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「現状分析と対抗戦略」討論欄

ローザ・ルクセンブルグの民主主義と議会の位置付け(5)

2007/9/27 風来坊 50代 自営業

 階級社会が発生し、階級闘争がその社会の歴史の本質的内容 をなすようになって以来、中でも、政治権力の奪取は常に新興 の階級の目的であり、またそれはそれぞれのの歴史的時期の画 期を成すものだった。
 われわれはこのことを、古代ローマの農民階級と貨幣資本家 および貴族との間の長期間にわたる闘争のうちに、また中世都 市の貴族階級と司教との、また手工業階級と都市貴族との間の 闘争の中に、近代ブルジョアジーと封建制度との間の闘争の中 に見出す。
 法律による改良と革命とは、それゆえ、歴史の調理台の上で 、熱い小型ソーセージにしようか冷えた小型ソーセージにしよ うかと、意のままに選択できるような、歴史を進歩させるそれ ぞれ異なった方法なのではなく、互いに条件となり、補足し合 いながら、しかも同時に、南極と北極、ブルジョアジーとプロ レタリアートといったように互いに排斥し合う、階級社会が発 展していく上での異なった要因なのだ。
 しかも、その時々の法律制度は、全く、革命の所産である。 革命が階級の歴史の上での政治的な創造的行為であるとすると 、立法は社会の政治上の植物的生長である。法律による改良の 仕事は、それ自体の中に、革命から独立した原動力を持ってい るものではない。
 それは、それぞれの歴史的時期において、最近の革命によっ て与えられた足取りがその影響力を今なお持続し続けている限 り、そのような領域でのみ動いていく、或いはもっと具体的に いうと、最近の革命が生み出した社会形態の範囲内においての み動いていくのだ。まさに問題の核心はこれだ。
 法律による改良の仕事は長期間に亘って行われる革命であり 、革命は短縮された改良であると想像することは、全くの誤り であり、完全に非歴史的である。社会革命と法律による改良と は継続期間によって区別される要因ではなく、その本質によっ て区別される要因である。
 政治的な暴力を行使して行われた歴史上の諸変革の秘密の全 ては、まさしく単なる量的な変化が新たな質へと急速に変化し ていくということと、具体的にいうと、一つの歴史時代が他の 歴史時代へと、または一つの社会構成体が他の社会構成体へと 移行するということになる。
 そこで、政治権力の奪取や社会変革の代わりに、またそれら に反対して、法律による改良の方法に賛成する人は、実際には 同じ目的に向かっての、より温和で確実なより緩やかな道を採 っているのではなく、他の目的を、つまり、新たな社会構成体 を打ち建てる代わりに、単に旧い社会構成体の内部での取るに 足りない改革の方を選択しているのだ。
 こうして、修正主義の政治的見解については、その経済的理 論についてと同様の結論に到達する。つまり、結局それは、社 会主義制度の実現を目指すものではなく、単に資本主義制度の 改良を目指しており、賃金制度の廃止ではなく搾取の程度の大 小を、要するに資本主義制度の弊害の除去を目指し、資本主義 そのものの廃止を目指していない、という結論に行きつく。( 略)
 ブルジョア社会をそれ以前の階級社会―古代社会や中世社会 ―から区別するものはなにか。それは、まさに階級支配が、現 在、「成功裡に獲得された諸権利」に立脚しているのではなく 、現実の経済的諸関係に立脚しているという事実、また賃金制 度は法的関係ではなく純粋に経済的関係であるという事実によ って区別される。
 現在の全ての法律制度の中には、現代の階級支配の法律的形 式を見出す事はできない。もしこのようなものの痕跡でもある とすれば、それは辛うじて僕婢条例のような、封建的諸関係の 遺制である。
 従って、賃金奴隷制が法律の上に全く表現されていないとす ると、どうやってこの賃金奴隷制を「法律による方法」を通じ て次第に廃止していくことができるのか。(略)
 プロレタリアは資本の頚木に繋がれるのに、如何なる法律に よって強制されている訳でもないのであり、貧困によって、生 産手段を所有していない事によって繋がれているのだ。
 プロレタリアは生産手段を法律によって奪われているのでは なく、経済的発展によって奪われたのであるから、ブルジョア 社会の限界内では、どのような法律によってもプロレタリアに 生産手段を与えることはできない。
 さらに、賃金関係に内在する搾取も法律に基づいたものでは ない。というのも、賃金の額は法律に規定に基づいて決定され るものではなく、経済的な要因によって決定されるものなのだ から。
 そして搾取という事実そのものが、法律の規定に基づいてい るのではなく、労働力が商品として、中でも価値という、しか も労働者が自己の生活資料のために費やす以上の価値を生み出 すという、好都合な特性を持った商品として現れるという経済 的事実に基づいている。
 要するに資本主義的な階級支配の根本的関係は、ブルジョア 的な法律に起因するものではなく、このような法律の形態を採 っているものではないから、ブルジョア的な基礎の上での法律 による改良などで変革することはできないのだ。(略)
 政治的諸関係においては、極めて好都合な条件がある限りに 措いてだが、民主主義の発展は全ての人民層の政治活動への参 加、それゆえある程度まで「民衆国家」へと結果する。
 しかしながらこれは、階級対立や階級支配が止揚されずむし ろ、それが発展せしめられ、あからさまな形をとるような領域 である、ブルジョア議会制度という形態を採ってである。
 このようにして資本主義の発展全体は矛盾の中で運動してい るのだから、社会主義という内部の核とは相容れない資本主義 という外皮から、この社会主義の核を白日の下に取り出して来 るために、またこれを拠点として、プロレタリアートによる政 治権力の奪取と資本主義制度の廃止に訴えていかねばならない のである。(略)
 民主主義がブルジョアジーにとって半ば余計なものに、半ば 邪魔になると、その代わりに、労働者階級にとってそれは必要 不可欠なものとなる。
 民主主義がまずもって必要であるというのは、それが、プロ レタリアートがブルジョア社会を変革するに際しての手がかり として足場として役に立つ政治形式(自治行政や選挙権など)を 作り出すからである。
 しかし、第二に民主主義が不可欠ものであるというのは、そ の中でのみ、つまり、民主主義のための闘争や民主的諸権利の 行使の中でのみ、プロレタリアートは自己の階級的利害と歴史 的使命を自覚することができるからである。
 要するに民主主義はそれがプロレタリアートによる政治権力 の奪取を不必要にするからではなく、逆に権力奪取を不可避に すると同時に、とりわけ可能にするゆえに不可欠なものなのだ 。(社会改良か革命か ローザ・ルクセンブルグ)

この論文で「ローザが普通選挙でドイツの社会主義が実現で きる」と主張したという見解に対する反論としては十分だと思 いますが。
 この論文は、まさに、議会主義.改良主義に対する批判だと 思います。
 ローザがドイツに移住したのは、1897年、この「社会改良か 革命か」は1899年。移住して僅か2年後、「1914年8月4日」よ り、15年も以前から議会主義.改良主義に対する、全面的で間 断の無い闘いは既に開始されていたのである。