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「現状分析と対抗戦略」討論欄

鳩さんへ

2007/10/2 風来坊 50代 自営業

あなたは、「アメリカの参戦でドイツが決定的に敗北にいた る時点でドイツ兵や労働者階級は革命を求めて立ち上がります 。キール軍港では水兵たちが反乱を起こし、彼らを支持する全 土の労働者が決起し各都市を支配します。 そしてベルリンには20万の労働者が革命を求めて兵器を持っ て結集したのです。しかし、ローザは革命情勢ではないと判断 して関わらなかったのです。そして議会にスパルタクス派の代 議士を送り込むことによってドイツ革命が果たせると自派の大 会で演説したが支持を得られなかったのです」とあなたは主張 していますが、この時点でドイツ革命の勝利は期待できたでき たのだろうか。
 ベルリンにおける最近の一週間、いわゆる「スパルタクス. ウィーク」とは何だったのか?それは何をもたらしたのか?何を われわれに教えているのか?まだ闘争の渦中にあるとはいえ、 反革命の勝ちどきがまだ騒がしく響いているとはいえ、革命的 プロレタリアは、これまでの決算をはっきりと付けておかなけ ればならない。
 継起した諸事件とそれらの結果とを、大きな歴史の尺度に当 ててみねばならない。革命は無駄にしてよい時間を持っていな い。革命はその偉大な目標に向かって、進みに進む―まだ土を 被せられていない墓を乗り越え、「勝利」とか「敗北」とかを 乗り越えて。革命の進路を、革命の道程を意識的に追求するこ とは、インターナショナルな社会主義の為に闘う戦闘者の第一 の任務である。
 今回の対決において、革命的プロレタリアートの決定的勝利 は期待されえたろうか?エーベルト=シャイデマンを倒して社会 主義独裁を打ち立てることは、期待されえたろうか?否、問題 を左右するモメントの全てを十分に考慮にいれるなら、否と言 う他はない。
 この時点における革命運動の弱点―兵士大衆が政治的に未成 熟で、未だに士官どもに引き回され、人民に敵対してみすみす 反革命の道具となっていること―を考えてみれば、それだけで 既に今回の衝突では革命の永続的な勝利は不可能だったことが 明らかである。ところで軍の未成熟というこの事態は、「ドイ ツ」革命の一般的未成熟示す場合の一つの症候にすぎない。
 兵士大衆の大多数は低地農業地帯の出身だが、その地帯の殆 どは依然として革命の未開拓地に止まっている。今に至るまで ベルリンは、全国から隔絶していると言ってよい。確かに地方 にも幾つかの革命的なセンターが―ラインラントや海岸地域や ブラウンシュヴァイクやザクセンやヴュッテンブルクなどが― あって、全身的にベルリン.プロレタリアに味方しているけれ ども、差し当たってはまだ前進の足並みはぴたりと揃ってはい ないし、直接的な連帯行動も十分には見られない。
 それが十分に見られれば、ベルリン労働者の進撃行動も、ま た戦闘態勢も、遥かに有効性を持ちうる筈だ。さらに―革命の 政治面の不備と深いところで関連していることだが―経済闘争 も、つまり革命的な階級闘争に絶えざる焔を供給する源である 経済闘争も、未熟であり、今ようやく第一段階を経過しつつあ る。
 どこから見ても、この時点ではまだ決定的.永続的な勝利は 期待され得ないものだったことが、明らかに帰結される。では 、この一週間の闘争は「誤謬」だったのか ?
 そうだ、もし仮に計画的な「突撃」を行い、いわゆる「暴動 」を起こしたのが、われわれだったとすれば ! しかし、あの 闘争の一週間は、何から始まったろうか?これまでの全ての事 件のときと同様に、12月6日や12月24日と同様に、政府側の乱 暴な挑発から始まったのだ !
 以前にはショセー.シュトラーセで素手のデモ隊に対する虐 殺行動から始まったように、また水兵たちに対する殺戮行為か ら始まったように、今度はベルリン警視庁に対する陰謀から始 まった。それがそれ以後のあらゆる事件の発端だった。
 全く、革命は思いのままに行えぬ。見通しのよく効く戦場で 、「戦略家」たちが手際よくまとめ上げたプランの通りに、行 えるようなものではないのだ。革命の敵もまたイニシアチブを 持っている。どころか、機先を制して来るのは大抵は敵側であ って、革命側ではない。
 エーベルト=シャイデマンの側からの厚かましい挑発を眼の 前に突きつけられて、革命的労働者たちは、武器を取ることを 強いられた。そうなのだ。直ちに全力を挙げて敵の攻撃を撃退 することは、革命の名誉の問題だった。
 進出の機を覗っている反革命の鼻っ柱を挫き、プロレタリア ートの革命的な戦列を固め、インターナショナルでのドイツ革 命の倫理的な信用を守るためには、他に道はなかった。
 即刻の反撃は、ベルリンの大衆の間から自発的に非常に強力 に捲き起こった。このことを見ても、倫理的な勝利は始めから 、明らかに「街頭派」の手にあった。
 ところで、革命には内的な運動法則があって、一旦足を前に 踏み出したら、何もせずに受け身の態勢で立ち止まってはいら れない。最良の防御は強力な打撃、というのはあらゆる闘争の 基本原則だが、この原則はもちろん革命の歩みの一歩一歩を規 制している。
 ベルリンのプロレタリアートがアイヒホルンの再任のみでは 満足せず、自発的に、警視庁以外の幾つかの反革命の要衝―ブ ルジョア新聞社や半官的通信社や「フォアヴェルツ」―の占領 にまで進んだのは、自明のことであり、プロレタリアートの健 全な本能と新鮮な精神の証である。大衆がこれらの処置に出た のは、反革命が一敗地にまみれて引っ込む訳はない必ず全面的 な対決を目論んでくる、と本能的に認識したからなのだ。
 ここに見られるのは、歴史的な革命の法則の一つである。( 略)
 革命の基本的課題が、一度はっきりと提示されれば―この段 階での基本的課題は、社会主義の勝利にとっての第一の障害と なるエーベルト=シャイデマン政権の打倒だ―それは現実的な 現実そのものとなって繰り返し現れて来る。闘争の個々のエピ ソードの全てが、まるで自然法則の確実さで、基本的課題を完 全に、狂いなく展開して行く。
 たとえ革命がその課題を解決するにはまだ準備不足であろう とも、まだ十分に熟していなかろうとも。「エーベルト=シャ イデマンを倒せ!」―このスローガンが、革命が激動期を迎え る度毎に、必然的に出現する。このスローガンは、局部的な抗 争の全てに当てはまる唯一の十分な定式であって、だからこそ 自ずから、人が欲しようと欲しまいと、それ自身の内部の客観 的な論理によって、闘争のあらゆるエピソードを推し進め、尖 鋭化する。
 ここに現れる矛盾―つまり課題の尖鋭化と、課題解決のため の諸前提の不備との間の矛盾―から、革命の発展の初期の段階 に措いては、個々の革命闘争が形式的には敗北をもって終わる 、ということは起こる。
 しかし、革命は、一連の「敗北」によってのみ、その究極の 勝利が準備されうるものなのだ。この点で革命は「戦争」とは 違う。これもまた革命に特有な運動法則だ。(略)
 革命は今に至るまで、敗北のみをわれわれにもたらしたけれ ども、この場合不可避的な敗北の集積こそが、未来究極の勝利 を益々確実なものとしているのだ。
 無論、それには一つの条件が満たされねばならない。つまり 、それぞれの敗北がどんな事情によってもたらされたのか、問 わねばならない。敗北は進みに進む大衆の戦闘的エネルギーが 、歴史的前提の未成熟という壁に突き当たり、撥ね返されてし まった結果であったのか ? それとも、そうではなくて、革命 的行動そのものの中途半端さ、踏ん切りの悪さ、内部的な弱さ のために、行動が自ずから無力化してしまった結果であったか ?( 略)
 今度の、いわゆる「スパルタクス・ウィーク」の敗北は、ど うだろうか ? それは嵐のような革命的エネルギーを持ちなが ら、状況が十分に熟していないために、敗北したのだろうか ? それとも、そうではなくて、もっぱら行動の弱体性のため、中 途半端さのために敗北したのだろうか ?
 その両方だ。この激動期は分裂的性格を示している。つまり 、ベルリンの大衆の強力な、断固とした、攻勢に出た行動と、 ベルリンの指導部の踏ん切りの悪さ、臆病さ、中途半端さとの 間の矛盾が、今回のエピソードの特徴である。
 指導部は失格した。しかし、指導部は大衆によって、大衆の 中から新しく作り出され得るし、作り出さねばならない。決定 的なものは大衆である。大衆こそが、その上に革命の究極の勝 利が築かれる岩盤なのだ。大衆は既に先頭に立った。だからこ そ、この「敗北」も、インターナショナルな社会主義の誇りで あり力である数々の歴史的な敗北の、一つに数えることができ る。だからこの「敗北」からは、未来の勝利が花と開くだろう 。
 「ベルリンの秩序は維持されている !」ほざくがよい、鈍感 な権力の手先どもよ!お前たちの「秩序」は砂の上の楼閣だ。 明日にも革命は「物の具の音を轟かせて再び立ち上がり」、ト ランペットを吹き鳴らして、お前たちの驚愕を尻目に、こう告 げるだろう―
 私はかつて在り、今在り、今後も在る(ベルリンの秩序は維 持されている ローザ・ルクセンブルグ)

 ここで、問題だと思うのは、ソヴェト政権がラデックをドイ ツに派遣したことである。ラデックとローザとの長年の確執を 考えるとこの人選は極めて問題なのではないだろうか。
 言い換えるとレーニン=ボルシェビキ=コミンテルンは、闘争 や革命が成功させることよりも、自分たちの側のイニシアティ ブの確保を優先していたのではないかと思えてならない。
 そうであるならば、共産党中央の独善主義・セクト主義も、 その延長線上のものなのではないのだろうか。