>>「しかしルクセンブルグは革命情勢ではないと判断し関わ らなかったのです。そして議会にスパルタクス派の代議士を送 り込むことによってドイツ革命が果たせると自派の大会で演説 したが支持が得られなかったのです。」と主張していますが、 まずローザが国民議会に参加するように主張したのは、いつだ ったのかということです。
この自派の大会というのは、12月末のスパルタクスの独自の
全国会議を指すものと思われます。
まず、11月10日の労兵会議の代議員の大多数は社会民主党を
支持していた。11月9日に共和制が実現し、11月11日に和平が
得られると今まで革命を推進してきた労働者大衆はは足踏みを
始め右傾化していった。
彼らはブルジョア民主主義の枠内における改良、つまり、戒
厳令の撤廃、言論・集会・結社の自由、比例代表制における普
通選挙、政治犯に対する特赦、社会保険法の復活、八時間労働
制、労働協約、団体交渉などで満足してしまっていた。
さらに、12月16日から開かれた第一回全ドイツ労兵会議(ソ
ヴェト)ですが、
革命の自己否定と反革命の攻撃
国民議会の選挙が1月に行われるという情報を耳にしたスパ ルタクス団は、それに先手を打って、ベルリンに全国評議会大 会を召集することに決定した。12月16日から20日まで、予定ど おり第一回全国労働者.兵士評議会大会が開かれた。スパルタ クス団がイニシアチーブをとって開かれた評議会であり、革命 の方向が決定される重大な集会であった。
「ローテ・ファーネ」の紙上で、ローザはエーベルト=シャ イデマン=ハーゼ内閣の退陣、政府白衛軍の武装解除と赤衛軍 の創設、革命を流産させる国民議会の拒否等を要求した。これ に応えるかのように、ベルリンに史上最大のデモが行われた。
しかし、総会が始まってみると、事態は必ずしも、革命の側 にとって有利に展開しそうになかった。多数の支持を得て司会 の役をつとめたシャイデマンは、この会議を来るべき国民議会 の母体にする方向に導いて行った。
また何よりも悲しいことは、革命の基柱であり推進力である はずの労働者大衆が、圧倒的に革命の名のもとに反革命を促進 する社会民主党を支持していることが明らかとなった。
そしてリープクネヒトとローザを、会議に出席させようとい う左派の動議も圧倒的多数で否決された。こうして19日には、334 票対98票の大差で、将来のドイツの統治形態は、ソビエト制に よらずに、普通選挙による憲法制定会議にもとづいておこなう 決議が採択された。
そして国民議会の選挙は1919年1月19日と決定された。
労働者・兵士評議会自身が、自己自身による独自の政治形態 ―ソビエトとプロレタリア独裁を否定したのである。(ローザ ・ルクセンブルグ 孝橋正一)
ドイツ共産党=スパルタクス団の誕生
この段階まできて、スパルタクス団のなすべき課題は、来る べき国民議会選挙に参加すべきかどうかということと、社会民 主党、独立社会民主党の反革命勢力に対決する新党の設立とで あった。そのために年末にスパルタクス団独自の全国会議を開 いた。
ローザは先の労働者.兵士評議会の決定による新しい情勢に もとづいて国民会議への参加を主張していた。それは反革命の 城塞の中に入って、それを粉砕するために必要な行動であった 。(注ここに「国民議会選挙」の挿入があるが、改めて引用し 直したいので、省略する 風来坊)
スパルタクス団の他の指導者や若くはやる運動家たちには、 革命の勝利がすぐ目の前にあり、ローザのような回り道をする 必要がないと判断する者が多数を占め、この会議で62票対23票 をもって、ローザの提案を否決した(略)
ローザは初めから終わりまで大衆とともにあった。そして大 衆の自発的な行動性に期待をかけた。大衆の上に君臨する党の 指導性を拒否した。したがって、大衆が意識し、自覚していな いのに、指導者が無理矢理に行動に引き込むこと、労働者大衆 の意思に反して革命を強行することは、かならず一揆主義に転 落し、犯罪的に誤謬を犯すものに他ならず、それは結局のとこ ろ、反革命勢力の強化をもたらすだけであることを洞察してい た。(ローザ・ルクセンブルグ 孝橋正一)
この間の出来事を整理して見てみよう。
12月17日 ローザは「国民議会か評議会政府か」国民議会拒否
を訴えた。
12月16日から20日まで労働者.兵士評議会
12月19日 ソビエト制の否定と1月19日の国民議会選挙を労働者
兵士評議会で決定
12月23日 ローザは「国民議会のための選挙」で国民議会選挙
への参加を訴えた。
12月末スパルタクス団の全国会議で、ローザの提案が否決
12月30日KPD(スパルタクス・ブンド=ドイツ共産党創立大会)
ローザが12月17日に国民議会拒否を訴え、12月23日に国民議
会参加を訴えたのは、労働者.兵士評議会の決定などによる情
勢や力関係の変化です。ローザがプロレタリア階級の意思に反
して第二革命を強行することは、必ず一揆主義に終わり、反革
命勢力を強化するに過ぎないと判断し、「現在権力を握ろうと
することは、犯罪的な誤謬だ。ドイツの労働者階級は、まだ政
権をとる用意が出来ていない」「大衆がドイツを背負うだけの
準備も、能力もないのに、エーベルト政府を転覆して、これを
別のものと取り替えることは、無駄であり、子供じみている」
と主張したのは、当然ではないだろうか。
また、ローザが国民議会への参加を訴えたのは、「代議士を
送り込むことによってドイツ革命を果たす」ためではありませ
ん。
現在、われわれは、革命の只中に立っているのだ。そして、 国民議会は、革命的プロレタリアートを倒すために築かれる反 革命の砦である。従って、われわれとしては、この砦を炎上さ せ、粉砕しなければならないのだ。大衆をこの国民議会に反対 するために動員し、もっとも尖鋭な闘争を呼びかける、ただそ のためにのみ、この選挙を利用しなければならない。ただその ためのみ、国民議会の舞台を利用しつくさねばならない。
ブルジョアジーやその鞄持ちと一緒になって法律を作るため ではない。ブルジョアジーやその鞄持ちを殿堂から追い出し、 反革命の砦を奪取して、その上に高々と革命の旗を掲げるため に―そのためにのみ、選挙に参加することが必要なのである。
それには、国民議会の中での過半数が要るのではないか、と いう意見がある。こんな事を信じるのは、議会主義痴呆症に尻 尾を振り、革命と社会主義を議会内での多数決で生み出そうと する者だけである。国民議会そのものの運命に関しても、決定 を下すのは、国民議会の多数決ではなく、工場や街頭を満たす プロレタリア大衆なのだ。略
かれら大衆こそ、国民議会の運命と成り行きを決定すること ができるのだ。国民議会の中から何が生まれるか、また、国民 議会はどうなるか、この問題はじつに、かれら大衆自体の、革 命的行動力にかかっているのである。
重点は、ただ議会外での行動に潜んでいる。それのみが、反 革命議会の門を激しく揺さぶることができるのだ。しかし、既 に選挙そのものも革命に役立たせねばならない。そして議会内 部の大衆の真の革命的代表者の行動も、革命の事業に役立つよ うにしなければならない。
いわゆる、神聖なる議会のありとあらゆる権謀術数を容赦な く大声で弾劾し、議会内の反革命的行動を一つ一つ、大衆の面 前で暴き出し、大衆自身が 決定を下し、大衆自身が直接介入するように呼びかけること、 これが国民議会への参加に際してのわれわれの課題である。
エーベルト政府を先頭に押し立てたブルジョア諸先生は、国 民議会を使って、革命を封じ込め、麻痺させ、革命的決定を回 避しようとしている。このかれらの計画に逆らうために、階級 闘争を国民議会そのものの中に突入させようではないか。階級 闘争は、国民議会の選挙であれ審議であれ、全てを革命的決定 の促進のために、利用し尽くさねばならないのである。
われわれは、厳しい時期を迎えようとしている。失業や経済 上の諸困難が、次の数週間、数ヶ月、絶え間なく増大するであ ろう。革命の未来を孕んだ、資本と労働の間の全面的対決は、 最終的結末に措いては、資本主義階級支配の崩壊と社会主義の 勝利以外の如何なる決定をももたらさないであろうが、既に、 地方における大衆の革命的気分と行動を日増しに高めてきてい る。
国民議会は、エーベルト一派の危図によれば、こうした革命 の盛り上がりに対して防波堤を礎こうとするものである。従っ て、かれらの防波堤を洗い流してしまうために、この革命の高 波を国民議会の中に引き入れ縦横に国民議会をかき回すことが 、必要なのだ。
反革命議会の舞台である選挙を、われわれは、革命的大衆の 訓練、結集、動員のための手段とし、プロレタリア独裁樹立に 至る闘争の一段階とするものである。
国民議会の正面玄関に殺到する大衆、議会の中では、革命的 プロレタリアート堅い拳が突き出され、旗を振る。その旗には 、全ての権力を労兵評議会へ !という炎の文字が輝いている。 これが国民議会へのわれわれの参加の姿なのだ。
プロレタリアよ ! 同志たちよ ! 行動に移ろう。一刻も猶予 はできぬ。今日は、まだ、支配階級は、評議会大会におけるエ ーベルト政府の勝利に酔っている。そして、かれらの揺ぎ無い 階級支配が戻って来る日として、1月19日を待ち焦れている。 後からほえ面をかかぬがいい。3月15日、イーデンの日はまだ 過ぎていない。1月のその日も過ぎていない。未来は、プロレ タリア革命のものだ。一切をプロレタリア革命のために役立て ねばならない―国民議会の選挙をも。(国民議会のための選挙 ローザ・ルクセンブルグ)
12月23日の人民海兵団事件にしても、給与支払い問題をめぐ って、ベルリンで蜂起し、エーベルとヴェルスとを監禁した。 この時エーベルトは大本営との間に設けられていた秘密電話で グロェーネル将軍にに救援を要請した。ユンケル軍閥はこれを 口実に正規軍の大部隊を投入してエーベルトを救出した。結果 的にはユンケル軍閥と社会民主党との結び付きを強化しただけ に終わった。
レーニンでさえ、
「1914年8月4日に開かれたドイツ下院の本会議の模様を報じた 「フォールヴェルツ」の特別号がスイスに届いたとき、レーニ ンはためらうことなく、これはでっち上げだ。その敵をあざむ きおびえさせるためにドイツ軍総指令部によって捏造された文 書だ、と断言した。このようにして―レーニンの批判力をもっ てしても―なお、ドイツ社会民主主義への信頼はつながれてい たのだ」(「わが生涯」)とトロツキーは書いている。(ローザ ・ルクセンブルグ トニー・クリフ)」
ドイツ社会民主主義に対する信頼につながれていたのだから、
ドイツの一般労働者大衆が、ドイツ社会民主党に幻想を持って
いたとしても、不思議はない。しかし、労働者大衆が社会民主
党を支持している限り、エーベルト政権の打倒は不可能だった
のではないだろうか。そうである以上、この時必要だったのは
、労働者大衆の意思に反して、第二革命に進むことではなく、
労働者大衆に革命を背負うための準備と能力を作り上げること
だったのではないだろうか。
第一回全ドイツ労兵評議会で、人民海兵師団のドレンバッハ
が、将校の武装解除、階級章の撤廃、兵士ソヴェトによる軍の
統帥を主張した。これに対し、ハンブルクの社会民主党員ワル
テル.ランプルもこれに同調し、人民軍の創設を要求するラン
プルの動議は圧倒的多数で成立した。つまり、社会民主党の一
般党員は、ユンケル軍閥の温存に反対していたのではないか。
しかし、ランプルの決議は骨抜きにされ、結局この問題を巡っ
て独立社会民主党の三人民委員が辞職して、社会愛国主義者の
ノスケが陸相に就任することになる。
この結果は、労兵評議会がどのような決議をしても、労働者
大衆が、エーベルト=シャイデマンを支持している限り、結局
骨抜きにされてしまうことを意味しているのではないだろうか
。