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「現状分析と対抗戦略」討論欄

民主集中制について(4)

2007/6/25 風来坊 50代 自営業

 すでに、社会民主主義的中央集権の根本的内容をこのように 検討すれば、今日、ロシアではまだこのことのために必要とさ れる諸条件が完全な程度にはあたえられていないことが、明ら かとなる。それは、すなわち、すでに政治的闘争で教育された プロレタリアの相当数の層の存在、ならびに、(公開党大会、 党機関紙、等々において)影響を直接的に行使することを通じ て、それらの層の自由裁量能力に表現をあたえる可能性、であ る。
 後者の条件は、明らかに、ロシアにおける政治的自由にとも なって、はじめて創造されうる。しかし、前者―プロレタリア ートの階級意識をそなえた批判能力ある前衛の育成―は、今ま さに生まれつつあるところであり、直接的な扇動者活動および 組織者活動の主導的目標とみなさねばならない。
 ロシアには、大きな、極度に中央集権化された労働者政党を 実現するための前提条件が、すでに存在しているという、レー ニンの倒錯した確信には、いっそうおどろかされる。そして、 かれが、今やすでに、「ロシア社会民主党内の、プロレタリア ートではなく、多くの者先生たちは、組織と規律の精神におい て、自己教育を迫られている」と楽観的に呼号し、プロレタリ アートは生まれながらにして、「規律と組織」にかなうように 成熟させる、工場というものの、プロレタリアートにとっての 、教育的な意義を賞賛するとき、そこには、またしも、社会民 主主義的組織についての、余りに機械的な一見解が示されてい る。
 レーニンのいう「規律」は、決して、単に、工場によっても 、兵営によっても、また、近代的官僚政治によっても、すなわ ち、―中央集権化されたブルジョア的国家の全体的メカニズム によって、プロレタリアートに叩きこまれうる、ものではない 。しかも、指揮棒につれて、機械的に運動をする、多手多足肉 塊の無意志.無思考性と一つの社会的階層の意識的な政治的行 動による自発的な協調、抑圧された一階級の盲目的従順と、解 放のために闘う一階級の組織された反乱、というような対立す る二つの概念を、等しく「規律」と名付けるならば、それはス ローガンの不当な濫用以外の何ものでもない。
 資本主義国家によって叩きこまれた規律に関連づけることに よってではなく―ブルジョアジーの手から、一つの社会民主主 義的中央委員会の手へと、指揮棒を置き換えることによってで はなく、この奴隷的な規律精神を打破し、根絶することによっ て、はじめて、プロレタリアは、新しい規律―社会民主党の自 発的な自己規律へと、教育されうるのである。(ロシア社会民 主党の組織問題 ローザ.ルクセンブルグ)

 ここまで書いた時、浮かんできたのが、田口富久治氏の「丸 山眞男「自由について」と最近の研究二点を論ず」の以下の一 文です。

 つまり、この時点の丸山は、おそらくマルクス(主義)文献は かなりよく読んでいたし、「資本論」は高く評価していたが、 官許マルクス主義側の論理の目の粗さには、ついていけなかっ たということだったようだ。
 丸山がこの時点でレーニンの仕事をどの程度読んでいたかは 分からないが、この本では、「レーニンは、やっぱりツアーリ ズムの<孫引用のため不明部分・・・管理人注>の遺産を非常に継承している。だから〔マルク スからの〕変質がある。」(p140)とのべる。そしてロシア革命 後のローザとレーニンの党内民主主義についての有名な論争に 触れて、丸山は「独立社会民主党からスパルタクスに行ったド イツ社会民主党の左派と、ボルシェヴィキとの基本的な違いは 、個人の自由の問題なんです。ローザの有名な自由についての 言葉で―「自由というのはいつでも、他人と考えを異にする自 由である」、ぼくは好きなんだよね、これが(笑)。この伝統が あるなし、そこの違いなんです。民衆の解放とかいうよりね。 つまり、自由とは、あなたと考えを異にする伝統なんです。」(p141)