東京都議選をめぐり山口二郎氏と日本共産党との間で小
さな"論争"が起きた。しかし、これを小さいままにしないで本
当は奥深い地核振動にしないといけない。
言っていることが正しい、自分には権利があるなしの当然だ
が狭い議論ではなく、共産党が大人の政党として脱皮すること
が、日本を動かすきっかけになるのではないか。少なくともそ
う信じたい。
大人とは、相手が子どもでも自分は大人の対応をするという
ことだ。
(1)山口二郎氏は、自民党政治のオルタナティブとしてヨー
ロッパモデルを標榜し、それを担う社民政党としに民主党が成
長することを願い各種の論評、提言を続けている。
さらに、理論活動だけではなく実際に選挙応援なども行って
いる。
東京と自治選挙における立場も明確で、「石原打倒」の立場
から、勝利の実践的可能性を切り開くためにその一点での候補
者の一本化を呼びかけてきた。
共産党に対しては「政権の担い手としての現実的可能性を持
たない」(04年9月)との認識ではあるが、反共主義的立場で
は勿論ない。共産党都議団や「赤旗」の役割について正当な評
価をし、共産党としての候補者擁立の権利についても認めた上
で、先の一点での共同を呼びかけたのである。
共産党があくまで独自候補者の擁立にこだわるのであれば、
「自民党・石原にとっての確かな野党」になってしまうと痛烈
な皮肉を飛ばしてはいるものの、「心ある市民と共産党との対
話の可能性をぎりぎりまで追求」するとの冷静な立場を堅持し
た。(週刊金曜日3月9日号)
(2)これに対して日本共産党中央委員会の植木俊雄広報部長
の反論が3月21日(水)「しんぶん赤旗」に掲載された。
要旨は、・いま問われているのは、「巨大開発・福祉切捨て
」、「憲法・民主主義破壊」、「都政私物化」の石原都政の転
換である。・民主党は石原オール与党の一員。・宮城県知事時
代に浅野氏がやったことは「巨大開発と福祉削減」であり石原
都政とうり二つ。「浅野氏が石原氏よりまし」とはいえない。
・従って、吉田氏以外都政の転換はできない。・知事を選ぶの
は、山口氏ではなく都民である。それを民主主義の名で選択肢
を奪うのは、「民主主義」を語る資格が根本から問われる、と
いうもの。
(3)争点・論点は何か。
まず、共産党に関する原仙作氏の本欄まとめを見る。候補者
が一本化すれば石原打倒は可能であった、という分析を前提に
、・石原落選の方法論がない。・政治指導者がいない。・柔軟
性が欠如している。・偏狭な批判をやめ、よりまし変化を大切
にすべき。・選挙戦術を改めよ、と共産党に対して励ましを含
む批判をしている。
争点の第1は、都知事選挙でめざしたものの「差異」である
。
共産党は何を都知事選で目指したのか。それは、勿論「都政
の転換」であった。
これに対して、山口氏がめざしたのは、「石原都政の打倒」
であった。4月6日号の「週刊金曜日」で悪政を止めさせるた
めには、集会デモも重要だが、選挙で勝つこと。「善戦」では
ダメだ、と反論している。
この点では、原氏が指摘するように「転換」するためには、
まず「選挙で勝つ」ことが必要なのである。共産党には、その
ための戦術がなかった。原氏の評価の通りこの点では、山口氏
に軍配があるといってよいだろう。
山口氏は、自民党政治の転換について「一瀉千里」には行か
ないとして、二段階論を唱えている。第一段階は自民党政治の
解体(自民党を政権から引き摺り下ろす)。第2段階は、政策
に即した再編による「転換」である。(2004年7月23日「週刊
金曜日」)
知事が変わっても、民主党が政権をとっても「同じではない
か」といった批判に閉じこもるのではなく、「五十歩」と「百
歩」の違いの大きさを認識すべきだ。
「五十歩」の違いがなければ、転換はないのである。たとえ
、「三十歩」の違いであったとしても良いではないか。そのと
きにこそ共産党の理論と説得と行動力が問われるのではないか
。そうやってこそ日本政治は良くなるのだ。
第2の争点は、政治の「結果責任」と「よりまし」論につい
ての考え方の「差異」である。
政治は「結果責任」である、というのは常識に近いと思われ
るが、共産党にはそれが通じない。主張の正しさ、一貫性こそ
が重要なのだ。
戦後の丸山真男氏の共産党批判の観点はここにあったが、共
産党は「(唯一反戦を貫いた)主張の正しさ」に固執し、「戦
争を阻止できなかった」結果責任については応じようとしない
。
しかし、論争ではそうであっても現実政治においてはそんな
立場を露骨には取れない。支持を失ってしまう。その予防線が
、「浅野氏が石原氏よりまし」とはいえない、という評価だ。
浅野氏が「よりまし」であったのであれば、結果としてその
芽を摘んだ責任は問われよう。吉田氏を立てている以上、浅野
氏は「よりまし」であってはいけなかったのである。
だが、石原都政があと4年間続くことは、「最悪の結果」で
あることには間違いないだろう。石原氏の「反省」が当選のた
めの単なるポーズであったことは、「石原節復活」で明らかだ
。原則的批判の展開、批判票の増加が、今後の都政運営に好影
響を与えると単純に言えるかは疑問である。共産党の結果責任
は政党である以上問われることになろう(勿論、浅野氏や民主
党の責任が問われることも論を待たない)。
結果責任の政党に変わるべきだ。
第3の論点は、共産党のアイデンティティーだの問題だ。
山口氏は、戦後の社会党について論じた中で「1:2」の「
抵抗」勢力に甘んじ、政権奪取の情熱を持たなかったことを厳
しく批判している。(2004年10月)
同じことが、共産党にも当てはまる。
「主張の正しさ」、「論理の一貫性」の砦に立てこもり、唯
一性の鎧に身を固めていては、政権を担うことはできないであ
ろう。
得票数や得票率の解釈、「論戦の正しさ」で満足するのでは
なく、また、「時間が足りず浸透させきれなかった」という表
面の分析に終始するのではなく、「政権奪取」に向け厳しい総
括が必要だ。
戦後60年、支持率低迷の原因を「反共攻撃」や「反共偏見
」に求めることはもう許されない。政策の正しさを浸透させる
に十分な時間は、経過したはずである。
「安倍政権の脆弱性」を指摘する前に共産党のそれを問題に
すべきだ。支持率低迷の原因に政策や訴え方の問題はないのか
、党首の存在感やイメージの訴求力は十分か、政権を取りたい
のなら真剣に考えるべきだ。
二段階論と呼ぶかどうかは別として、「与党を過半数割れ」
に追い込むため、「よりまし」政治を実現するための執念が必
要だ。現実政治を動かすための手練やしたたかさが必要だ。
党のアイデンティティーを問い直し、統一戦線を通じて政権
を奪取するにふさわしい指導者を育てることだ。
原氏の主張に異論はないが、いささか優しすぎるような気が
する。このような期待が失望に変わらないための時間は、そう
多くは残されてはいないことを共産党の現幹部は自覚すべきだ
。
(4)さいごに
山口氏は、政権交代のためには自民党より左側の対抗軸が必
要であると主張する。その実現のためには民主党の自己改革が
必要だとも。
しかし、一方で共産党や社民党の力も求めている。そうであ
るなら、「政権は取れない」「単一イシュー政党」と冷たく評
価するのではなく、民主党の変革に注ぐ情熱の一部を両政党に
対する提言に使ったらどうか。
理念のあるきちっとした対抗軸を構築するためには、民主党
の左側に存在する社民党と共産党の自己変革もあわせて必要だ
からだ。