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「現状分析と対抗戦略」討論欄

樹々の緑さんへ

2007/3/10 丸 楠夫

 引用は「」で表記し、出典を示さないものは「現状分析と対抗戦略」欄、07.2.13付、樹々の緑氏「丸楠夫氏「無党派層の青い鳥―小泉とムバラクの圧勝に寄せて―(上)(下)」に寄せて」からの引用です。

 樹々の緑さんが指摘される、「無党派層の青い鳥―小泉とムバラクの圧勝に寄せて―(以下「青い鳥」)上・下」での「現状分析と対抗戦略」欄05.8.5付、原仙作氏「2005年の都議選と日本共産党(上)」からの引用(以下「青い鳥」・引用)は、「青い鳥」中でも明記してあるとおり、「なぜなら、そこで語られている無党派層像が、同時に世間一般に広く受け入れられている、無党派層の一つの理念型を示していると思われるからである。」という理由によるものです。
 そもそも「青い鳥」は、9.11総選挙における小泉自民党の大勝の要因を私なりに解明しようと試みた小論であり、その目的・内容から言っても、広く一般に向けて執筆したのであって、特定の投稿者なり「閲覧者」に当てたものではありませんでした。樹々の緑さんが言うように、その「文章からは相当な皮肉が感じられる」としても、それは、執筆者としてはあくまで「世間一般に広く受け入れられている、無党派層の一つの理念型」へ向けたもの、あるいはそのような無党派層像を―少なくとも表面的には―なんら否定することなく小泉が圧勝したという事態そのものに対して向けたものです。
 とはいえ、樹々の緑さんのように「青い鳥」を「「自分に」対しても当てられたものとして読」んでもらえることは、筆者としては光栄なことです。

 「弁明」じみた「鬱陶しい」話はこれくらいにして、「青い鳥」の内容について話を進めましょう。
 まず、「青い鳥」の末尾の部分について改めて説明を加えておきたいと思います。ここで私は、いわゆる無党派層の民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想が―もちろんそれが全てではないにせよ―現状「ネット上で情報を収集し、意見交換を行い、自己の政治判断を決定しようとする」(「青い鳥・引用」)というきわめて限定された間接的な関係性の中に囲い込まれているということ、そのような民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想のあり方からは社会の主体的・能動的な変革の展望は開かれないであろうことを、メーテルリンク作の童話「青い鳥」のラストで主人公チルチルとミチルの兄妹がとった行動と対照させつつ、皮肉を込めて批判的に言及しました。
 しかしそれは、樹々の緑さんが指摘される「無党派層の特徴であるとされている「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」は、実体がない、という判断」や、「そのような特徴があると考えることは虚妄である」と主張している」というのとは異なる、と言わざるを得ません。
 なぜなら、そのような「判断」や「主張」は、9.11総選挙における小泉の圧勝という事態が、まぎれもなく「秘密投票制が厳格に守られ」「民主主義感覚・直接民主主義指向・自己決定思想」を「発揮」して、自分自身が信じる候補に投票することができる」中で、近年の国政選挙ではまれに見る高投票率のもと起こったという現実に対して、<整合性を欠く>ものと私は考えるからです。
 9.11総選挙において「多くの有権者にとっての「経済的生存諸条件」と最も鋭く「敵対的に対置」しているはずの、構造改革の党、小泉自民党に、最も多くの票が集中した」こと、その「ほんの少し前までの民主党」が同じく構造改革の党でありながら「保守二大政党体制の一方にまで上り詰めた」過程、そして「90年代後半においては「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」という自ら(無党派層のこと―引用者注)の「認識の核心」「強固に形成されてきた思想」と鋭く対立する組織形態をとる共産党」が無党派層票の一定の流入によって選挙での躍進を果たしたこと(以上「青い鳥(下)」参照)、そのいずれもが「秘密投票制が厳格に守られ」「民主主義感覚・直接民主主義指向・自己決定思想」を「発揮」して、自分自身が信じる候補に投票することができる」中での出来事であるという現実に「真っ直ぐに目を向けて」、とりわけ小泉の圧勝が「93年以来、投票自体を、政治参加自体を放棄してきた層までもを、自らに引き付け」「その政策(郵政民営化とそれに代表される「構造改革」)やその存在(「抵抗勢力」を粉砕する改革推進勢力であること)自体が、投票率全体までをも押し上げるほどの支持を集め」ることで「投票時間の延長や期日前投票制度の導入(98年参院選。00年衆院選)といった、単なる投票方法の改善といった要素を一切抜きにして、初めて、93年衆院選(投票率67.26%)以降の国政選挙の投票率の低下傾向を本格的に打破するものとなった」こと、その「推進力となったのが、いわゆる無党派層であること」(以上「青い鳥(上)」参照)に留意するならば、そこにまぎれもない「無党派層の特徴であるとされている「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」」の「発揮」を見なければならないでしょう。
 もっとも、このような「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」」の「発揮」のされ方は、原さんの言うところの「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代」「民主主義的高揚の時代」(現状分析と対抗戦略欄06.11.15付け「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(2)」)を切り開きうる「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」」の「発揮」のされ方ではないであろうし、したがって、そのような「時代」を切り開く存在としての(=原さんが言う意味での)無党派層は未成立である、と私は考えています(この点については「青い鳥」以降の私の一連の投稿を参照してください)。しかしそれは「無党派層の特徴であるとされている「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」は、実体がない」「そのような特徴があると考えることは虚妄である」という見方とはやはり異なります。
 むしろ私が「青い鳥」で追究したのは、<無党派層ないし国民多数派の「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」は、なぜ小泉を圧勝させるという形で「発揮」されたのか?>ということであり、その原因として「何人をも代表”されないままには置かない”近代代表制国家の中にあって「自分自身の名前で主張」したり「自らを代表することができない」ために、「代表され」ることを望まずにはいられない、膨大な国民の存在が先行してい」たことを提示し、大部分の無党派層も含む膨大な国民が、「自分自身の名前で主張」したり「自らを代表することができない」でいることの端的な現われとして、労働・日常生活の現場における闘争の不在・不足を指摘し、強調したのです。したがって、

「丸さんには、「もしも労働者階級に属する者がその大部分を占めている『無党派層』が、本当に『民主主義感覚』『直接民主主義指向』『自己決定思想』を持っているとすれば、何よりもまず、生活時間の大半を占めている労働の現場においてこそ、その感覚・指向・思想を発揮するはずだ」という牢固とした前提があるように思います。」

という樹々の緑さんの指摘も、私の本意とは幾分異なります。
 端的に言えば、「生活時間の大半を占めている労働の現場において」「『民主主義感覚』『直接民主主義指向』『自己決定思想』」を発揮できないというある種の<弱さ>ゆえに、「その感覚・指向・思想」は、例えば小泉を圧勝させるという形でしか、現実の政治・社会に対して「発揮」できない、と言うのが、私の「青い鳥」での主張です。
 また、確かに「青い鳥」においては、9.11総選挙での小泉圧勝の原因を解明する=現状分析を目的としていたがゆえに、樹々の緑さんが指摘されるように、対抗戦略の提起までにはいたりませんでしたが、そのことをもってして、私が単に現実離れした学問の話をしているかのごとくに見なすのは、いささか不適切ではないでしょうか?
 なぜなら、対抗戦略を構想するにしても、まずは現状分析が先行していなければならないからです。
 「そこに存在している多数の「融通無碍な」有権者たち」を「どうやって「自覚的な集団」に形成して結集するか」「現実の政治行動になかなか踏み出せないながらも、現状の民主的変革には肯定的な感覚(あくまで「感覚」でしかない)を懐いている人たちを、どうやって現実の政治的な勢力に結集し、あるいは、選挙における政治的な「力」として確実なものにするか、ということ」を問題にするにしても、まずは「「融通無碍な」有権者たち」「現状の民主的変革には肯定的な感覚(あくまで「感覚」でしかない)を懐いている人たち」の意識なり感覚なりが、現在の政治・社会情勢の中でどのように発揮され、あるいは発揮されていないのかを大局的にでも把握できなければ、それを「結集」したり「政治的な「力」として確実なものにする」と言っても、まるで雲をつかむような話になってしまうでしょう。また、その把握の仕方によって「「自覚的な集団」に形成して結集する」方法、「どうやって現実の政治的な勢力に結集し、あるいは、選挙における政治的な「力」として確実なものにするか、という」方向性も違ってくるでしょう。
 だからこそ原さんも、私との現状分析・現状把握の差異を重視して長文の投稿を寄せられたのであって、何も私の投稿が単に学問的に捨て置けないからそうしたわけではないはずです(もっとも、原さんの無党派層認識からは「そこに存在している多数の「融通無碍な」有権者たち」を「どうやって「自覚的な集団」に形成して結集するか」「現実の政治行動になかなか踏み出せないながらも、現状の民主的変革には肯定的な感覚(あくまで「感覚」でしかない)を懐いている人たちを、どうやって現実の政治的な勢力に結集し、あるいは、選挙における政治的な「力」として確実なものにするか、という」方向性は見出しえず、原さん自身、一連の投稿においてもそういった方向性は提起できていない、と私は考えています。この点について詳しくは、「青い鳥」以降の私の一連の投稿を参照してください)。  次に、

「その丸さんの主張が正しかったとして、それが理解されると、どうやっていまの改憲阻止闘争や、生活防衛闘争が進展するようになるのかが、まるで分らないのです。それで、「目的不在感」が募るのです。」

という問いについてですが、どんな主張であれ、「それが理解され」ただけで「いまの改憲阻止闘争や、生活防衛闘争が進展する」という魔法のようなことは起こりうるはずもありませんので、「その丸さんの主張が正しかったとして、それが理解されると、改憲阻止闘争や、生活防衛闘争は<どうやって進展させていくべき、ということになるのか>」と読み替えさせてもらったうえで、「青い鳥」での記述の範囲内でお答えします(それ以上のことについては、「青い鳥」以降の私の一連の投稿を参照してください)。
 私は「青い鳥」において、無党派層ないし国民多数派の「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」が、小泉を圧勝させるという形で「発揮」された原因として、「何人をも代表”されないままには置かない”近代代表制国家の中にあって「自分自身の名前で主張」したり「自らを代表することができない」ために、「代表され」ることを望まずにはいられない、膨大な国民の存在が先行してい」たことを指摘し、大部分の無党派層も含む膨大な国民が、「自分自身の名前で主張」したり「自らを代表することができない」でいることの端的な現われとして、労働・日常生活の現場における闘争の不在・不足を強調しました。それらの論点は、「青い鳥」においては具体的な対抗戦略の提示と言う形はとっていないものの、間接的ながらも、「いまの改憲阻止闘争や、生活防衛闘争」にとっての<課題>を提示するものであると私は考えています。

 それから、

 「職場を離れた休日その他の時間帯において、なんらかの社会的意義を持つボランティア活動NPO活動だとか、あるいは限定されているにせよより政治的なNGO活動などに参加している人たちが、1990年代以降夥しく増えている社会状況を、丸さんは、一体どのように評価されているのでしょうか。…こうした人たちは、ともかくも「一歩を踏み出している」のです。政党でも、組合でもない、こうした、限定されてはいるものの自己実現の方法として有力な運動体があちこちで発生してきたことと、それがインターネットの普及によって、飛躍的に加速されていることを、丸さんは、一体どのように評価されているのでしょうか。」

という問いについてです。
 もとよりそういった活動を否定したり、軽んじたりするつもりは毛頭ありません。それらはいずれも重要な日常的実践活動の現れに他ありません。しかし「職場を離れた休日その他の時間帯において、なんらかの社会的意義を持つボランティア活動NPO活動だとか、あるいは限定されているにせよより政治的なNGO活動などに参加している人たちが、…夥しく増えてい」った「1990年代以降」の時代が、同時に、「改憲阻止勢力が劣勢」を挽回できないまま改憲勢力に圧倒されていった時代でもあったこと、「改憲阻止勢力が劣勢」へと追い込まれていった過程には、戦後労働運動の停滞と後退が先行していた、ということにも、われわれは「真っ直ぐに目を向け」なければなりません。

「現実の過程は、成長の流れもあり退潮の流れもあり、それらが複合的にからみあいながら進んでいるのが常態で、その複合的な絡み合いの全体の基調が退潮として特徴づけられるのである。共産主義の「必然」を信ずる人たちは、おのれの信念にかなった現象は、それが些事であっても明日の大木に成長する芽として過大に評価する傾向が強い。必要なことは、現在の主要な傾向、基調がどうなっているかということにある。」(「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(1)」)

という原さんの言葉は、何も共産主義だけに当てはまるものではありません。
 「そこに存在している多数の「融通無碍な」有権者たち、仮にそれがある「社会集団」として把握できなくても、それをどうやって「自覚的な集団」に形成して結集するか」、「現実の政治行動になかなか踏み出せないながらも、現状の民主的変革には肯定的な感覚(あくまで「感覚」でしかない)を懐いている人たちを、どうやって現実の政治的な勢力に結集し、あるいは、選挙における政治的な「力」として確実なものにするか」について真剣に考えようというのであれば、「成長の流れ」「おのれの信念にかなった現象」よりも、むしろ「退潮の流れ」、おのれの信念に反する現象、にこそ、より徹底的に「真っ直ぐに目を向け」なければなりません。 それらの問題に取り組む上では、たとえ樹々の緑さんにとって私の主張が、「労働の現場で資本に対してろくに文句も言えない」「職場や職種を異にする労働者仲間がひどい目に遭っていても、それへの連帯の意思を公然と表明できない」「意気地なし」は、最初から「愛着対象」としては除外されているように感じられ」ようとも、労働運動分野における決定的な敗北、停滞、後退の重大性とその打開の必要性は、どんなに強調しても強調しすぎるということはないものと私は考えます。
 ところで、私は樹々の緑さんに聞きたいのですが、わが国の有権者の半数に匹敵する人々が、その生活時間の多くの部分をすごしている職場、労働の場の政治・社会に占める重要性、そしてそこにおける「民主主義感覚(直接民主主義指向)」「「自己決定」の思想」の抑圧とそれに対抗する運動の停滞・後退・敗北の重大性について私が指摘しているのに対し、原さんにしろ樹々の緑さんにしろ、その指摘そのもではなく、どういうわけか私の個人的な嗜好や愛着対象やその愛着の程度といったことに非常に関心を持たれているようです。たしか樹々の緑さん自身の見解によれば、「大事なことは、どうやって改憲阻止勢力が劣勢である現在の政治状況を急速に打開するか、であるはずで」あり、「常に問題となりうるはず」なのは「そこに存在している多数の「融通無碍な」有権者たち、仮にそれがある「社会集団」として把握できなくても、それをどうやって「自覚的な集団」に形成して結集するか」であり、また「いまの私たち」が「習熟しなければならないの」は「ネットの有効性と限界とを自覚しつつ、それを現実の社会的連帯へと高めていく方法」であったはずです。もとより私はこれら樹々の緑さんの見解に異論はありませんが、ただ、私が個人的に何を「愛着対象」にしているとかいないとか、そういったことを「証明して何になるのか、「目的不在感」が募るのです」。「それが理解されると、どうやっていまの改憲阻止闘争や、生活防衛闘争が進展するようになるのかが、まるで分らないのです。それで、「目的不在感」が募るのです」。端的に言って、このような議論からはそういった「問題意識が感じられない」。たしかに、筆者が何を「愛着対象」としているかは、文学「の世界では捨てておけないことでしょう。しかし、ここは「さざ波通信」の「現状分析と対抗戦略」欄であり、」文芸評論の場「とは違うのです」から。
 話が少しそれましたが、樹々の緑さんは、「しかし、これはけっしてその現状を肯定する趣旨ではありませんが」と前置きした上で、労働現場における闘争の困難さを指摘し、あわせて、「それは、「職場で正面切って闘えない」弱さのなせる代償行為であるかも知れません」という慎重な留保を付しつつ、「職場を離れた休日その他の時間帯」におけるボランティア活動、NPO・NGO活動、あるいは選挙・投票を通じた政治参加、そしてそれらを活性化させるインターネットの側面等についても積極的に評価する必要性を指摘されています。
 これらの点については、私も異論はありません。ただ、樹々の緑さんが指摘されたことについて、もう少しだけ踏み込んだとき、そこで

<「選挙の投票」においては「「民主主義感覚・直接民主主義指向・自己決定思想」を「発揮」して、自分自身が信じる候補に投票することができる」よう「秘密投票制が厳格に守られている」にもかかわらず、どうして「労働の現場において」は依然として、民主主義感覚や直接民主主義指向、あるいは自己決定の思想を「言葉や態度で示す形で「発揮する」」ことが、例えば「小規模零細企業で働いている者にとっては、それは即解雇を意味」するほどにまで徹底的に異端視され、強権的な排除がまかり通っているのか?>

<「職場を離れた休日その他の時間帯において、なんらかの社会的意義を持つボランティア活動NPO活動だとか、あるいは限定されているにせよより政治的なNGO活動などに参加している人たちが、1990年代以降夥しく増えている社会状況」の中、なぜよりによって「労働の現場において」は依然として、「労働保護法制や、何よりも憲法の労働基本権保障」にもとづく「「当然の法的要求」を実現するだけであっても、下手をすると一生を懸けねばな」らないほどまでに、「自分の最低限の要求を守る」活動とその活動の参加者が、徹底的に抑圧され続けているのか?>。 

 という問いに当然ぶつかることになります。
 そこには「選挙の投票」や「職場を離れた休日その他の時間帯」においては我々に対して一定許容されていることについても、「労働の現場において」は決してそれを許容しようとしない、日本の現状の社会のかたくなな姿勢が浮かび上がってきます。
 このような「選挙の投票」や「職場を離れた休日その他の時間帯」と「労働の現場」との<差異>に「真っ直ぐに目を向け」るなら、先ほどの<問い>への回答として、日本の現状の社会が労働の現場における民主主義感覚や直接民主主義指向、あるいは自己決定の思想を「言葉や態度で示す形で「発揮する」」ことどころか「労働保護法制や、何よりも憲法の労働基本権保障」にもとづく「「当然の法的要求」を実現する」「自分の最低限の要求を守る」ための活動すらほとんど<許せない>のは、実はそれが、「選挙の投票」や「職場を離れた休日その他の時間帯」の「活動」以上に、現状の社会を根底から揺さぶりうる可能性を秘めた「活動」だからではないのか。労働の現場におけるそれらの活動が強権的に排除され、徹底的に抑圧されるのは、実は、現状の日本社会を主導する側からの、この領域における活動への本能的な<危機感><恐怖>の表れではないのか。等と推論することも、あながち的外れではないのではないでしょうか?
 まあ、この推論の妥当性についてはともかく、少なくとも、「職場を離れた休日その他の時間帯」におけるボランティア活動、NPO・NGO活動、あるいは選挙・投票を通じた政治参加、そしてそれらを活性化させるインターネットの側面、といった「おのれの信念にかなった現象」(「日本国憲法が日本革命の綱領となる時代の到来と無党派、共産主義(1)」)ばかりに「真っ直ぐに目を向け」たり、もっぱら私の個人的な「愛着対象」や私の投稿の「表現に、知識人の高みから他者を見下すような印象を受けるのは、穿ちすぎなの」かどうかについて論じていたのでは、社会変革の展望を切り開く重大な可能性を秘めているかもしれない問いや推論をみすみす見逃すことにもなりかねない、という点については、きっと樹々の緑さんも同意してくださることでしょう。

 樹々の緑さんが指摘される労働現場での闘争の諸困難に対し、粘り強い抵抗の輪を大きく広げ得た時、そこに、今日の、「職場を離れた休日その他の時間帯において、なんらかの社会的意義を持つボランティア活動NPO活動だとか、あるいは限定されているにせよより政治的なNGO活動などに参加している人たちが、1990年代以降夥しく増えている社会状況」からさらにもう「一歩を踏み出し」た、民主主義感覚(直接民主主義指向)・自己決定思想をより強力に発揮していくための展望が開かれ得る、と私は考えています。