社会改良か革命か、というこの論文の題名はしばし人の意表を衝くものだ。だいたい社会民主党は社会改良と対立して存在しうるものだろうか。また、社会民主党はその終局の目的である現存の体制の変革を意味する社会革命を、社会改良に対立させることができるのだろうか。そんなことは全くできない。
社会改良のための日常闘争、現在の体制の上での労働者大衆の状態改善や民主的諸制度のための日常闘争は、社会民主党にとって、かえってプロレタリアートの階級闘争を導き、政治権力の奪取と賃金制度の廃絶という終局の目標に向かって努力するための唯一の道をなす。社会改良のための闘争は社会民主党の手段であり、社会革命はその目的であるから、社会民主党にとって社会改良と社会革命は不可分の関係にあるのだ。
労働運動におけるこの二つの要因を対立させる見解を、われわれはまずエドワルド.ベルンシュタインの理論の中に見い出す。彼はそれを1897年から98年にかけての「ノイエ.ツァイト」に載せた「社会主義の諸問題」という一連の論文と、何よりも彼の著書である「社会主義の諸提」において明らかにしている。この理論の全ては実際のところ、社会民主党の終局の目的である社会変革を放棄し、社会改良を階級闘争の一つの手段から、その目的へと転じてしまおうという提案以外の何ものでもない。
ベルシュタインが「通例、終局の目的とされるものは、私にとっては無であり、運動が全てである」とするとき、彼自身その見解を最も的確に、また、最も鋭く定式化したのである。
しかしながら、社会主義の終局の目的は、社会民主党の運動をブルジョア民主主義やブルジョア急進主義から区別し、労働運動全体を資本主義制度の救済のための無意味なつぎはぎ細工から、この制度を廃止することを目的とした、この制度に対立する階級闘争へと変化させる唯一つの、決定的な要因である。
だからベルシュタインが主張する意味での「社会改良か革命か」という問題は社会民主党にとっては、とりもなおさず、存在か無か、と問われていることである。
ベルシュタイン及びその一派との論争においては、あれこれの闘争方法、あれこれの戦術が問題になっているのではなく、社会民主主義運動の全存在が問題になっているのであって、この点を党内の全ての人々はよく承知していなければならない。(略)
ベルシュタインによって理論的に定式化された党内の日和見主義的潮流は、党に入って来たプチブルジョア的分子の優位を確保しようという、そしてその精神で党の実践活動と目的を作り変えようという、無意識的な努力に他ならない。
社会改良と革命についての問題、終局の目的と運動についての問題は、他の側面から見れば、労働運動の性格がプチブルジョア的かプロレタリア的かという問題である。(略)
社会主義の科学的基礎付けは資本主義発展の三つの結果に基づくものである。つまりなによりもまず、資本主義の死滅を不可避的な結果たらしめる資本主義経済の増大する無政府制に、第二には未来の社会制度の実際的な萌芽を作り出す生産過程の社会化の進展に、第三には迫りくる革命の積極的要因をなす成長しつつある組織と階級意識に基づくものである。
これがベルシュタインの捨て去った科学的社会主義の所謂柱石の第一のものである。すなわち、資本主義の発展が全般的な経済的崩壊に向かった進んでいないと彼は主張するのだ。(略)
だがそうすると、そもそもわれわれは如何なる理由で、またどのようにして、われわれの努力の終局の目的に到達するのかという点が改めて大きな問題となる。科学的社会主義の立場からすると、社会主義革命の歴史的必然性はなによりもまず、資本主義を抜け道のない袋小路に追い込むその増大する無政府制の内にたち現れるものだ。
ベルシュタインと共に資本主義の発展はそれ自身の死滅の方向に向かっていないという事を容認したとすると、社会主義は客観的必然的存在たる事をやめる。(略)
こうしてわれわれが得たものは、一言で言うなら「純粋な認識」による社会主義の綱領の基礎付け、すなわち、簡単に言えば観念的基礎付けである。
一方、客観的な必然性、すなわち物質的社会的発展の過程による基礎付けは破産してしまったのである。修正主義理論は一つの岐路に立っている。依然として社会主義革命が資本主義制度の内部矛盾から起こるというのなら、その制度と共にその矛盾も発展しているということになり、何らかの形態による革命も或る時期には不可避な結果となり、こうして「適応手段」は用をなさず、崩壊理論が正しいことになる。 そうではなくて「適応手段」は実際に資本主義の崩壊を防ぐことができ、従って資本主義を生存可能とし、その矛盾を廃止することができるというなら、社会主義は歴史的必然であることをやめ、人々の欲する全てのものではあっても、社会の物質的発展の一つの結果ではないということになる。
このジレンマは、次のような事になる。修正主義が資本主義の発展過程に関しての正しい見解だとすると、社会の社会主義的変革は一つの空想になってしまう。逆に社会主義が決して空想でないとすると、「適応手段」についての理論は、信頼のおけないものになってくる。このジレンマ。それが問題だ。(社会改良か革命か ローザ・ルクセンブルグ)
科学的社会主義の立場に立つかどうかという問題は、この論文の「社会主義の科学的基礎づけは資本主義発展の三つの結果にもとづくものである。」という見解を受け入れるかどうか、また、この見解が、現在情勢の中でも、適用できるかという問題だと思います。
この論文のどこから、普通選挙で社会主義を実現できるなどいう、見解が出てくるのだろうか。