日本共産党に対する注文や批判は何のためなのか。日本の現状を変えるためだ。そのために日本共産党に変わってもらわなければならない。
しかし、それは国民にとっては唯一の道ではない。社会が変わり日本共産党だけが取り残されるということだってあり得る。
そうならないためにはどうしたら良いのか。社会を変えるために(前に)、自己革新すべきだ。
(1)日本政治の現状と閉塞感
戦後60数年、一時期を除き基本的に自民党政治が続いている。そして現在、30数パーセントの支持しかない自民党が公明党の協力を得て政権を永続させている。
しかも、貧弱極まりないとはいえ曲がりなりにも達成されたリスクの社会化システムが、新自由主義的暴政によって総ざらいにされ個人がリスクの前に丸裸で投げ出され「機会の平等」さえ奪われようとしている現在の日本においてである。その国民を「保護」してきたシステムは、高度経済成長による所得の向上、全総方式による空間的平等化(山口二郎)、企業内福祉を含む擬似的福祉国家の構築を経て確立されたものであった。
これは一方では、その体制を選択し続けている国民意識のありようの問題であるとともに、別角度から言えば、国民に政権交代の明確な選択肢を示しえていない野党政治の問題である。
国民がすすんでする選択であれば別だが、生活の現実に基づく意識と投票行動とのズレが多少とも生じているのであるとすれば、不満や要求、不安を政権交代という形で表明し得ない国民は不幸といえるだろう。
日本の政治状況と課題を箇条書きにすれば、次のようになるだろう。
○リスクの個人化、社会的排除の増大を伴う格差の拡大、地域格差の拡大と地域の崩壊
○政権交代システムの欠如からくる日本政治の閉塞感-国民の選択権の形骸化
○自公政権に対抗する左の対抗軸の構築、選択肢の提示の課題
(2)政権交代への課題
日本政治の現状打開には政権交代が必要だとして、その実現への課題は何なのか。
現実的には民主党を中心とした対抗軸の構築が必要だろう。それを前提として課題を整理する。
○民主党はこれまで日本に根を張らなかった社会民主主義政党に自己進化できるのか。
○日本共産党はレーニン・コミンテルン型の共産党から社会民主主義的な開かれた現実的な政党に自己変革できるのか。
○この両政党を中心とした左派勢力の結集と国民の支持の取り付けができるのか。
民主党は理念、共通の基本価値の獲得なしには、国民の過半の支持を取り付けるような凝集性とエネルギーを獲得できないだろう。また、その基本価値は当然ではあるが自民党より左側でしかありえない。現在の自民党が進める新自由主義的政策を超克し、対抗理念を国民に明確に示すものでなければならない。それは、日本では根を張らなかったが、ヨーロッパでは政権を取り自己変革を繰り返してきた社会民主主義的価値でしか今のところありえないであろう。
日本共産党もまた、レーニン・コミンテルン型の共産党からの脱皮なしには支持率向上どころか拒否率の低下さえ望みえず、政権獲得など夢のまた夢であろう。
また、その「独善性」「秘密性」「革命性」ゆえに共闘相手としても選択肢からはずされる可能性の範疇にある。単独政権は勿論、統一戦線の一角として政権につく可能性さえ現状では低いといえる。
両政党にとって自己変革は政権へ到達する上で避けては通れない契機であり、また、それを経ての共同こそが政権到達への確かな道であるといえる。
自己変革なしの現在の各政党のままでの共闘では、基本価値の共有の困難性から左右の両極での支持の離反や活動の減退が生じざるを得ず、共闘効果は十分には発揮されないだろう。
また、相互の自己変革なしには安定的な共闘は困難であるし、たまたま生じた“失敗”事例は相互不信の増大をまねき、支持の奪い合いのための批判合戦へと後戻りする危険性をはらむ。
一方の自己変革が、他方の安心感・信頼感を増し相互の自己変革を促すという形で進むのが望ましい。その過程で基本価値の共有も醸成されるだろう。
(3)レーニン・コミンテルン型政党と社会民主主義との相違
共産党の共闘「拒否」、共闘「嫌い」は、たまたま生じた個別事例でも現指導者の特質から来るものでもない。そのレーニン・コミンテルン型の特異な体質から来るものだ。
その特質とは。
①社会主義・共産主義へいたる歴史の法則を認める、②賃労働が廃止された社会である社会主義をめざす、③革命手段としての労働者階級の権力の承認、④民主集中制を党の組織原則とする。
レーニンは、資本主義体制内の改良を手段としか見なさず、そこにとどまり社会主義=賃労働の廃止をめざさない者を「改良主義者」として厳しく断罪した。資本主義の根本矛盾は、生産手段の社会化と所有の私的形態との矛盾である。賃労働=搾取の廃止は、生産手段の社会化=私的所有の廃止へと収斂させられる。
資本主義とその国家は廃棄されるべきものであり、それを達成するためには労働者階級の権力の確立が必要である。国会闘争もそのための宣伝・煽動の場にしか過ぎず、そこにとどまるものは「ブルジョワ民主主義者」として非難され、「プロレタリア民主主義」の前に拝跪させられる。それを指導するのは、労働者階級の前衛部隊としての共産党であり、その組織原則は民主集中制である。
ここからどのような現実的な対応が出てくるのか。
○「変革」「転換」の重視
レーニンによれば、共産主義者は改良に最も習熟し、最もよく利用するが、それはあくまで「手段」なのだ。現実の改良は当然重視される。しかし、現実の改良の積み重ねに留まってはならない。「永遠の過程(運動がすべて)」であってはならないのであって、社会主義が目標でなければならない(それをブルジョア的「社会政策」にすりかえてはならない)。そこにとどまる場合、改良は害悪に転化する。この基本構造を日本共産党も引き継いでいる。
共産党の(改良と変革に関する)この意識の二重構造が理解できなければ、峻烈な現実批判と共闘「拒否」(結果として現実の継続につながる)との矛盾は理解できいだろう。
これに対して社会民主主義は、現実から出発し現実の改革にとどまる。その基本価値は、「自由」「公正」「連帯」であり、その実現である。何らかの社会体制の建設が目的ではない。
この基本価値は、ほぼヨーロッパの社会民主主義政党には共有されていると言って良いだろう。注目すべき点は、経済発展の段階、社会の変容に対応してその基本価値をそれらと適合するように深め、その具体化としての政策を進化させていくたゆまない自己改革への情熱だ。それは、基本価値の実現のための政権奪取への執念と言っても良い。
○「独善性」の一形態としての「真理の解釈権」
日本共産党は「プロレタリアート独裁」を「労働者階級の権力」と解釈し、「前衛党」規定を削除した。日本共産党が当面政権に就く可能性は限りなくゼロに近い(田口富久治氏)ことから、世に言う「独善性」の害悪はソ連東欧国家におけるグロテスクで大規模な人権侵害に結びつく心配はないが(党内における小規模な思想統制と排除は起きるだろう)、「真理の解釈権」の占有者としての傲慢さが共闘の成立を妨げる結果をもたらす危険性ははらむ。
この性格も個々の指導者の性格としての「傲慢さ」からではなく(それが重なる場合もあるだろうが)、レーニン・コミンテルン型共産党の特異性からくる。
レーニンの「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」における次の規定。「マルクスの学説は、正しいからこそ全能である。」「(マルクスの学説は)人類が19世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義というかたちでつくりだした最良のものの正統な継承者である」。このレーニンの規定が、思考停止と真理の解釈権の独占の淵源である。
日本共産党は、知識の時代制約性と相対性を承認する。しかし、そのことと社会発展の法則や階級闘争の理論の絶対的真理性の承認とは矛盾なく「並存」する。それは、人間知の絶対性と相対性の弁証法的関係というより、単純な並存であり、相対性の承認は「真理の解釈権の独占」という実態を覆い隠し、「セクト主義批判」をかわす盾になっているに過ぎない。
田口富久治氏は、日本のマルクス主義者、特に共産主義者に見られるマルクス、エンゲルス、レーニン等の著作の片言隻語をありがたがる権威主義的教条主義的傾向を指摘している(「マルクス主義とは何であったか?」)。
この傾向が、政権奪取の不可能性と結合した時、珍妙な「真理性基準」に行き着く。真理性こそがすべてで、現実変革に与える効力などどうでも良いといった感じである。
「日本共産党の70年」の中の丸山真男批判の次の一節。
「政治の世界においても、どれだけ真理に接近しているかという真理性の基準こそが、その党の理論と実践の正否を、最終的にはかる唯一の基準である。」
したたかに現実政治を動かし、現実を変えるということより、主張や目的の「真理性」(一貫性、無矛盾性)が優先される。
その「真理性」は科学的社会主義に立脚した党の政策である限りゆるぎないのであって、選挙での敗北の原因は「情宣不足」「浸透不足」ということに最初から決まっているのである(おそらくこれは、科学的社会主義の理論は労働者階級の外から持ち込むものだというレーニンの規定に淵源があるのではないか。国民は自ら考え判断する主体としてではなく、あくまで働きかけられるものとして見なされている)。
これに対して社会民主主義は、「自由、公正、連帯」を基本価値とし、その実現のために闘うと宣言する。「自らの権威付けのために社会主義の伝統を引き合いに出すこと」を否定する」(SPD「バートゴーデスベルグ綱領」)。
(4)日本共産党の変化は社会民主主義への脱皮の兆候なのか
基本用語の扱いから自衛隊、天皇制等の解釈まで日本共産党の変化は確かに見られる。それは、その時々の政治情勢にも対応し政権に参画するための政策的対応であったり、国民的な支持獲得のための努力とも受け取れないこともない。
これをもって、日本共産党の「社会民主主義政党化」と評価する論調も見られる。
果たしてそうなのか。
「共産党」の名称への固執は置くとして、民主集中制への執念はどう評価すればよいのか。党内の組織原則と社会のそれとは別個のものという主張は、形式論としてはそのとおりだが、国民には受け入れられないだろう。権力を取った政党の組織体質や組織原則が社会のそれに転化した例はソ連東欧だけではない。「異なる」というだけでは足りない。それを防ぐためには社会システムの整備に加えて、党の体質自体の民主性、透明性、多元性は欠かせないし、「選ばれる政党」になるためにも必須の条件といえる。
レーニン・コミンテルン型党の他の特質についてはどうか。
労働者階級の権力については、特定手段としての暴力革命とセットではないという認識は比較的浸透しているのではないか。
社会主義についてはどうか。ヨーロッパの社民政党も社会主義を放棄しているわけではない。ただし、それを資本主義とは異なる社会システムとは見なしていない。市場原理を前提にそれを統制しながら、基本価値が実現される社会とみている。もちろん、社会発展の法則など前提にはしていない。
不破氏が評価する中国の「社会主義市場経済」は、不破氏が評価しようとしない日本の市場経済システムにもベクトルが向けられていることは確かだろう。
賃労働の廃止についても、生産手段の所有関係だけではなく、労働の本質についての哲学的考察が必要だ。ヨーロッパ社民の労働感の深さに学ぶべきだ。それが個別雇用政策に表れている。賃労働という論理の殻に閉じこもらず、やりがい働きがいといった日常レベルまでおりてきた論議が必要だ。労働の疎外を剰余価値の「詐取」にとどめず、人間価値の開花としての労働に踏み込み、企業のCSRやNPO活動など現代的課題をも包摂する深みのある論議をすべきだ。
用語法や個別政策の変化にもかかわらず、レーニン・コミンテルン型党の基本特徴には何の変化もないといわざるを得ない。
(5)何からはじめるのか
日本共産党がそこから脱皮するには、「壁の崩壊」が必要なのか(そうでなければ、「左翼党」は結成できないのか)。ドイツの現象に匹敵するものをこの日本で求めるとしたらそれは何なのか。日本共産党の選挙での「壊滅的後退」か。
それを待つ訳にはいかない。だとすれば、他に方策はあるだろうか。
それを箇条書きしてみる。
①党外知識人からの粘り強い批判と提言。
党内知識人の状況については知る由もないが、「御用学者」という実感とともにレベルの低さ(民主主義的知性の)を実感した事例はある。また、党内知識人からの批判は、組織的反撃を受け党外排除される可能性がある。批判ではなく「反党活動」にされてしまう。
そういう点で、党外知識人の批判や建設的提言に共産党の変化への可能性を期待したい。その場合、党内外の区別を付けない人格否定的批判がもしかしてあるかもしれない。「粘り強い」と書いたのは、それにも懲りずに、ということだ。
②全労連の党からの独立。主要役員の党籍離脱。全労連としての政治方針の確立。
全労連は「政党支持自由」というイデオロギーから開放されるべきだ。確かに全労連は共産党支持決議もあげていないし、カンパも集めていない。赤旗へのメーデー広告などの掲載料がほんのわずかばかりあるだけで、資金的なつながりもない。
しかし重要なことは、共産党支部・グループを通じた確固とした関係(それは指導・被指導から自己規制、心の共鳴という形までさまざま)が存在するということだ。支持決定の場合には、支持をしてもらう党の方がどちらかというと弱い立場だが、党機関を通じた指導の場合には党の方が当然圧倒的に上位である。裏の指導さえ握っていれば、表の支持決議などむしろ邪魔ものでしかない。
全労連の役員という公職につく党員は、組織の独立性を守るためにその間党籍を離れるべきだ。「政治革新のために選挙に勝利しよう」という「何が勝利」であるか分からない覆面方針(「共産党の勝利」を隠しているという点で)をはやく清算し、組合員の支持(選択)という表の関係を堂々と築くべきだ。
全労連は日本共産党と裏の関係を通じない、表での独立した組織と組織の緊張関係を築いてはじめて、非自民の政治勢力の結集へ向けた役割を発揮できる。それが、日本共産党の自己改革を促すことにもつながる。
③地方議員の自立。
政権に近くなれば現実的思考になるし、政権担当能力も付く。住民の信頼度も高まる。
特に地方議員は、直接住民に責任を負う立場から、住民の目線で党の政策はもちろん、基本方針の「見直し」まで独自の研鑽を積むべきだ。
マイナー意識、排除されているという意識を捨て、地方の政治や生活を担っている(いく)という意識を強めることにより、党員や党組織の自己改革は促されると思われる。勇気と知性を持って発言すべきだ。
(6)さいごに
古い組織体質に絡め取られた中央幹部の自己改革は、それ自体としては期待できない。また、以上の箇条書きも決め手ではない。
しかし、やらなければならない。
「二大政党制」を現代版「反共攻撃(シフト)」とする共産党幹部の自己弁護のための枠組みを打ち破り、民主党と日本共産党の自己改革と共闘を促し続けなければならない。
政治変革への展望なしには、共産党員は動かない。国民も支持しない。
国民は「教宣の対象」ではなく主権者だ。変わるべき、めざめるべきは、日本共産党(幹部)の方だ。