そうはせずに、トロツキーは、10月に召集され た立法議会の特殊な欠陥から一切の立法議会が不必要であると いう結論を下し、更に、この欠陥を一般化して、普通選挙によ って生まれた国民代表一般が革命期に無能力であると説くに至 った。
「政治権力をめぐって赤裸々な退っ引ならぬ闘争が行なわれ て来たため、労働者大衆は短期間に大量の政治的経験を積み、 その発展は急速に一つの段階から他の段階へと進んでいる。土 地が広大であればあるほど、また、その技術的装置が不完全で あればあるほど、民主主義制度の鈍重なメカニズムはこの発展 に追いつくことができない。」(10月革命からブレストの講和 まで トロツキー)
ここでは、既に「民主主義制度一般のメカニズム」というこ とが問題になっている。先ず、これに対して明らかにせねばな らないのは、代表制度に対する右のような評価のうちには、そ れこそ、あらゆる革命時代の歴史的経験と真向から衝突する、 何か公式的な硬直した見方が現われているということである。
トロツキーの理論によると、すべての選挙された議会という ものは、投票した正にその瞬間における選挙民の心理、政治的 成熟、気分だけを永久に反映していることになる。 ( 略 )
前に選挙された人々と選挙民との間の生きた精神的関連、両 者の間の不断の相互作用は、ここではすべて、否認されている 。
これは、何と一切の歴史的経験と食い違う話なのか ! むし ろ、歴史的経験がわれわれに示しているのは、国民の気分の生 きた流れが絶えず議会を洗い、それへ流れ込み、それを左右す るということである。
そうでなかったら、どんなブルジョア的議会でも、時として 、突如、「国民の代表」が、「新しい精神」に活気づいて、思 いもかけぬ発言をするというような、とんぼがえりがどうして 可能になるのであろう。
このような、大衆の気分や政治的成熟が議会に与える不断の 生きた影響が、時もあろうに、革命の真最中、党の看板とか選 挙人名簿とかという窮屈な方式の犠牲になるべきものなのであ るか。
とんでもない ! 革命こそ、その熱によって、あの微妙な、 律動する、敏感な政治的空気を作り出すものであり、この空気 の中で、国民の気分や空気の波や国民生活の脈拍が一瞬、議会 に不思議な影響力を振うのである。
あらゆる革命の初期の段階に周知の感動的な光景は、すべて これに基づくものであって、旧制度下の制限選挙によって選ば れた古い反動議会、精精のところ、温和な議会が、突然、革命 の突撃隊の、群集のスポークスマンになるのである。
その古典的な実例を提供しているのは、イギリスの有名な「 長期議会」であって、1642年に選挙され、召集され、7年間に 亘ってポストにとどまっていたが、この間、その内部に、国民 の気分の、政治的成熟の、階級的分裂の、革命の最高頂への進 展の、すなわち、跪いた下院議長の下における王冠との慎まし い小競り合いから始まって、上院の廃止、国王チャーチルの処 刑、共和制宣言に至る一切の変化変転を反映したのである。
これと同じ素晴らしい変化は、フランスの三部会においても 、ルイ.フィリップの検閲下の議会においても、いや―最近の 最も顕著な例は、トロツキーにとって身近な―ロシアの第四ド ゥーマにおいても繰り返されたのではないか。この第四ドゥー マは、1909年、反革命の厳しい支配の下で選ばれながら、1917 年2月、突如として、革命の精神の蘇りを感じて、革命の出発 点になったのであった。
これはすべて、「民主主義制度の鈍重なメカニズム」が―ほ かならぬ生きた運動のうちに、その絶えざる圧力のうちに―強 力な修正装置を有していることを示すものである。制度が民主 的であればあるほど、大衆の政治生活の脈搏が生命と力とに溢 れていればいるほどに、―党の看板がいかに堅苦しくても、選 挙人名簿がいかに古くても―その作用は益々直接的になり、正 確になる。
確かに、すべての民主主義制度には、恐らく、あらゆる人間 の制度に見られるような限界や欠陥があろう。
ただ、レーニンやトロツキーが発見した薬、つまり、民主主 義一般の除去というのは、それが癒すという病気よりもっと悪 いものである。
なぜなら、それは、ただ一つ、社会制度に内在する一切の欠 陥を正し得る生命の泉そのものを、すなわち、広範な人民大衆 の積極的な、自由な、精力的な政治生活を潰してしまうものだ からであるから。(ローザ.ルクセンブルグ ロシア革命論)
クラーラ.ツェトキーンはローザ.ルクセンブルグが「ボル
シェビキによる制憲議会の解散に反対した」
と誤認したため、そのような主張が常になされる。
しかし、ローザが問題にしているのは、憲法制定議会の解散
の可否ではなく、トロツキーが普通選挙によって選ばれた人民
代表制度はすべて役立たないというところまで一般化したこと
に対してなのである。