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「現状分析と対抗戦略」討論欄

今も生きる芝田進午氏の平和希求の思想

2007/7/1 千坂史郎

 「週刊金曜日」誌の市民運動案内板に五行の短い案内があった。
会場は、東京都・牛込箪笥区民ホール。「平和のためのコンサート 芝田進午七回忌によせて」。このコンサートは毎年行われて今年が第八回となる。関係者の間では、チケットの普及の様子を危ぶ時期もあったようであるが、会場はぎっしりと埋まっていた。昨年よりもはるかに多かった。コンサートは、東京で一九九五年まで十年間続いたノーモアヒロシマコンサートを継承する第一部と多彩な音楽家が演奏した第二部から編成されていた。
 わけてもチェルノブイリ原発事故で一九八六年に被曝したウクライナ生まれのパンドゥーラさんのナターシャ・グジーが第二部に特別出演された。このことは、アメリカの原発もロシア・旧ソ連の原発も共に、「人類絶滅装置体系」としての核兵器の巨大な問題の存在を思想史的に位置づけた芝田進午氏が、「人類生存のための哲学」の構築を晩年に訴え続けた趣旨にとてもふさわしい出演であった。音楽的にも素晴しかった。

 ヒロシマに落とされた原爆が、世界的規模の核時代の始まりであ り、そのような時代において人間はいかに生きいかに立ち向かうか。 そのことを洞察して、ノーモアヒロシマコンサートを始めたのが、 平和哲学者芝田進午さんとご夫人で声楽家の芝田貞子さんだった。 私は、今回話された二人の講演にとても得るものが多かった。音楽 家の木下そんきさんは、ノーモアヒロシマコンサートを主宰した芝 田さんが、論理の帰結に誠実であった生きる姿勢を讃えた。戦前に、 大学の講壇哲学に所属して、社会的実践に踏み出すか否かを迷って いた古在由重氏は、親友の吉野源三郎氏と真剣に討論した結果、自 らが正しいと論理的に判断した結果には、いかなる困難があっても、 その労苦に耐えて一歩踏み出すべきだ、という助言を取り入れた。 戦前の激動を生き抜いた両氏とまったく同じ生きる姿勢を、芝田進 午氏は戦後に生きて貫かれた。弁護士の島田修一さんは、「憲法第 九条を守る意味」について述べられた。

 戦後に制定された日本国憲法は、三つの国家像として平和国家、 福祉国家、人権国家の論理を内包している。それに対して改憲勢力 の中枢の自民党憲法改定案の示す国家像は、戦争国家、福祉切り捨 て国家、人権抑圧・制御国家である。
 この対比は、十五年戦争に至る時代と戦後の憲法制定前後の時代 との対比に照応している。当時、人間の尊厳をかけて多くの若者た ちが立ち上がっていた。
 現代の日本は、心がぼろぼろにされ、個々人がバラバラにされて いるけれども、全国に広がる九条の会などのように、人間の尊厳を かけた若者や人々達がいることも私たちの実態であることを強調さ れた。コンサートを鑑賞して私は島田さんが引用した言葉、「戦争 は人の心の中につくられるものであるから人の心の中に平和の砦を 築かなければならない」が深く心に響いていた。ユネスコに採用さ れたこの言葉は、あの平和哲学者カントの言葉でもある。
 芝田進午氏は、晩年に実践的唯物論哲学の原則は堅持しつつも、 人類存続のための平和の哲学構想を抱いていた。先生のご逝去から わずか数年にして、これだけ急速な短期間に日本が軍拡国家となり はてようとは。死者に魂があるかどうかは無神論者の私には自信が ないけれども、死者の平和への深い祈りを、決して無にしてはなら ない。さもなくば、日本国家ならびに日本民族は永久の地獄へと沈 んでゆくことであろう。死者の遺志を現在に生かすには、どのよう な方途が残されているか。
 まだまだ私たちは死者の声に耳を傾けなければなるまい。そうし ていつか、本当に死者の霊を弔うことができるとしたら、それは日 本が世界に誇るべき戦力放棄の平和国家となった独立の日において はない。        (了)