、法案に賛成す
る議員たちに問い合わせたりしていたなら、―法案の成立事態
は阻止できなかったとしても―もっと違った状況も切り開きえ
たのではないでしょうか?」(前掲投稿の「(3)」)
「日常的実践をしていない」「日常闘争の不在」(前掲投稿の
「(4)」)
とも言っています。つまり「職場(闘争・情勢)」だけでなく
身近な日常の場(での闘争・情勢)全般も問題にしています。
「職場」をことさら強調するのは、最も多くの人にとって最も
大きな比重を占める日常の場であろうからです。もっともこう
言ったところで、原さんの私に対する「基底還元思考」という
評価に変更はないものと思いますが。
しかし考えてみれば、
「政治情勢と職場情勢の間にはさまざまな政治・経済・社会の 各部面、各分野が地層のように積み重なって分厚い層をなして いる。」
また現実は
「階級闘争の深部が政治闘争の表舞台(例えば国政選挙)と薄 っぺらい紙一重で隔てられている世界」
ではないからこそ、市井に庶民として生きるわれわれ一人一人
が、―原さんが言うところの―「政治情勢」「政治闘争の表舞
台」において後景にとどまらず、その進行に主体的・能動的に
割り込んでいくためには、―「政治闘争の表舞台(例えば国政
選挙)」それ自体を、全ての人が自らの<生業>とする訳には
行かない以上―自らが日々生きているその現場(例えば職場)
から日常的に闘争を立ち上げていくほかありませんし、また「
政治・経済・社会の各部面、各分野」それぞれにおける民主主
義的感覚(直接民主主義指向)・自己決定の思想とその実践の
「地層のよう」な「積み重な」りとして「諸政党や全国的な政
治運動が登場する国政全体の動き」を自ら作り出せない限り、
真に「民主主義思想を核とした運動が主流となるということ」
もないはずです。
従って、生活の場からの日常闘争やそこでの情勢を最初から
考慮しない=そこへ還元されることを拒否する「諸政党や全国
的な政治運動が登場する国政全体の動き=政治情勢に対する評
価基準」は、実際に社会を変革していくための「評価基準」と
しては活用できないものとならざるを得ないでしょう。(注7
)
注7
確かに、このような現場の実践活動に適用する気が最初からな
い「評価基準」を「教条主義」(「原仙作氏の「時代の到来」
に寄せて(4)」)と呼ぶのはまったく不適切でしょう。もっ
とも、私が原さんと同じぐらい手厳しい人間であったなら、今
度は逆に「これは時代を変革する立場にあるものが言うべき言
葉ではありません」(「三原色」)ぐらいのことは言ったかも
しれませんが。
例えば
「職場で憲法28条=団結権・団体交渉権・団体行動権を自ら 実際に行使し、いまだ憲法25条<健康で文化的な最低限度の 生活>が確立しているとは言い難い職場も多いこの国で、それ を改めて獲得し直そうとする時、そこに初めて、憲法を守り抜 く―というより、憲法を自ら<実践>することで、憲法を自ら の手に<奪い返す>―展望、ひいては社会のより良い変革の可 能性も生まれると私は考えています。」(「原仙作氏の「時代 の到来」に寄せて(3)」)
「―自分とは直接かかわりはないけれど―他者の身の上につい て気にかけ、疑問を持ち、その疑問を、組織的な運動ではなく ても、身近な人に話してみたり、新聞に投書したり、政府・与 党や関係省庁、法案に賛成する議員たちに問い合わせたりして いたなら、―法案の成立事態は阻止できなかったとしても―も っと違った状況も切り開きえたのではないでしょうか?」(前 掲投稿)
「現時点で改憲指向、ないし憲法問題に無関心な人に護憲の輪 を広げるには、その人にとって身近な問題や困難、あるいは興 味のある政治問題を取り上げ、そこから、憲法の諸理念へと切 り結んでいく<逸脱><遠回り>も、必要ではないでしょうか ?」(前掲投稿の「(4)」)
という私の主張は、原さんにとっては「基底還元思考」という 否定すべきものに過ぎないのかもしれませんが、ではその代わ りに原さんが何を言っているかといえば、無党派層を革新的無 党派層とその他に―原さんが使っているたとえを借りれば―薄 っぺらい紙二枚のように示し、これがこそが接触すべき、働き かけるべき、手を結ぶべき相手だ、というだけで、ある程度具 体的に、「どういう働きかけをすれば何がどう変わるのか」( 「三原色」)という話しはほとんどないのです。(注8)
注8
もしかしたら以前から原さんが言っている、民主党を勝たせる
ことで政権を交代する、ということが無党派層と手を結び、無
党派層に働きかける方法なのでしょうか?しかしそのために原
さんが言っている具体的な提起は、共産党は全区立候補をやめ
るべき、という事であり、例えばその提起を共産党が実行した
としても、それ自体は単に共産党が<勝手に>小選挙区から降
りる、ということであり、それだけでは無党派層に接触してい
る事にも、直接働きかけをしている事にもなりません。原さん
の政権交代促進に関する提起はあくまで、政治情勢を少しでも
ましなほうに転換するために現在の傾向それ自体を何とか利用
できないか、という話であって、それ自体を無党派層への働き
かけ、それも無党派層を日本国憲法を綱領とする革命の担い手
へと変えていくための働きかけ、と見なすことはいくらなんで
もその間の過程をはしょり過ぎています。
あるいは平和共同候補運動への共産党の参加・協力の提起に
しても、それは、直接には現状すでに護憲を指向している人た
ちの選挙時における総結集を目的とするもの―つまり<無党派
層であるかどうか以前に>護憲派である人たちに対する、護憲
というある程度具体的な分野における「接触」「働きかけ」―
であって、それ以外の層への「接触」「働きかけ」はなお課題
として残ります。そしてその残された課題について、原さんは
なぜか具体的に語ろうとしないのです。
「中産階級(古典的には「小ブルジョア階級」と言い換えても いい。私は現代では「市民階級」と呼ぶべきだと思うのですが )に対する生理的なまでの毛嫌い、基底還元思考、社会の底辺 にいる虐げられた者への執着(愛着)、これが丸さんの議論全 体を貫く基本的な色調、色の三原色です。」
そもそも原さんは「日本国憲法が革命の綱領になる」(「時
代の到来(3)」)とも言っていたはずです。
綱領というのは「諸政党や全国的な政治運動が登場する国政
全体の動き=政治情勢に対する評価基準」であると同時に日常
的な闘争の指針=日常の闘争の現場へ絶えず「還元」されてい
くべきものでもなければなりません。でなければ、それは綱領
と呼ぶに値しません。もちろん原さんは、日本国憲法が現に綱
領なのではなくこれから「綱領になるのだ」(「時代の到来(
3)」)といっています。しかしそうであればなおのこと、職
場を始めとする生活の場からの日常闘争による<基底からの>
押し上げ抜きに、現に綱領でもないものが今後綱領として実効
性を発揮していくことなどあろうはずがありません。それとも
原さんは<基底還元思考それ自体は良いが、丸の基底還元思考
は悪い基底還元思考>とでも言うのでしょうか?それならそれ
で「薄っぺらい紙一枚で」云々といった「薄っぺらい」言葉遊
びなどせずに、(共産党のではなく)私の「基底還元思考」の
どこがどう問題でそれがどう弊害をもたらすのか具体的に明ら
かにし、それについて論理的整合性ある「証明」を試みられれ
ばいいことではないでしょうか。
また、「社会の底辺にいる虐げられた者への執着」というこ
とを原さんがどういう意図でわざわざ取り上げたのかわかりま
せんが、「社会の底辺にいる虐げられた者への執着」抜きの社
会変革など、何の意義もないどころか現状以上に恐ろしい社会
さえもたらしかねない事は、原さんも同意してくださることで
しょう。
最後になりましたが、本来、原さんが私のことを本当に論破
する気があったなら、私のことなどいとも簡単に論破できたは
ずなのです。せっかくですから、原さんがもっとも適切な呼び
方とお考えらしい「市民階級」という語を使わせてもらいます
が、北海<道民>と同じ意味での那覇<市民>といった市民で
はない「市民」が、「階級」と呼べるだけの実体と社会変革を
担いうる規模を伴って、現状すでに護憲・反新自由主義指向の
層として成立していることを事実に基づいて、事実と矛盾する
ことなく、整合性を持って「証明」しさえすればよかったので
す。あるいは現時点では成立していないというのであればそれ
を認めた上で、今後そのような「市民階級」を成立させていく
ことの現実性や必要性、有効性、そして今後「市民階級」を成
立させていくための現実的かつある程度具体的な手立てを明確
に示せばよかったのです。
ところが今回原さんは、奇をてらったのか、私をあまりに完
膚なきまでに論破してしまってはかわいそうと思ったのか、は
たまた最初から私のことなど相手にする気がなく自分が語りた
いことを語りたいように語っただけなのか、その辺は定かでは
ありませんが、旧来の共産主義に特徴的な欠陥の指摘と、私の
個人的な嗜好・投稿執筆の動機についての楽しいおしゃべりで
ほぼ投稿の全文を埋め尽くされました。
もし原さんが再び、私の投稿に対して回答を寄せようという
気になったら、今度こそは、北海<道民>と同じ意味での那覇
<市民>といった市民ではない「市民」が、「階級」と呼べる
だけの実体と社会変革を担いうる規模を伴って、現状すでに護
憲・反新自由主義指向指向の層として成立していることを事実
に基づいて、事実と矛盾することなく、整合性を持って「証明
」してくださるよう、あるいは現時点でそのような「市民階級
」が成立していないというのであればそれを認めた上で、今後
「市民階級」を成立させていくことの現実性や必要性、有効性
、そして今後「市民階級」を成立させていくための現実的かつ
ある程度具体的な手立てを明確に示してくださるよう願ってい
ます。そしてもしそれをしないということであれば、そのとき
ばかりは、そんなことは<できないのだ>ということで、この
論争にもおのずと決着がつけられるものと思います。