「ローザが普通選挙でドイツの社会主義の実現ができると考
え」と主張されるなら、彼女のどの演説、論文を指して言われ
ているのか例を示していただきたいものだ。
あくまでブルジョア議会への参加は野党としての立場に限る
べきだと主張していた、彼女の今までに私の読んだ論文から考
えられないからだ。
何回かに分けて、ローザの議会の位置付けにふれてみたいと
思う。
議会制度は、民主主義の発展や人類の進歩やその他の数々の 美しい夢が作り出した絶対的な存在などでは、決してない。む しろブルジョアジーの階級支配の特定の歴史的形態であり、そ して、これは、この支配の一つの別の側面でしかないが―封建 制度に対するブルジョアジーの闘争の形態なのだ。(略)
この普通選挙権もまた、ブルジョア的な立場から見れば、有 産階級の二つの大きなフラクションの間の闘いの武器としての み、歴史的意味があったのだ。普通選挙権は、ブルジョアジー にとって、「人民」を封建制度に歯向かわせるために必要だっ た。封建勢力にとっては、農村を産業都市に対して動員するた めに必要だった。しかし、この葛藤そのものが一つの妥協に終 わり、都市と農村という二つのひな型から第三のもの、つまり 、社会民主主義が出て来てしまうと、普通選挙権は、ブルジョ ア.封建的支配の立場からすれば、全くのナンセンスと化した 。
このようにして、ブルジョア議会主義は、その歴史的発展の 環を完結し、結局、最後の自己否定に辿り着いたのである。し かし、市民階級の運命の原因でもあり、同時に結果でもある社 会民主主義は、やがて国内にも議会の中にも、見事にその地位 を確立した。
議会制度が資本主義社会にとって、もはや無内容なものにな ってしまったとすれば、新興労働者階級にとって、これは、階 級闘争の最も強力な不可欠の手段の一つになっているのである 。
ブルジョア議会制度をブルジョアジーから、ブルジョアジー に対抗して守ることは、現在社会民主主義にとって、喫緊の政 治課題の一つである。
このような課題は、それ自身、一つの矛盾であるかも知れな い。しかし、ヘーゲルも、「矛盾は前進の力である」と述べて いる。ブルジョア議会制度に対する社会民主主義のこの矛盾に 満ちた課題から、当然、ブルジョア体制全体の最終的没落と社 会主義的プロレタリアートの権力奪取を促進するような方法で 、この崩れ落ちてゆくブルジョア民主主義の栄光の遺跡を守り 、支える、という義務が生じて来るのである。略
元来、この運動の本質、この運動の歴史的使命はブルジョア 社会の発展の政治的・社会的動因について、全体としても、ま た個別的な問題においても、プロレタリアートに明確な認識を 与えるところにあるはずだ。
特に問題を議会主義に限っても、その堕落腐敗の真の原因が 、如何にブルジョア社会の発展そのものの中から当然の論理と して生じてきたかを、出来る限り明確に認識する必要がある。
この認識が無ければ、社会民主主義の階級闘争の激しさを緩 和し、鈍磨する事によって、議会内のブルジョア.デモクラシ ーや反対派を人為的に蘇生させることができるかもしれない、 といった極めて有害なイリュージョンに対して、階級意識を持 った労働者層を守ることができなくなる。略
真実の道は、プロレタリア階級闘争の排除や放棄ではなく、 逆に議会の内外を問わず、この闘争を一段と強調し、強力に展 開することでなければならない。そのためには、プロレタリア ートの議会外の行動も、社会民主党議員の議会活動の一定の展 開も、共に必要である。略
ジョレス派の間違った仮定からは、到底考えられないことで はあるが、議会制度の基礎は、われわれがわれわれの戦術を議 会だけに向けず、プロレタリア大衆の直接行動に合わせるよう にすればするほど、より的確に擁護されうるものなのだ。われ われが、社会民主主義の本来の威力は決して国会内での議員た ちの活動によるものではなく、外の「街頭」の人民そのものの 中に潜んでいるのだ、ということを支配階級にはっきり意識さ せなければ、普通選挙権の危機は決して消滅するものではない 。さらにまた、われわれは、彼らに対して、社会民主党には、 必要とあれば、人民の政治的権利を擁護するために、人民を直 接動員する用意も能力もある、ということを知らせる必要があ ろう。略
しかし、この場合、最も重要な事は、われわれのアジテーシ ョン、われわれの機関誌活動を全面的に繰り広げることである 。それは労働者階級が、いよいよ自己の力、自己の行動に訴え るようになり、議会闘争などを政治活動の中軸だとは、みなさ なくなってきた、という意味において必要なのだ。略
しかし、同じこの特殊な状況から、社会民主党の国会議員フ ラクションにとって、単に野党の代表としてのみならず、同時 に革命的階級の代表として行動しなければならぬ、という困難 な課題が生じてくる。換言すれば、これは、単に支配階級の政 治を、現在の人民の利害の立場から、すなわち、現在の社会そ のものの立場から批判するだけではなく、この社会に対して、 最も進歩的なブルジョア政治でも到底達することのできぬ社会 主義社会の理想を一歩一歩、着実に対置させてゆく、という課 題である。
人民は、確かに、国会での討論の一つ一つを見て、もしも、 社会民主党の希望や提案が何時も充たされていたら、現在の国 家の中の状態が、どれほど理性的に、進歩的に、また経済的に も有利に作られるであろうかを、考えるようになってきている 。それだけに、ここでは、さらに一歩を進めて、社会主義を実 現するためには、この社会の秩序全体を転覆することが、如何 に必要であるかを、今までよりも一層繁雑に、人民に納得させ なければならない。略
社会民主主義の発展強化と共に、社会民主党が特に議会にお いて、日常生活の個々の問題に埋没して、単なる政治的野党の 立場を実践するのではなく、いよいよ精力的に、社会主義革命 の目的のためにプロレタリアートによる政治権力奪取を目指す 、という自分たちの「基本方針」を打ち出すことこそ、益々必 要となってくるのだ。(社会民主主義と議会主義 ローザ・ル クセンブルグ)
以上のブルジョア議会の性格に対する認識や基本方針の
どこに問題があるのだろうか。
ローザが最初革命に反対したのは、準備も能力も無いのに革
命を強行することは、必ず一揆主義に終わり、反革命を強化す
るにすぎないという認識から反対したにすぎない。
だいたい、ローザに対して、新日和見主義事件のときの、党
中央からの根拠のない批判を含めて、大衆闘争至上主義とかス
トライキ万能論という批判は、よく耳にしたが、普通選挙で社
会主義を実現できると主張したなどという批判は聞いたことが
ない。