コメントをありがとうございます。4月17日の一般投稿欄への投稿(「納得はで きない、しかし試す価値あり」)へのお返事ですが、都知事選問題が中心ですので、 こちらの欄へ投稿することにしました。
1、とんびさんによる批判
「本サイト立ち上げ当時は、不破氏による共産党から民主党への無原則的なすりよ り、日の丸君が代容認、天皇制擁護、新自由主義的改革論の美化、への批判が論議の 中心であった。あれから8年、いまや、政策的一致が十分でないままに民主党推薦候 補への勝手連的支持論まで活憲派から飛び出す状況である。」
私の述べた都知事選の選挙戦術(浅野への一本化)を批判的に検討したとんびさん
の投稿の末尾で、このように書かれていますが、これは私への批判なのでしょう? 私はそう理解しました。
思うに、私より「左」の人たち(仮にこう呼ばせてもらいますが)の批判は、こう
した無造作な批判ないしは論評が多すぎます。本音を言えば、こういう批判は、も
う、無視して「スルー」したいところなのです。あまりにも労多く徒労に終わること
が多いからですが、とんびさんの理解を得るために気を取り直してやってみましょ
う。
2、批判の内容
まず、とんびさんがこの文章で批判する内容を確定しておきましょう。不破による
①「民主党への無原則的なすりより」や②「日の丸君が代容認」、③「天皇制擁
護」、④「新自由主義的改革論の美化」と⑤「民主党推薦候補への勝手連的支持論」
が同じ政治的性格のものとして同列に置かれ批判されています。これらのものに共通
の政治的性格として批判されるべき特徴は、あるべき原則からの逸脱としての「無原
則的なすりより」ということになります。
①~④までは、1998年当時の不破による連合政権論の提起から2000年の第
22回党大会決議の時期に出された共産党による国政政策です。これらが「容認」と
か「擁護」、「美化」というように表現こそ違いますが「無原則的なすりより」とし
て批判されています。
⑤は具体的に何を指しているのでしょうか? とんびさんの投稿全体の主題は今回
の都知事選に関する私の主張への言及となっていますから、⑤は今回の都知事選での
私の選挙戦術(浅野への一本化。とんびさんの言葉では「勝手連的支持論」)を含ん
でいると考えるのが至当でしょう。ただし、浅野は選挙戦途中で民主党に支援を要請
しましたが、民主党推薦候補ではありません。
すると、私が選挙結果から回顧して述べた浅野への一本化という戦術は「無原則的
すりより」として批判されていることになります。
当サイトが不破の「無原則的なすりより」を批判することから始まったのに、それ
から8年後の今日では、「活憲派」(主に私のことでしょう)から不破同様の「無原
則的なすりより」が都知事選で主張される状況にあると、とんびさんは主張している
わけです。
3、論旨が分裂していないだろうか?
そうすると、とんびさんが一方で言わんとする「試す価値あり」という評価と矛盾
することになりませんか? 「無原則的すりより」だが、「試す価値あり」というの
では、何を主張しているのかわからないことになってしまいませんか? この矛盾を
解くことができるとすれば、「無原則的なすりより」だが、都知事選をめぐる政治情
勢を具体的に検討すれば、相応の望ましい政治的結果が得られる可能性がなきにしも
あらずだからだとでも解釈しなければならないでしょう。
「無原則的なすりより」でも、「試す価値あり」のものと試してみる価値がないも
のがある、ということになります。こうなると、「無原則的なすりより」ということ
自体が、何の説明もなしに、無条件に、批判であるという意味を失ってしまうことに
なるでしょう。不破による安保棚上げの連合政権論も試してみる価値がなきにしもあ
らず、となりませんか? これでは、上に引用したとんびさんの文章全体は批判とし
ての意味を持たないものになってしまいます。
しかし、とんびさんの上の文章は、主観的には紛れもなく批判として書かれていま
す。そうじゃありませんか? こうして、どこをどのように解釈するにしろ、あちら
立てればこちら立たずということになります。
首尾一貫させるとすれば、上の引用文のように、①~④も⑤も「無原則的なすりよ
り」であり、原の主張する浅野への一本化は誤りであったとするか、①~④は「無原
則的なすりより」であるが、⑤は「無原則的なすりより」ではなく、選挙戦術として
「試す価値あり」とするかどちらかにしなければなりません。
とんびさんの考えは二つに引き裂かれているのです。だから「納得はできない、し
かし、試す価値あり」という投稿の表題にもなるわけです。
4、論旨が分裂した端緒
そこで、なぜ、とんびさんの主張が引き裂かれることになったのかということにつ
いて考えてみましょう。「政策的一致が十分でないままに民主党推薦候補への勝手連
的支持論」という一句は、その言葉だけを見れば、まぎれもなく「無原則的なすりよ
り」に他なりません。この言葉には都知事選という具体的な選挙戦の片鱗もなけれ
ば、特定の政治的諸条件も見あたらない一般的な表現になっています。
一般的に言えば、選挙共闘や様々な政治共闘にあたっては、十分な政策的一致が必
要であり、政策協定をせずに相手にフリーハンドを与えるだけの支持は政治的に無原
則な態度だからです。
とんびさんは私の主張する浅野への一本化論をこの言葉で概括(リンゴやナシを果
物と概括すると言う場合の概括)してしまったのです。しかし、ここから、とんびさ
んの混乱が始まるのです。
5、論旨が分裂した原因
今回の都知事選での私の主張を、とんびさんの言葉のように概括するためには、本
来その思考の手続きとして、都知事選の具体的な分析が先行して行われなければなら
なかったのです。都知事選をめぐる政治的諸条件の具体的な分析の結果としてだけ、
「政策的一致が十分でないままに民主党推薦候補への勝手連的支持論」なのかどうか
がわかるのです。そして、分析の結果として、このような概括ができれば当然にも
「無原則的なすりより」かどうかもわかるのです。
ところが、とんびさんは都知事選の具体的な分析のプロセスを省略して、目に見え
る外形的類似性とでもいうべきものだけに着目して、あるいは直感的印象だけをたよ
りに「政策的一致が十分でないままに民主党推薦候補への勝手連的支持論」と誤って
概括してしまったために、「無原則的なすりより」という批判が出てくることになっ
たのです。具体的な分析なしに概括しているのです。ここにとんびさんが引き裂かれ
ることになった原因があるのです。
6、具体的分析なしの結論-その1-
そこで、とんびさんが都知事選の具体的な分析なしに概括していることを説明して
みましょう。具体的に分析すれば、私の議論がなぜ批判されるべき勝手連的支持論で
あるかを具体的に指摘できたはずであり、勝手連的支持ではない別の戦術を示すこと
ができたはずなのです。しかし、とんびさんの投稿ではそれらが述べられていませ
ん。
述べていることは、浅野は立候補当時、憲法の活用を述べていなかったとか、「改
革派知事」が弱者にやさしい政治をやったとは言えないが、そういう候補者が立つこ
との問題を原は検討しないのかという批判です。そういう問題点に「ほおかむり」し
て浅野を支持するのは、批判されるべき勝手連的支持論じゃないかということなので
しょう。浅野が掲げる政策の問題点の指摘だけです。
このような主張は都知事選の政治情勢を分析して、我々がどういう選挙戦をするか
という検討の仕方ではありません。つまり都知事選の具体的分析ではないのです。政
治情勢の具体的分析と、とんびさんならどう闘うのかという主体としての実践の契機
がないのです。
7、具体的分析なしの結論-その2-
とんびさんによる問題点の指摘は、各立候補者を個々バラバラに、彼らの相互関係
を抜きに、浅野の政策を検討しただけのものです。このような検討も都知事選の具体
的な分析のための基礎資料になりますが、選挙戦では競争関係に置かれることになり
ますから、候補者間の相互関係の中で政策を取りあげて検討するところまで進まない
と都知事選の具体的分析とは言えないのです。失礼ながら、これがとんびさんにはわ
かっていません。個々バラバラにされた候補者の政策の問題点指摘から、いきなり、
無媒介に無原則的な勝手連的支持論だという結論が導き出され批判されています。
これでは、問題を抽象的に論じているだけなのです。一例を挙げれば、抽象的な議
論だということがわかるでしょう。たとえば、前々回の長野県知事選では、知事不信
任案の可決に対抗して田中知事は辞職・再出馬を行いましたが、その選挙戦で共産党
は田中候補と政策協定を結ぶことなく田中支持で闘っています。これなども勝手連的
支持という選挙戦術ですが、だからといって「無原則的なすりより」とは特徴づけな
いでしょう。どこが無原則的であるかは、それぞれの選挙戦を具体的に分析してみな
ければならないのであって、候補者の政策の問題点を指摘するだけであったり、勝手
連的支持という外形だけ、あるいは両者の指摘だけでは結論を出せないことがわかる
でしょう。
候補者を個々ばらばらにその政策を検討する時、そこには一つの抽象化が行われて
います。すなわち、候補者間の現実の政治的相互関係が捨象されています。候補者を
個々バラバラにすれば、候補者でもない私が考えた私の都知事選政策を検討すること
と同じです。しかし、浅野らは現実の候補者なのですから、その政策は候補者間の相
互関係の中に置かれてはじめてその政治的性格付与され、一定の政治的機能、役割が
発生するのです。
そして、相互関係の中で発生した政治的性格、機能、役割をもつものとしてその政
策を検討することが都知事選の具体的分析のはじまりなのです。
8、具体的分析なしの結論-その3-
その相互関係を規定する要因はさまざまありますが、単純化して相互の力関係の中
だけで考えてみましょう。彼らの基礎票(2005年衆議院選比例基準)で見れば、
石原348万、浅野226万、吉田58万ということになります。三つどもえの選挙
戦では、石原の勝利は目に見えています。浅野の政策にしろ、吉田の政策にしろ、そ
の政治的性格、機能、役割は、ほとんどショーウィンドーの中にある「蝋細工のメ
ニュー」としての意味しかもちません。
「蝋細工のメニュー」としては吉田の政策が浅野よりベターということになりま
す。しかし、「蝋細工のメニュー」でしかない政策を吉田の方がいいと力説しても、
所詮「蝋細工」としての政策の優劣でしかないことを吉田支持者達は理解していませ
ん。
ところが、仮に、石原200万、浅野120万、吉田300万ということであれ
ば、吉田の政策は「蝋細工のメニュー」を脱して食べられる現実の料理になります。
同じ政策でも政治的性格や機能、役割は変化します。
単純ですが、このように候補者の政策もその相互関係の中において検討すれば、相
互の力関係の変化によってその政治的性格、機能、役割は変化することがわかるで
しょう。
9、具体的分析なしの結論-その4-
さて、そこで、今度は政治勢力の主体的働きかけ(戦術)という要因を導入してみ
ましょう。この要因もまた、候補者間の相互関係を規定する重要な要因です。客観的
な情勢としての基礎票はわかっているのですから、反石原の蝋細工部隊が何とかして
蝋細工を脱する手だてはないものかと思案して気がつくことは、浅野と吉田がどちら
かに一本化すれば戦い方如何では蝋細工を脱する可能性を切り開くことができるかも
しれないということです。
ここで、選挙戦の最大の政治課題をどこに置くのかという主体の側の要因の重要性
が出てきます。共産党のように、最初から「蝋細工のメニュー」を並べて党の存在感
を示すことに政治課題を置くのか、それとも、石原打倒に置くかで対応が違ってきま
す。この相違だけで候補者間の相互関係は異なってきます。
石原打倒というところに最大の政治課題をすえると、両陣営の一本化の戦術が出て
くることになり、一本化するには、どこをどのように調整するのかという問題が現実
問題となってくるわけです。ここに至って調整の基本方向を決める要因は両者の持つ
戦力比較なのであって、候補者の政策ではありません。
都民は政策だけで候補者を選びません。都民が政策だけ見比べて投票するのなら、
今頃は共産党は都知事どころか国会でも両院で数百の議席を確保しているでしょう。
調整の基本方向を決める要因は戦力比較をおいて他にはないのです。
浅野と吉田の場合は約4対1ですから、どちらの候補がいいかとか、どちらの政策
を採用するか云々の議論は成立の余地がありません。候補者は浅野であり、浅野の政
策が基本になるのであって、浅野がどの程度吉田の政策を取り込めるのかということ
が協議の対象になるにすぎません。
だから、浅野の政策の問題点をあげつらうのは自由にできますが、一本化戦術と4
対1という戦力の枠組みの中でしか、現実的で有効な議論はできないのです。その枠
組みで議論をするのが嫌なら、一本化戦術を捨てなければなりません。
とんびさんが問題だという言う浅野の政策は、この枠組み(縦糸としての一本化戦
術と横糸としての具体的政治的諸条件、例えば戦力比較等)の中でしか議論できない
のに、とんびさんの問題点指摘はこうした枠組みを一切考慮していないのです。すな
わち、ここでも縦糸と横糸が限定してくる議論の枠組みを捨象して、無媒介に自由勝
手に浅野の政策の問題点を云々しているにすぎません。
要するに、都知事選をめぐる政治的諸条件とそこでの戦術の問題を具体的に考察し
ていないことがわかるでしょう。「試す価値あり」と言うのであれば、この枠組みを
念頭に置かなければなりません。この枠組みを越えて、とんびさんの憲法観を浅野に
押しつけようとすれば、たぶん一本化戦術は空中分解してしまうでしょう。
10、具体的分析なしの結論-その5-
リンゴを果物と概括するためには、リンゴを分析してその特徴が果物の範疇に該当
するかを研究してみなければなりません。わかりやすく言えば、とんびさんはリンゴ
と似て非なる或る物(都知事選)をその外形的類似性や直感的印象だけで果物(「政
策的一致が十分でないままに民主党推薦候補への勝手連的支持論」)と誤って概括し
てしまったために、「無原則的すりより」という批判になっているのです。
何が「無原則的すりより」か、そうでないかは、政策協定のあるなしというような
目に見える外形だけで判断できるものではなく、具体的な政治的諸条件等を考察する
ことによってだけ決定できるのです。そうじゃないですか? この概括にある「政策
的一致が不十分なまま」という言葉も同様です。何が「不十分」かは具体的に検討し
なければ言えないことであって、あらかじめ十分ということの基準があるわけではな
いでしょう。
だから、とんびさんによるあのような概括にあたっては、少なくとも都知事選をめ
ぐる政治的諸条件を具体的に分析してみる必要があったのです。
そうすれば、たぶん、「試す価値あり」という結論になるのであって、「政策的一
致が十分でないままに民主党推薦候補への勝手連的支持論」というようには概括しな
かったはずなのです。
しかし、とんびさんは、あのような概括に疑問を抱いておらず、「無原則的すりよ
り」という判断を投稿の論旨の基礎にすえています。概括にあたっては都知事選をめ
ぐる政治的諸条件を具体的に分析しなかったものの、しかし、他方では都知事選をめ
ぐる政治的諸条件を考慮すると、石原に一泡吹かせられる可能性があるものとして一
本化した選挙戦は「試す価値あり」と感じるというわけなのです。
とんびさんの議論の分裂を統一する『要』は、都知事選をめぐる縦糸と横糸を具体
的に考慮し分析してみることだったのです。
11、小括
以上は、上に引用した文章の誤りについての核心部分です。「政策的一致が十分で
ないままに民主党推薦候補への勝手連的支持論」という一般的表現で書かれているた
めに紛らわしいのですが、概括の方法に関して述べたものです。
上に引用したとんびさんの2行ばかりの文章を解きほぐし反論するのに、このよう
に、とんびさんの文章の40倍もの分量の文章を書かなければならないのです。仮に
上に引用したとんびさんの文章のような批判を5行も書かれたら、こちらは肩をすく
めるしか方法はありません。私がスルーしたいという理由です。
12、他の問題点-その1-
この2行の文章には他にも解きほぐさなければならない問題がいくつもあります。
たとえば、私が前の投稿で述べたことは今回の都知事選の戦術論議であって、国政選
挙や他の地方首長選を含めた選挙戦全般の戦術を述べているわけではありません。し
かるにとんびさんの概括は「民主党推薦候補への勝手連的支持論」という言葉で一般
化されています。
とんびさんの概括について、これまで私が述べてきたことは、概括の方法について
でした。今度はその概括の形式の問題です。一般論の形式で述べられています。とん
びさんが無意識で行ったにしろ、不当な一般化と言わざるを得ないでしょう。たとえ
ば、私は神奈川県知事選で民主党の松沢を勝手連的に支持するべきだと述べたことは
ありません。
だから、とんびさんの批判が内容的に仮に正しいとすれば、都知事選における民主
党推薦(実際は支持)候補への勝手連的支持論は「無原則的なすりより」だと言うべ
きなのです。
13、他の問題点-その2-
このように不当に一般化を行った結果、今度は、①~④と⑤を同列に置くという誤
りが発生しています。仮に私の戦術論が誤っているとしても、それは都知事選だけの
ものでしょう。私は神奈川知事選では松沢の勝手連的支持論を主張しているわけでは
なく、国政における民主党との選挙協力では「改憲の発議を封印する」という政策的
合意を提唱しているわけですし、民主党との連合政権論を主張しているわけでもあり
ません。
とんびさんは、誰かがある地方選で「無原則的なすりより」になる選挙戦術を採用
した場合、不破の国政政策における「無原則的すりより」である①~④と並べて批判
するのですか?
そのように並列に等置するためには、①~④の誤りと⑤の誤りが共通の理論的基礎
をもっていることを論証してはじめてできることです。しかし、とんびさんの投稿に
はその論証がありません。単に「無原則的すりより」という一つの共通の政治的特徴
だけで等置しています。これでは硬いという共通点だけで、石頭と鉄は同類だと並べ
るのとどこが違うのでしょうか? 「無原則的すりより」という政治的特徴が同じだ
からといって、とんびさんは自民党にすり寄る民主党の政策と不破提唱の政策を等置
することはないでしょう。
この無造作な等置に見られるとんびさんの議論も、習慣的、無意識的な誤った抽象
的思考の産物なのであって一面的なものです。一面的な特徴づけで全面的本質的批判
に代替しています。「無原則的すりより」という共通の政治的特徴だけに着目してお
り、不破の連合政権論が提唱された時期と2007年都知事選の時期における政治情
勢の違いや、①~④の国政政策と都知事選の選挙戦術とが持つ相違は一切捨象されて
います。
①~④は恒常的なもの、全国的なものであり、他方は、一時的、地方的であること
や、一方は政党の性格を決定する基本的要因であるのに対し、他方は基本的要因では
ありません。また、一方は普遍的であるのに対し他方は特殊なものです。あるいは一
方は政策で他方は選挙戦術です。こうした相違が一切無視されて、「無原則的すりよ
り」という共通の政治現象だけで同列に置かれているのです。
さらに言えば、一つの共通点だけを取り出して、なぜ他の相違点を一切捨象するの
か、なぜ他の相違点を捨象できるのか、その根拠が全く示されていません。等々。
14、「ほおかむり」なる批判-その1-
もう一つだけやります。とんびさんの批判の方法、形式と見てきて、今度は内容に
関してです。とんびさんの投稿では、浅野の憲法論を私が「ほおかむり」していると
いう批判がありますが、この批判も「無原則的すりより」とか「政策的一致が不十分
なまま」という批判と同類です。私に言わせれば、具体的な分析なしの一般論からす
る批判です。
とんびさんはどの程度の憲法観があれば合格なのですか? とんびさんの批判には
具体的な基準が明示されておらず、言わば、天から降ってきた抽象的一般的原則論か
らの批判ばかりじゃないですか? 曰く、原は浅野の憲法観を問題にしていない。
望ましい憲法観ということであれば、9条堅持の護憲論ですよ。しかし、そういう
明々白々な護憲論の候補者で、石原に勝つ現実的可能性を創り出せそうな候補者を
我々が擁立できないでいるからこと、石原打倒のために、相応の妥協が必要になって
おり、どの程度の憲法観であればいいのかを工夫しなければならないんじゃありませ
んか。
私の考えでは石原打倒が最大の政治目標であって、他の諸条件はこの優先課題に準
じてそれらの重要性が序列づけられ、妥協の範囲も定まってきます。序列と妥協の範
囲は、さらに具体的諸条件である相互の戦力比較や具体的な候補者選択、与えられた
折衝期間等の組み合わせで決定されてくるものです。
候補者の憲法観についても、これらの諸条件の中で定まるのであって、今回の都知
事選では石原より「まし」な浅野と手を組むべきだったというのが私の結論です。
15、「ほおかむり」なる批判-その2-
より「まし」と言うと、あるサイトの論争では、極右が二人だったらどうするん
だ、より「まし」な極右を選ぶのかという反論がされていましたが、この批判も、先
に述べたとんびさんの概括と同じで、より「まし」を一般化したうえでの批判です。
具体的に都知事選では石原と浅野という候補者がいるのですから、その比較としての
より「まし」という限定があるわけです。
今回の場合、浅野には「日の丸、君が代」を強制しないという程度の民主主義観が
ありますし、選挙戦の中で憲法「護持」とか言っていますから、それで十分じゃない
ですか? すでに述べた縦糸と横糸が作る枠組みからすれば、十分でしょう。私のこ
のような判断がとんびさんに批判される「政策的一致が不十分なまま」の「勝手連的
支持論」の内容の一部ということになりますが、「無原則的すりより」に該当するで
しょうか?
民主党と共産党の戦力比が4対1で、民主党は改憲政党です。それに加えて、国民
世論は改憲派が多数であり、専守防衛の改憲派とさえ手を組まなければならぬほどの
政治情勢にあります。
原則論は、こうした諸条件の具体的な枠組みの中で検討されるべきものであって、
そこを離れてしまえば「裸単騎」の原則論、天上での原則論、原則論の空回りになっ
てしまいます。
浅野の憲法観について吟味することを、前の私の投稿で述べていないのは、都知事
選をめぐる主な論争点(選挙戦術)に決着をつけるという主題で書かれた投稿だから
にすぎません。その点は投稿の冒頭に明記しています。
憲法観を云々するとすれば、その憲法観が置かれた政治的諸条件の枠組みや候補者
間の相互関係に触れなければならず、また、他の政策の評価にも言及せざるを得ず、
主題が曖昧になるばかりか、言わば、都知事選全体を総括しなければならなくなった
でしょう。諸事情を熟知しない一介の庶民にできることではありません。
そういう意味で、浅野の憲法論の評価が書かれていなかったのは原の「ほおかむ
り」だなる批判はいかがなものでしょうか? 八百屋へ行って魚がないと批判するの
と同類の批判ではないでしょうか?
16、批判は少なく、対案をもっと多く
最後に、ざっくばらんに言わせてもらいますが、対案もなしに、あれは美化だ、ほ
おかむりだ、あるいは軽視だ、これがない、あれがない、利用される危険がある、す
り寄りだ等々言うのは簡単なことです。そうじゃ、ありませんか?
このサイトばかりではありませんが、私の経験では、私より「左」の人たちがする
批判の共通の特徴と言ってもいいでしょう。すでに述べた無造作な”概括”をやり、
一面的概括を全面的本質的把握と錯覚し批判するためです。具体的に論じて批判と対
案を出さずに、天から降ってきた原則論をもって批判します。
たとえて言えば、仕事の必要から体の動きやすいゆるめの作業服を購入したとこ
ろ、スリーサイズが合っていないものを買ってきたと小姑が小言を言う、とでもなり
ますか。
無造作な批判はもっと少なく、対案をもっと多くと言いたいですね。自分ならどう
闘うのが効果的だと思うのかを考え実践的な提案を構想してみることです。そうすれ
ば、具体的に考える習慣が身につき、自分の議論の一面的で抽象的な欠点や問題が限
定されてくる具体的な枠組みも目に見えるようになるでしょう。また、そうならない
と、いろいろな人たちとの政治的連帯も「見果てぬ夢」に終わりかねません。
17、政治の経験が教えること 私の知り合いに地方議会の有力者がいて、彼は自民党員ですが、私がとんびさんの ような議論をすると決まってこういうことをいいます。
「力のない者が、あれも欲しい、これも欲しい、これはダメだ、あれはダメだと言っ ていては、獲れるものさえ獲れやしない。だだっ子のようなものだ。協力者はサジを 投げてみんな逃げ出してしまうだろう。自分の力の及ぶ範囲で力を尽くし、足りなけ れば、相応の礼を尽くして力を借りて、手の届くもの一つに的を絞って獲得するべき だ。獲れなかったものは、次に力をつけて狙うべきだろう。」
今は、そういう時じゃないですか?