先に1月26日付本欄への投稿で、丸楠夫さんと原仙作さんと
のやり取りに関連して「詳細に検討する余裕がないため、人文
学徒さんの19日付論評から学ばせていただいたが、人文学徒さ
んにほぼ同感している。」と書きました。
その人文学徒さんの「論評」においては、「原さんを支持し
ますね。まず、原さんの以下の本質的な指摘において。」と明
示され、その「以下」の内容として、原さんがいわれる「3原
色」(私の理解によれば、中産階級に対する生理的なまでの毛
嫌い、基底還元思考、社会の底辺にいる虐げられた者への執着
(愛着)、という3点になります)が引用されています。
そこで、先日のコメントはちょっと端折りすぎたような気が して、丸さんご自身が「直接原さんに当てたわけではなかった 」といわれている(2006年12月3日付「原仙作氏の『時代の到 来』に寄せて(1)」)標記投稿(以下、上下併せて『青い鳥 』と略記)に立ち戻って、それを原さんではなく「自分に」対 しても当てられたものとして読む必要性を感じました。
なお、あらかじめ言っておくと、私がほぼ「同感」している
のは、こうした3原色に関する分析ではなく、「具体的な『こ
うして世の中を変えよう』という討論に対して、『古典にはこ
う書いてあるから違う』と語って、討論したつもりになってい
る。」という分析方法への人文学徒さんの批判についてです。
非常に時機遅れであることは、重々承知しているのですが、
『青い鳥』の私の読後感から考えて、原さんと丸さんとが現に
やり取りしている事柄とは、若干違った問題意識を持ってしま
ったように思うので、あえて「素人の議論」であることを自覚
した上で、投稿することにしました。
まず、二つほど印象的な感想があります。
一つめは、丸さんご自身が「直接原さんに当てたわけではな
かった」といわれているにも拘らず、『青い鳥』中の引用から
考えても、原さんの先行する論旨を意識したものであることは
明白だと思いました。もしも、「さざ波」サイトで原さんに「
傾倒している」他の閲覧者を「直接の対象」として想定され、
「間違った言説に惑わされないように」と注意を喚起する意図
で『青い鳥』が投稿されたのであれば、それは、ただ手法が婉
曲なだけで、原さんの論旨に「当てて」いることに変りはあり
ません。20代(これは何かの間違いか?)という年齢から、
原さんへの敬譲があったとしても、文章からは相当な皮肉が感
じられるのですから、そうした弁明は鬱陶しいことです。
二つめは、『青い鳥』の末尾が、次のように締め括られてい ることに象徴されている、「目的不在感」です。
>日常の生活の中でついに見つけることのできなかった無党派 層の「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の 思想」は、なんとインターネットの網の中に囚われていたのだ った。無党派層が自らの青い鳥を自由に羽ばたかせてやる日は 、一体いつになるだろう。
この「一体いつになるだろう」というのが、単純未来予測で
あるとは、丸さんもいわないでしょうね。
私が理解したところによれば、丸さんが『青い鳥』の末尾で
指摘したかったことは、無党派層の特徴であるとされている「
民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」
は、実体がない、という判断です。丸さんは、「もしも無党派
層の特徴としてそのような感覚・指向・思想があるとすれば、
それは日常生活の場である労働の現場において、遺憾なく発揮
されているはずであるのに、そんな状況はどこにもない。だか
ら、そのような特徴があると考えることは虚妄である」と主張
しているのでしょう?
その後丸さんは、無党派層の感覚・指向・思想の「特徴」で
はなく、そのような感覚等を持っているとされる「無党派層」
の存在そのものを否定するのが、自らの論旨であるといわれる
ようになっています(2007年2月5日付「原仙作氏の『3原色
』に寄せて(2))。
ただですね、その丸さんの主張が正しかったとして、それが
理解されると、どうやっていまの改憲阻止闘争や、生活防衛闘
争が進展するようになるのかが、まるで分らないのです。それ
で、「目的不在感」が募るのです。
大事なことは、どうやって改憲阻止勢力が劣勢にある現
在の政治状況を急速に打開するか、であるはずでしょう?
「9条の会」の組織が7千に届くといっても、「だから国民
投票では安心だ」とはけっして言えない状況が続いていると、
私は思っています。その時に、「無党派層が持つ感覚・指向・
思想に期待することは、虚妄だよ」と証明して何になるのか。
そこに存在している多数の「融通無碍な」有権者たち、仮にそ
れがある「社会集団」として把握できなくても、それをどうや
って「自覚的な集団」に形成して結集するかは、常に問題とな
りうるはずです。『青い鳥』からは、その問題意識が感じられ
ない。
原さんが正しいか、丸さんが正しいかは、学問の世界では捨
てておけないことでしょう。しかし、ここは「さざ波通信」の
「現状分析と対抗戦略」欄であり、学会とは違うのです。
こうした「目的不在感」があるために、人文学徒さんの前記
論旨に「ほぼ賛成」したのです。
原さんが丸さんの「3原色」の一つとして指摘される「基底
還元思考」が何を指すかは、もう少し詳細に読まないと理解で
きません。
ただですね、これも素朴な感想になって申し訳ないのですが
、丸さんには、「もしも労働者階級に属する者がその大部分を
占めている『無党派層』が、本当に『民主主義感覚』『直接民
主主義指向』『自己決定思想』を持っているとすれば、何より
もまず、生活時間の大半を占めている労働の現場においてこそ
、その感覚・指向・思想を発揮するはずだ」という牢固とした
前提があるように思います。
しかし、これはけっしてその現状を肯定する趣旨ではありま
せんが、その「感覚・指向・思想」を持っていても、労働の現
場において、それを言葉や態度で示す形で「発揮する」のは容
易なことではないのです。私のように、小規模零細企業で働い
ている者にとっては、それは即解雇を意味します。だから、地
域的労働組合に団結する以外には、自分の最低限の要求を守る
方法がないのです。それも、労働保護法制や、何よりも憲法の
労働基本権保障があってこその話です。その「当然の法的要求
」を実現するだけであっても、下手をすると一生を懸けねばな
りません。
原さんは、丸さんが「社会の底辺にいる虐げられた者への執
着(愛着)」を持っておられると指摘されているようですが、
私には、丸さんのその「虐げられた者」は、「自覚的に労働者
階級として闘っている場合においてのみ」「愛着」の対象とな
るように映ります。「労働の現場で資本に対してろくに文句も
言えない」「職場や職種を異にする労働者仲間がひどい目に遭
っていても、それへの連帯の意思を公然と表明できない」「意
気地なし」は、最初から「愛着対象」としては除外されている
ように感じられてならないのです。その労働者が、たとえ経済
的に「社会の底辺」にいたとしても、です。
「こんな職場や世の中は厭だな」と思っていても、なかなか
口に出せない、しかし、選挙の投票であるならば、秘密投票制
が厳格に守られている限り、「民主主義感覚・直接民主主義指
向・自己決定思想」を「発揮」して、自分自身が信じる候補に
投票することができるのです。そうした人間が多数居るという
事実に、真っ直ぐに目を向けて欲しいのです。そうした人間た
ちが、社会集団として一個の「無党派層」を確固として形成し
ているかどうかは、それとは別個の問題ではないでしょう。
そして、確固とした一定の特徴を有する「無党派層」が存在
するかどうかよりも、こうした、現実の政治行動になかなか踏
み出せないながらも、現状の民主的変革には肯定的な感覚(あ
くまで「感覚」でしかない)を懐いている人たちを、どうやっ
て現実の政治的な勢力に結集し、あるいは、選挙における政治
的な「力」として確実なものにするか、ということの方が、よ
ほど大事であると思うのです。
この点に関連して、少しだけいえば、職場を離れた休日その
他の時間帯において、なんらかの社会的意義を持つボランティ
ア活動NPO活動だとか、あるいは限定されているにせよより
政治的なNGO活動などに参加している人たちが、1990年代以
降夥しく増えている社会状況を、丸さんは、一体どのように評
価されているのでしょうか。それは、「職場で正面切って闘え
ない」弱さのなせる代償行為であるかも知れません。しかし、
こうした人たちは、ともかくも「一歩を踏み出している」ので
す。政党でも、組合でもない、こうした、限定されてはいるも
のの自己実現の方法として有力な運動体があちこちで発生して
きたことと、それがインターネットの普及によって、飛躍的に
加速されていることを、丸さんは、一体どのように評価されて
いるのでしょうか。
確かに、「ネット内だけで気を吐いている」人物も多くいる
ものと思います。しかし、ネットの有効性と限界とを自覚しつ
つ、それを現実の社会的連帯へと高めていく方法にこそ、いま
の私たちは習熟しなければならないのだと思います。
そうした観点から見ると、『青い鳥』の末尾に書かれた、「 無党派層の『民主主義感覚(直接民主主義指向)』『<自己決 定>の思想』は、なんとインターネットの網の中に囚われてい たのだった。」という表現に、知識人の高みから他者を見下す ような印象を受けるのは、穿ちすぎなのでしょうか。