都知事選は、まもなくゴールに近づいている。
それだけに熾烈な政治闘争の装いを呈し始めてきた。
「風」メーリングリストでも、浅野史郎氏を支持するかたがたと吉田史郎氏を
支持するかたがたと二極化しつつある。
それはひとつに統一すれば、力は大きなものとして得票に表れるだろう。
だが、ここで大事なことを忘れたくない。
「平和をめざす市民の風」は、平和共同候補の擁立を立場としている。
そのスタンスで、沖縄県知事選で惜敗はしたが、「風」として革新候補の共闘に大いに貢献しえた。
その後の沖縄県の基地問題でゆれる市長選や、参院選沖縄地方区でも、統一候補が擁立され、それを情熱的に推進される「風」の同志が
少なからずいらっしゃることこそ、「風」の本旨とするところである。
それでは都知事選問題の混沌はどこから来ているか?
第一に、東京都知事選の結果は、国政選挙並みの大きな影響があるということ。
第二に、現在二期目の石原都知事が東京都で、新公共管理政策に基づいて福祉・教育・医療などの地方行政に過酷な政治を導入したこと。そのために、東京都の行政は全国に波及する危機的な様相を呈していること。
第三に、東京都での政治決戦は、それぞれの政治的団体の消長に直接影響を及すこと。
そして第四に、都知事選は、いままでの経緯から激越な政治闘争の歴史を経てきたということがある。
いまの時点で、浅野史郎候補の反石原都政を基本としている政治姿勢を明確に認めることだ。民主党が支援しているが、浅野氏を支援する学者、知識人、運動家、団体は民主党の枠組みに収束しえない広範な広がりを見せているし、浅野氏は独断でなく都民や東京都以外の市民の声を政策に反映させようと努力している。
宮城県知事時代の浅野氏と全く同一ではない。
それとともに、いちはやく立候補しつつも、都下の広い政治団体と個人に向けて革新統一と共同とを追求して、共闘のためのシンポジウムにも参加してもし平和のための統一候補擁立が可能ならば自分は降りてもよいとさえ発言を公的にしている吉田万三候補の先駆性と政策の先見の明をもっと尊重すべきであろう。
わたしの主張は、浅野候補と吉田候補とが、互いに競争しつつ互いの支持基盤を尊重し合い、闘いつつも、当選後は都政民主化に向けて共闘するための歩み寄りをもつことだ。
最善は、選挙後の政策協定を結び、選挙にはどちらかが必ず当選するよう互いの最善を尊重し合う姿勢に転ずるべきである。
もはやどちらかが候補をおりるような時期は過ぎた。
一部にあった田中康夫氏立候補による候補一本化の噂は高等な妨害工作と思えてならない。わたしのところにも匿名で田中康夫が最後に立候補するというカ゜セネタ・メールがきていた。
それがどのような政治的影響があったかは自明に近いだろう。
つまり浅野氏と吉田氏の闘争をおそれる政治勢力が存在するということ。
いまの敵対的憎悪的対応を、双方が反省すべきであ。
選挙で当選するか否かは予断を許さない。このままでは石原候補の逃げ切りとなる。いまのまま浅野・吉田の両陣営が罵倒に近い非難合戦を繰り返すならば石原圧勝の目も出てきつつある。
石原知事はあきらかに人心が離れつつある。
要は反石原陣営の中心的な浅野氏と吉田氏の選挙闘争のゆくえにある。
史上第二位の14人の乱立はあきらかに石原氏に有利な条件である。
吉田氏と氏を支援する共産党には、浅野氏により政策的論争を提起してもし浅野氏が当選したら共産党と吉田氏の唱える政策の重要性を認識させることだろう。浅野氏と氏を支える市民団体にとっては、戦後ながらく自民党都政を打破して革新統一知事を輩出した運動の一端を草の根でになった吉田氏とその推薦・支援団体の主張を支持するひとびとをも巻き込むような政策的実践的な摂取をはかることだろう。
都知事選のあとも参院選がある。
参院選の後にも政治闘争は続く。
しかし、数々の選挙闘争が政党と市民運動にとって、どのような経験を残して歴史化されていったかの記憶は、その後の闘争にも重要な「記憶」として刻まれる。
双方が、憎悪ではなく、競争的共闘を、非難中傷でなく政策的論争の高まりを
めざすべきではあるまいか。