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「現状分析と対抗戦略」討論欄

原仙作氏の[三原色]によせて(1)

2007/1/30 丸 楠夫

 引用は「」で表記し、出典を示さないものは「現状分析と対 抗戦略」欄07,01,原仙作「共産主義の三原色」(以下「 三原色」)からの引用です。なお、その他文中に引用される原 氏および私の投稿は全て「現状分析と対抗戦略」欄掲載のもの です。

 今回、原さんの「三原色」に答えるため、これまでの一連の 投稿を踏まえつつ、いくつかの点で改めて説明を加え、併せて 、原さんの見解に対する私の考えを述べたいと思います。

「最初に、全体的な感想を述べると、こうも議論がかみ合わな いものなのかと嘆息しきりだということです。私の投稿の主た る議論は日本の社会変革がどのような進み方をしているかを明 らかにすることにあったのですから、丸さんが私を批判すると すれば、私の主張するようにではなく、別の進み方をしている ことを示し、その見地から批判するべきであったでしょう。
 しかし、丸さんの批判は無党派層の弱点だけを取り上げ、彼 らに政治革新の能力がないということを「証明」することだけ に熱中しています。」

 私が何よりもまず原さんにお伺いしたいのは、私が「取り上 げ」ている―と原さんが言う―「無党派層の弱点」は、原さん から見ても<事実に基づくもの>だったのでしょうか?あるい はまったくの<デタラメ>だったのでしょうか?そしてもし仮 に、原さんから見ても、その「無党派層の弱点」の多くが事実 に基づくものだったとした場合、原さんは、自身が主張される 日本の社会変革の進み方において、それらがどのような影響を 、あるいはどの程度の影響を与えるものとお考えになるのでし ょうか?また、私が「熱中してい」る―と原さんが言う―「無 党派層…に政治革新の能力がないということ」の「証明」は、 原さんから見て<成立>していたのでしょうか?あるいは成立 していないのであれば、それは<どの点に>、<どのよう論理 的整合性の破綻・矛盾>があったからなのでしょうか?
 これらはいずれも、原さんが主張する日本の社会変革の進み 方とは別の事態(原さんはまったく無頓着に「進み方」という 表現をされていますが、これは、日本の社会変革に向けた動き が<停滞>している、あるいは<後退>している可能性につい て、はじめからまったく考慮していないということなのでしょ うか?)が示されかねない―原さんにとっても―きわめて重要 な論点であるはずです。
 ところが今回、原さんの「三原色」を読むとそこには、私が 「無党派層(や「中産階級」)の弱点だけを取り上げ、彼らに 政治革新の能力がないことを「証明」することだけに熱中」す るにいたった<動機>や<個人的嗜好>(原さんいわく「中産 階級…に対する生理的なまでの毛嫌い」等々)がもっぱらの話 題とされ、そういった<動機>や<嗜好>は旧来の共産主義に 特徴的な欠陥である、と結論付けただけでほぼ投稿全文が終わ ってしまっています。端的に言って、原さんの「三原色」にお いては、私の投稿はもっぱら、旧来の共産主義に特徴的な欠陥 を示すための<サンプル>として使用されているに過ぎません 。もちろん、旧来の共産主義に特徴的な欠陥に対する原さんの 批判それ自体は相変わらず鋭く、有意義なものでもあり、また 、私のこれまでの投稿のどこを探しても書かれていない、私が 一連の投稿を執筆するにいたった<動機>や<個人的嗜好>に ついて、さも書かれているがのごとく断定していくさまは、少 年犯罪が世間を騒がすたびに、自分がまだ一度もあったことも ない加害少年について、マスコミ向けに心理学の専門家が行う 即興の精神分析や、有名占い師の運命鑑定を見ているようで、 読み物としても非常に面白かったのですが、ただ、ほぼそれだ けをメインテーマにして投稿を終わらせてしまえば、「こうも 議論がかみ合わないものかと嘆息しきり」となってしまうのも 必然でしょう。
 ところで、私が本当は<何の>弱点を取り上げ、<何を>証 明しようとしていたかについては、もう少し後で明らかにして いこうと思います。

「「原さんの言う「中産階級」は、労働者からは「経済的にも 意識の上でも」自立していながら、資本や経営からは―少なく とも経済的には―<まったく>自立していないのです。」

 この一行に丸さんの全議論の「秘密」が示されています。中 産階級は経済的に資本から自立しておらず、そんな連中に何が できるかというわけです。
 まず経済的自立ということから言えば、労働力を資本に売っ て生活している労働者は他の収入がなければ全て一人残らず資 本から経済的に自立することはあり得ないことです。…こんな わかりきったことを中産階級にぶつけてどうするんですか?・ ・中産階級の大半も資本に経済的に従属しているからこそ、そ の多くは労働者階級と同じ立場に立たされることになる。中産 階級が経済的に資本に従属していることは彼らの政治革新能力 を否定する根拠にはできないものです。」

 原さんが、「中産階級は経済的に資本から自立しておらず、 そんな連中に何ができるか、という」私の「全議論の「秘密」 」を、私の投稿のどの文章のどの語句をどのように解釈して読 み取ったのか、原さん自身「三原色」において何一つ明らかに してくれていませんが(何しろ、私の「全議論の「秘密」」と いうぐらいなのですから、そのぐらいの手間はかけてくれても よさそうなものです)、少なくとも私は、一連の投稿のどこに おいても、原さんの言う「中産階級」が資本・経営から経済的 に自立していないことを持って「そんな連中に何ができるか」 と問いかけた覚えもなければ、「彼らの政治革新能力を否定す る根拠」として用いた覚えもありません。もっとも、本当に私 が<覚えていない>だけである可能性も捨て切れませんので、 もし<思い出させて>くださるということでしたら、上記2点 に該当する私の投稿中の文章・語句を実際に引用して示してく ださるよう、よろしくお願いします。
 ところで、私が、何らかの評価や判断を下すでもなく、
 <原さんの言う「中産階級」は、原さん自身言うようにその 大半は雇用労働者なのだから、資本や経営からは経済的に自立 していない>
という事実―原さんいわく「こんなわかりきった」事実―を、
 <原さんの言う「中産階級」は、<意識の上でも>資本・経 営からほとんど自立していない(多くの場合、資本・経営に対 して屈服、無抵抗、不戦敗に甘んじている)>
という事実と併せてわざわざ指摘したのは(以上「原仙作氏の 「時代の到来」に寄せて(2)」参照)、原さんの言う「中産 階級」の「自立」が、資本・経営に対してのものではなく、あ くまで―原さんいわく「その多く」が「同じ立場に立たされ」 ているはずの―労働者(階級)に対してのものであることを確 認しておくためでした(もっとも、原さん自身「日本国憲法が 日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(以下「 時代の到来」)(2)」)において、「中産階級」は「経済的 にも意識の上でも」「労働者階級から自立している」といって いるだけで、資本・経営から、経済的にはもちろん<意識の上 でも>自立しているなどとは一言一句も言っていないのですが )。つまり、原さんの言う「中産階級」(の大半)は経済的な 意味・分類においては労働者(階級)でありながら、自分のこ とを、労働者階級ではなく別のものである(原さんいわく「中 産階級」)と―<実態>とは別に、ただ<意識の上>において だけ―思い込んでいるに過ぎないのです(ちなみに、私は何も 、「こんなわかりきったことを」「中産階級にぶつけて」いる つもりは無く、少なくとも直接には、そもそも自ら「中産階級 」論を持ち込んできた<原さん自身に>「ぶつけて」いるので す。その点くれぐれも間違えのないよう注意してください)。
 では今回は、それを踏まえた上で、原さんの言う「中産階級 」のそのようなあり方が、政治の場においてどのような現れ方 をしているのか?についても少し見ておきましょう。
 それは例えば国鉄の分割・民営化に際しては、国民多数派に 国鉄問題を労働者の立場でではなく、もっぱら、利用者・納税 者の立場、それも<株主>的な、より経営者側的な発想の立場 でのみとらえさせ、労働の現場とそこでの労働者の存在―とり わけ、よほど強く意識を働かせていない限り<一般の>利用者 ・納税者にとって普段目にする機会も少ない保線や修理・検査 の現場と、そこで泥まみれ、油まみれになって<安全>を支え ていた労働者―およびその民営化に伴う行く末を視界から消し てしまいました。
 また、まだ記憶に新しい郵政民営化騒動に際しては、国民多 数派にとっても日常目にする機会も多いはずの、あの赤バイク にまたがった郵政労働者の存在すら、完全に視界から消し去り 、あくまでも郵政事業サービスの受け手としての議論、それも どちらかというと過疎地や離島、山間僻地からの視点というよ りも、上から俯瞰するような郵政<事業のあり方>についての 議論によって決着がつけられました(この点については「無党 派層の青い鳥(以下「青い鳥」)(下)」も参照してください )。
 もちろんこれらの事例は、原さんが言う「中産階級」の「政 治革新能力を否定する根拠にはできないものです」。むしろ、 原さんの言う「中産階級」のあり方によって政治が「革新」さ れたことを明確に示す実例といえるでしょう。しかしこのよう な「政治革新」は、原さんの言う「民主主義的高揚」(「時代 の到来(2)」)の時代や「日本国憲法が日本革命の綱領とな る時代」(「時代の到来」タイトル)への展望を切り開く類の 「政治革新」でしょうか?
 と、ここでようやく<評価>の問題に移れるのです。これ以 前は<事実>をどう認識しどう分析するかの問題だったのです 。

丸さんは「青い鳥」の投稿で、「無党派層は社会変革の担い手 としての日常的実践をほとんどしていない」(4)と主張して いたのですか?つまり、私が明記している3点の弱点(職場闘 争の欠如、企業における孤立、党派としての主体の未成立―引 用者注)を超えて、社会全体における様々な社会運動を含めて 無党派層は「日常的実践をほとんどしていない」と主張してい たのですか?そうではないでしょう。もっと限定的だったはず です。
 無党派層の社会運動全体を視野に入れて、彼らは「日常的実 践をほとんどしていない」というのであれば、丸さんの主張は まったく根拠の無いものになってしまいます。」

 厳密に言うと「青い鳥」では、非雇用労働者の無党派層と雇 用労働者間の連帯、<人々の安全のため>や<業務の良好な遂 行のため>といった狭い意味での職場闘争の枠に収まらない運 動、個々の現場の労働者(例えば郵政労働者)や無貯蓄世帯と の連帯、<公務員と民間労働者><高齢者と現役世代><大都 市圏と地方>等の連帯の不足、欠如についても一応言及してい ます。また、職場の問題をことさら強調したのは、そこが有権 者の半数近くにとって、そしておそらく無党派層の多くにとっ ても、もっとも身近な場として生活時間の多くをすごし、それ だけにそのあり方は一国規模の政治・社会のあり方そのものさ え決しかねないであろう重要な場であり、従って、無党派層の 日常的実践のあり方も最も鋭く問われ、また端的に現れうるで あろうという判断によるものです。
 それから、「ほとんどしていない」という語は、「していな い」「まったくしていない」という全否定の言葉ではもちろん 無く、無党派層に属する人々による日常的実践があることは前 提に、その上で、原さん自身

「現実の過程は、成長の流れもあり退潮の流れもあり、それら が複合的にからみあいながら進んでいるのが常態で、その複合 的な絡み合いの全体の基調が退潮として特徴づけられるのであ る。共産主義の「必然」を信ずる人たちは、おのれの信念にか なった現象は、それが些事であっても明日の大木に成長する芽 として過大に評価する傾向が強い。必要なことは、現在の主要 な傾向、基調がどうなっているかということにある。」(「時 代の到来(1)」)

と述べられているように、それが全体の傾向の中でどのくらい の影響を与えているのかを考慮したうえでの表現です。原さん は自身の身の回りから、無党派層に属する人たちの多様な日常 的実践の例を挙げてくださったわけですが、全体の傾向を見る 場合、日常的実践の多様性もさることながら、その規模や広が り、影響力の大きさ等も重要になってきます。例えば「時代の 到来(1)」で原さんが、「ヒューマニズムの原点に立って訴 えられる、それこそ全ての国民を怒らせることができる闘い」 となるはずだったという障害者自立支援法阻止闘争を、共産党 のみならず原さんの言う無党派層にいたるまで、結局誰一人と して大きな運動にできなかったことに端的に現れているように 、無党派層に属する人々による多様な日常的実践も、その規模 や広がりという点で、原さんが言う「諸政党や全国的な政治運 動等が登場する国政全体の動き=政治情勢」から捉えようとす れば、「ほとんど…ない」という評価も現状やむをえないもの ではないでしょうか。また、原さんの言う革新的無党派層に限 って見たとしても、原さんが挙げる日常的実践に取り組む人は 、依然として一部にとどまっているのが実態ではないでしょう か?

「丸さんは投稿(4)でよい教師になるための「ノウハウ講座 」を「それは基本的に<自分を変える>運動であって、<社会 を変える>運動ではありません。」と言っていますが、どうし てこんなことが言えるのでしょうか?・・・組合員が開催主体 となって組合員と結びついていく運動の一貫にあるわけだから 、参加する教員が「自分を変える」ならば、組合との結びつき も強まり、組合員も増えていくことに結びついて行くじゃない ですか。組合員が増えることは組合の強化に結びついていくじ ゃないですか。
 これはもう職場における人間の内面の変化とその人間が持つ 職場における人間関係を人為的に切断する「ためにする議論」 です。人間が変わらないでどうして社会変革ができるのでしょ うか。」

 「職場における人間の内面の変化とその人間が持つ職場にお ける人間関係」が、社会を変える運動のみに拠っているもので はない=他にもさまざまな要素によって成り立っている(直接 に「社会変革」を目指す運動の有無にかかわらず、「人間の内 面の変化」や「職場における人間関係」は十分成立するはずで す)、という事は自明の前提ですから、「良い教師になるため の「ノウハウ講座」」について、「それは基本的に…<社会を 変える>運動ではありません」と言うだけで「職場における人 間の内面の変化とその人間がもつ職場における人間関係」全般 についてはもちろん、「良い教師になるための「ノウハウ講座 」」によってもたらされる「職場における人間の内面の変化と その人間がもつ職場における人間関係」を「人為的に切断する 」事には当たらない、と―少なくとも私には―思えるのですが 、このような理解はどこか間違っているでしょうか?もちろん 、原さんは<間違っている>とお考えだからこそ、「三原色」 において上の引用にある通り採り上げられたのでしょうが、そ れならそれで、結論だけをいきなり持ってくるような書き方を するのはいささか不親切に過ぎるのではないでしょうか。そこ で、これは私の希望に過ぎないのですが、もし可能であるなら ば、この点について原さんから論理的整合性のある説明を加え ていただけたらと思います。それにしても「ためにする議論」 とは、原さんも相変わらず痛烈です。
 さて、<人間が変わらなければ社会変革もない>と言うのは まったくそのとおりですが、それは、自分を変える運動の、い わば<応用>とでも言うべきもので、少なくとも<基本>とま ではいいがたいのではないでしょうか。そこまで<基本>に入 れてしまうと、<自己啓発とそれを通じた人間の結びつきだけ でも社会変革はできる>といういささか突飛な―宗教的な?― 話にもなりかねないのではないでしょうか。組合の強化・拡大 につながる、というお話にしても、それ自体を即<社会を変え る運動>とまで言ってしまうのは<共産党が大きくなれば社会 は変わる>というのと同じぐらい、一面的ではないでしょうか 。
 そもそも私は、「良い教師になるための「ノウハウ講座」」 に代表されるような運動の重要性は認めたうえで、

「労働者の民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想 を反映する職場の運営抜きに、あるいは「業務の良好な遂行の ため」「人々の安全のために必要な人員を確保するため」の資 本や経営に対する要求・運動(別にストでなくても良いですが )抜きに、「良い教師になるためのノウハウ講座」というよう なことだけが突出してしまえば、それは個々の現場や労働者が 一方的に全ての矛盾を抱え込む事態、さらには本来資本や経営 が負うべきはずの責任までがうやむやになってしまう事態さえ 招きかねないのではないでしょうか。」(「原仙作氏の「時代 の到来」に寄せて(2)」)

という問題提起をした上で、自分を変える運動云々という記述 もしていたはずです。にもかかわらず原さんは、その点には言 及することもなく、ただ<「良い教師になるための「ノウハウ 講座」」を「基本的に<自分を変える>運動」と言うのは「た めにする議論」>と言われるのであって、これでは私としても ただ戸惑うばかりです。原さんは他者の疑問や疑念に答えるこ とで自説をより説得力あるものにしていくことには、あまり興 味や関心がないのでしょうか?
 それにしても「ためにする議論」とは、原さんも相変わらず 痛烈です。

「丸さんの投稿(2)では職場闘争やこれまでの権利闘争や虐 げられた労働者が手を結ぶ運動をしなくてもいいかのごとく、 私が主張していると述べていますが、私の投稿のどこを読んだ らこんな解釈が出てくるのでしょうか?まったく不思議で仕方 がない。
 それらのことは全て前提です。当然やるべきことです。どん な新しい戦い方であろうと、それらは全て労働者の権利と生活 を守るためじゃないですか。」

 細かいようですが、私は上の引用にあるかのごとく、原さん が「主張している」と断定はしていないはずです。上の引用に 該当するであろう箇所は<…なのでしょうか><…でしょうか >という仮定、あるいは問い掛けの形になっているはずです。 今一度確認をお願いします。
 質問への回答に移ります。

「共産党職場支部自体が…立ち消え状態になっている…現状が あるのに、無党派層が職場で闘っていないのを彼らの弱点とい えるだろうか?弱点だと言うとすれば、無党派層に共産党以上 の要求をしていることになるであろう。共産党が半世紀も実践 して確立できなかった職場闘争を無党派層が実践できていない と批判するのは「そうあるべきだ」という観念からする批判と いうほかない。この領域での運動は立ち消えになるほかなかっ た既存の運動形態の反省の上に新たな運動形態の模索の段階に あると見るのが客観的な見方であろう。」

 上は原さんの「時代の到来(1)」からの引用です。
 「三原色」で原さん自身「全て前提」「当然やるべきこと」 と言っている職場闘争について、原さんは「無党派層が職場で 闘っていない」と自ら言っておきながら、それを「彼らの弱点 といえるだろうか?」とわざわざ「?」付きで疑問を投げかけ ています。原さん自身「全て前提」「当然やるべきこと」とし ている職場闘争を、「無党派層が…闘っていない」のであれば 、それはストレートに「弱点とい」うよりほかないのではない でしょうか。しかし、原さんはここでは疑問を呈しています。 その後原さんは「弱点だというとすれば」という、あくまでも <仮定のもと>話を続けていきます。そこで原さんは、「全て 前提」「当然やるべきこと」である以上、無党派層にも当然「 要求」されるはずの職場闘争を要求することについて、「無党 派層に共産党以上の要求をしていることになるであろう」と述 べています。「全て前提」「当然やるべきこと」を「要求」さ れるのは、共産党であろうと無党派層であろうと「当然」であ るはずにもかかわらず、です。もちろん「共産党が半世紀も実 践して確立できなかった」事をやることはきわめて困難なこと です。しかし「確立」している、していない以前に「実践でき ていない」、実践<すら>できていない事を「批判するのは「 そうあるべきだ」という観念からする批判というほかない」と いうのはどういうことでしょうか?「全て前提」「当然やるべ きこと」を実践するのは「そうあるべき」こと以外の何に当た るのでしょうか?「三原色」での原さんの主張を踏まえて、こ こでの原さんの記述を読めば、「全て前提」「当然やるべきこ と」である「職場闘争を無党派層が実践できていないと批判す るのは「そうあるべきだ」という観念からする批判というほか ない」ということになります。原さんは、「「そうあるべきだ 」という観念からする批判」という言葉を、ここでは一体どん な意味で使っていたと言うつもりなのでしょうか?続いて原さ んは「既存の運動形態」について、それは「立ち消えになるほ かなかった」と述べていますが、原さんの「三原色」によれば 、ここで言う「既存の運動形態」とは、いまだに「全て前提」 「当然やるべきこと」に変わりないわけですから、それが「立 ち消えになるほかなかった」とすれば、それは今現在の差し迫 った重大問題であるはずです。にもかかわらずそれについての 直接的言及は何もないまま、軽く流されています。「全て前提 」「当然やるべきこと」である「既存の運動形態」が「立ち消 えになるほかな」い、という事態を「新たな運動携帯の模索の 段階にあると見る」「客観的な見方」を示して事たれりとする のは、原さんが私に対して言うところの「傍観者的態度」には あたらないのでしょうか?
 以上見てきた原さんの記述から、「職場闘争やこれまでの権 利闘争や虐げられた労働者が手を結ぶ運動」=「既存の運動形 態」を「全て前提」「当然やるべきこと」と原さんがみなして いることを読み取ろうとすると、かなり不自然なことになって しまいます。しかしそれでも<読み取れ>「と言うとすれば」 、それは私の―そしておそらく日本人の多数派の―国語力の限 界を超える「要求をしていることになるであろう」。それを「 実践できていないというのは「そうあるべきだ」という観念か らする批判というほかない」。
 質問への回答を続けます。

「共産党がこの4月に行った「職場問題学習交流講座」におけ る志位の総括提案は旧来のものと変わらない。新機軸はない。 企業に虐げられた労働者と手を結ぶ方法と団結による生活防衛 の権利闘争ということである。しかし運動が発展している事例 を見ると、典型的なものは学校教職員組織における「良い教師 になるためのノウハウ講座」の盛況である。ここに新しい運動 を進めるための鍵がある。生活防衛を中心とする従来型権利闘 争から全人格的成長要求を中心とした運動への軸足の転換は大 独占におけるホワイトカラー層の運動に展望を開くものになる のではないか。
 大企業職場における党支部の消滅傾向という危機を抱えなが ら、職場闘争の経験もないであろう党官僚が、職場の声を聞き 取り調査してまとめるという工夫もなければアイデアもない、 慣習的対応からどうして抜け出せないのであろうか?こういう ところにもこの党の危機が感じ取れるのである。」(「時代の 到来(2)」)

 順に見ていきます。
 まず、「三原色」において原さんが「全て前提」「当然やる べきこと」と述べている「企業に虐げられた労働者と手を結ぶ 方法と団結による生活防衛の権利闘争」が盛り込まれた志位の 「総括提案」について、原さんはここではただ、「旧来のもの と変わらない」「新機軸はない」という視点でのみ紹介します 。続いて、「良い教師になるためのノウハウ講座」を例に「全 人格的成長要求を中心とした運動」が肯定的に語られる一方、 原さんが「三原色」で「全て前提」「当然やるべきこと」と述 べている「従来型権利闘争」については、ここではただ、「全 人格的成長要求を中心とする運動」へと「軸足の転換」が図ら れていくべきものとしてのみ、言及されるに過ぎません。そし て最後に「志位の総括提案」=原さんが「三原色」において「 全て前提」「当然やるべきこと」と述べているはずのものに対 し、原さんはここでは「職場闘争の経験」に基づくものでもな ければ「職場の声を聞き取り調査してまとめ」たものでもない 、「党官僚」による「慣習的対応」の産物として断じています 。
 以上、原さん自身の手による二つの文章を見てきましたが、 このような書き方をしておいて

「新しい闘い方が必要だといえば、形式論理で、これまでの戦 い方は誤りだ、不要だと主張していると判断すべきじゃないこ とは当然わかってしかるべき」

 と言うのは、読者に対していささか要求の度が過ぎていない でしょうか。そのような「判断」を読者にされたくなかったら 、最初からもっと別の書き方を工夫するなり、あるいは断りの 言葉を入れるなりするのは筆者として「当然やるべきこと」で はないでしょうか。
 原さんの猛省を促します。

(2)へつづく