あなたは孝橋正一氏をローザに肩入れしすぎると批判し、ローザが社会民主党から 離れた別の党を結成しなかった事を批判していますが、孝橋正一氏の「ローザ・ルクセン ブルグ」の以下の文をどう評価しますか。
ところで、ローザは初めから終わりまで、党の分裂に反対してきた。独立社会民主党の 独立に対してさえ、彼女は反対した。独立社会民主党との連携を断つことの決定も、 最悪の最後の手段に他ならなかった。
ローザのこのような方針と態度に対して、レーニンとその後継者達は、悪しきドイツ的 遺伝に引きずられ、小市民的.半メンシェビキ的な思想と循環のもとに社会民主党への 執着が断ち切れなかったのだと批判している。ところが、ローザの信念はそこには なかった。
「今日、これら多くの最良の分子たちを離党へ走らせる、じれったさと苦々しさが、 称賛もでき理解もできるとしても、逃走はやはり逃走なのだ。それは、ブルジョアジー に売り渡されて、シャイデマンやレギンの抑圧にもがき、締め付けられている大衆に 対する裏切りだ。
新しい分派を作るために、一分派に満足ができないものとして、小さな諸分派から 脱退することは簡単だ。が、その単純な脱退行為によって、プロレタリアート大衆に ブルジョアジーの重く凄まじいくびきの下からの解放の、勇ましい手本を示そうと いうのは、幼稚な誤りという他はない。
.....ドイツ社会民主党の崩壊は、労働者階級とブルジョアジーの一般的闘争 という大規模な歴史進行の一過程であり、個々の人物が茂みの陰に隠れて、 よりよい空気を吸うために、この戦場から逃げ出すことはできない。
この巨人的な戦いは最後まで闘い抜かれるべきだ。支配階級によって誤道され 裏切られた労働者階級の首根っこに加えられている、公認社会民主党と 公認自由労働組合の猛烈な締め上げに対する闘いは、全力をあげて、最後まで 闘い抜かれなければならない。
最も凄まじい戦いの中にあっても、われわれは最後まで大衆の側に立つべきだ。 今日、社会民主党と自ら名のる、この"組織的カラクタの山"を一掃することは、 少数者の、あるいは少数グループの個人的な仕事ではない。.....
ドイツにおけるここ数十年の階級闘争の明白な運命は、社会民主党と労働組合の お偉方たちに対する闘いであり、だからこそ、われわれの中の一人一人に次の 言葉が摘要されるのだ。"わたしはここに踏み止まる、他に為すべきことはない"。
労働者大衆の党を離れることへの彼女の反対は、改良主義への如何なる譲歩も 含んでいない。それゆえに、1917年1月7日、スパルタクス団の評議会では、彼女に よって示唆された、次の決議がなされたのであった。
「反対派は、社会民主主義のマントで包まれた帝国主義政策から大衆を防衛し、 党をプロレタリアートの反戦階級闘争のために、増援活動の分野として活用する為の、 増援活動の分野として活用するために、あらゆる段階で多数派の政策を妨げ、 闘う目的で党内に留まる」
それにもかかわらず、1919年11月一切の因縁を断ち切って、独立の党を 取り急ぎ準備したのは、社会民主党はもちろんのこと、最後の頼みの綱であった 独立社会民主党までもが、支配階級に妥協.追従して、革命を改良にすり替え、 労働者大衆を裏切る意思と行動がはっきりしてきたからであった。(ローザ・ルクセンブルグ 孝橋正一)
1914年8月4日に開かれたドイツ下院の本会議の模様を報じた「フォールヴェルツ」の 特別号がスイスに届いたとき、レーニンはためらうことなく、これはでっち上げだ。 その敵を欺き怯えさせるためにドイツ軍総指令によって捏造された文書だと断言した。 このようにして―レーニンの批判力をもってしても―なお、ドイツ社会民主主義への 信頼はつながれていたのだ。(トニー・クリフ ローザ・ルクセンブルグ)
しかし、ローザは、少なくとも1899年9月の党の指導機関では、ベルシュタインらに 対する改良主義批判を始めているのである。