レーニンは、ブルジョア国家は労働者階級の抑圧のための道 具であり、社会主義国家は、ブルジョアジーの抑圧のためのも のだ、と言っている。それでは、社会主義国家は、資本主義国 家の裏返しにすぎない、ということだ。
この単純な見方は、最も本質的な事を見落としている。
ブルジョア的階級支配は全人民の政治的訓練や教育を必要と しない、少なくとも、或る特定の狭い限度以上には必要としな い、ということである。
一方、プロレタリア独裁にとっては、全人民の政治的訓練や 政治的教育が、生命の源であり、空気なのであって、これがな ければ、プロレタリア独裁は存在することができないのだ。
「政府の権力をめぐって、公然かつ直接的な闘争が行なわれ てきたために、労働者大衆は短期間に豊富な政治的経験を積み 、一段一段と急速に発展している。」
こうして、トロツキーは、自分自身と自分の同志たちに反駁 している。この言葉が正しいからこそ、彼らは公衆の生活を抑 えることによって、政治的経験の泉を塞ぎ、高まって行く発展 の泉を塞いでしまったのである。
それとも、経験や発展は、ボルシェビキの権力を掌握するま では、必要だったが、頂点に達した後は余計なものになったと 、考えるべきなのか。(ロシアは社会主義を確信している レ ーニンの演説)
実際はその逆だ ! ボルシェビキが勇気と決断とを持って立 ち向かった巨大な課題こそが、大衆の極めて集中的な、政治的 訓練と経験の集積を求めたのである。
政府の支持者、或る政党のメンバーだけの自由というのは、 ―その数がどんなに多くても、―決して自由ではない。自由は 常に異なった考え方をするものの自由のことである。
それは、「正義」への狂信からではなく、政治的自由がわれ われを教え、われわれを正し、われわれを浄める力、それは全 てこの本質にかかっているからであって、もし、"自由"が特権 となれば、この力は失われるからである。
レーニン=トロツキーが意味する独裁理論の暗黙の前提は、 その為の完成した処方箋が、革命政党の鞄の中にあって、それ をただ全力をあげて実現させさえすればよいことだ、というこ とだ。
だが残念な事に―むしろ、仕合せなことに―そういうもので はない。経済的、社会的、法的な制度としての社会主義を実際 に実現することは、ただ、適用さえすればよいような完成した 処方箋を寄せ集めることではなく、全く未来の霧に包まれた事 柄なのである。
われわれが綱領として持っているものは、政策を進めるべき 方向を示す極わずかの主要な道標にすぎず、しかも主として否 定的な性格のものなのである。
社会主義経済への道を開くのに、先ず、最初に何を取り除い ておかなければならないか、その概略をわれわれは知っている だけで、反対に、経済、法律、一切の社会関係に社会主義の原 則を導き入れるのに必要な大小様々な無数の具体的な実際的な 政策については、どんな社会主義政党の綱領も、どんな社会主 義教科書も説明していない。
これは欠陥ではなく、ユートピア的社会主義に対する科学的 社会主義の長所である。
つまり、社会主義的社会制度は、経験という独自の学校から 、生きた歴史の生成から、機が熟して生まれてくる歴史的な産 物であるべきものであり、また、歴史的な産物であり得るもの である。
結局、有機的な自然の一部である歴史は、現実の社会的要求 と共にその要求を満たす手段を、課題と同時にその解決をもた らすという美しい習慣を持っているのである。この点では有機 的自然と全く同じである。
しかし、そうだとすると、社会主義はその本質からいって、 強制されたり、命令によって実施されたりするものではない事 は、明らかである。
社会主義は―私有財産などに対する―幾つかの強制手段を前 提としている。否定、破壊は命令することができるが、建設、 積極的なものの創造は命令ではできない。無数の問題があるの だ。
ただ経験だけが訂正し、新しい道を切り開くことができる。 ただ何の拘束もない、沸き立つような生活だけが、無数の新し い形態を、即興曲を考え出し、創造的な力を持ち、あらゆる誤 りを自ら正すことができる。
自由を制限された国家の公共生活は、民主主義の排除によっ て、あらゆる精神的な豊かさや進歩の生き生きとした源泉を塞 いでしまうため、息苦しく、惨めで、形式的で、不毛なものと なる。
そこでは問題は政治的なことだったが、経済的、社会的問題 でも同じことが言える。全人民大衆が、それに参加しなければ ならない。そうでなければ、社会主義は、ごくわずかの知識人 たちによって、上から命令され、強制されることになるであろ う。
無条件に開かれた公共的統制が必要だ。そうでなければ諸経 験の交流が、新政府の官僚たちの閉鎖的な内輪でしか行われな いことになろう。腐敗は、避けがたいものとなる。
社会主義の実践は、数世紀に亘るブルジョア的階級支配によ って堕落した大衆の全面的な精神的変革を求める。利己的な本 能の代わりに社会的本能を、怠惰の代わりに大衆の創意を、あ らゆる困難を乗り越える理想主義を、等々。
レーニンほど、この事をよく知り、徹底的に語り、執拗に繰 り返した者は他にいない。ただ、彼は完全に方法を間違えてい る。命令、工場監督官の独裁的権力、厳罰、恐怖の支配。これ らは何れも間に合わせの方法です。
こうした再生への唯一の道は、公的生活という学校そのもの がもたらす訓練、無制限の広範な民主主義、世論である。まさ に恐怖の支配こそ、士気を沮喪させ、退廃させるもとだ。
これらが全て失われたら、実際何が残るのか。レーニンとト ロツキーとは、普通選挙によって生まれる議会ではなく、ソヴ ェトが労働者大衆の唯一の真の代表機関であるとした。しかし 、全国の政治生活が抑圧されるのに応じて、ソヴェトの中の生 活も次第に萎縮していくに違いない。
普通選挙、無制限な出版、集会の自由、自由な論争がなけれ ば、あらゆる公的制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活とな り、そこには官僚制だけが唯一の活動的要素として残ることに なろう。何人といえども、この法則を免れない。
公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない 理想主義を持った数十人の党指導者が支配と統治を行い、現実 にはその中の十人位の傑出した首脳たちが指導して、労働者の エリートが指導者の演説に拍手を送り、提出された決議に満場 一致で賛成することになる。
要するに同族政治なのだ。―独裁には違いないが、しかしプ ロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、 つまり、全くブルジョア的な意味での独裁、ジャコバン支配の 意味での独裁なのである。
そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等々 といった公共生活の野蛮化をもたらさずにはおかないであろう 。これはいかなる党派も免れることのできない強力な客観的な 法則だ。(ロシア革命論 ローザ.ルクセンブルグ)
ローザの懸念や危惧は現実のものとなった。その原因は党組 織論の超中央集権主義が原因なのではないだろうか。