投稿する トップページ ヘルプ

「現状分析と対抗戦略」討論欄

2009年都議選における共産党の惨敗と「建設的野党」の中身

2009/7/24 原 仙作

1、はじめに
 都議選の惨敗を受けて、日本共産党(jcp)の委員長・志位は16日、「解散・総選挙にのぞむ日本共産党の立場」(以下「声明」と略称する)と題する幹部会声明を発表している。ついこの6月には8中総決定という総選挙方針を出しているのだから、志位らの慌てぶりが目に見えるようである。その後も首班指名選挙では民主党候補に投票する選択肢もありうるとか、国民が作り出した政権交代の流れに乗るべく急ピッチでその発言を変えている。
 しかし、煎じ詰めれば、これまでとの違いはふたつあって、ひとつは民主党への丸ごと批判から「是々非々」(志位)への転換である。「建設的野党」がそのキャッチ・フレーズである。もうひとつは自公政権の「退場」をはじめて要求したことである。すなわち、「声明」はこれまでの政治方針を転換したことになる。以下、この転換の内実を検討することにしよう。

2、都議選惨敗が政治方針転換の原因
 この転換は誰もが推測するように、都議選における惨敗(13から8議席へと減少)による政治方針の転換なのである。しかし、いつものように指導部の責任回避のバイアスがかかっており、恒例のごとく、志位は別の原因を用意している。記者会見冒頭に、「声明」は「8中総の決定を土台にしながら、情勢の進展にそくして発展させ」(「赤旗」7月17日付)たものだと言っている。では、どのような情勢の進展なのか? 「新しい政治局面が生まれてきた」(記者会見の一問一答、「同7月17日)。民主党中心の政権が「生まれる可能性が大きくなった」(同)と言うのである。
 志位の言葉を信用すれば、これまた志位らの政治情勢認識のテンポがずいぶんと遅いことに呆れるほかないということになる。2年前の参議院選の結果からの総選挙シミュレーションは大手新聞や週刊誌が何度も行っており、福田政権さえ総選挙勝利の展望を見いだせぬ故に麻生へバトン・タッチしたことなどを振り返れば、志位の理由づけは”うそ”であることは明白である。
 おのれの政治図式の観念に支配されていかに盲目になっていようとも、酔いどれ財務大臣が世間を呆れさせ麻生政権支持率が10%台に突入した2月の段階では、政権交代の現実的な可能性に気が付かないほうがおかしい。だから「新しい政治局面が生まれてきた」とは、都議選惨敗後の”後づけ”の理屈なのである。この”うそ”は、投稿の後の方でさらに明らかになる。

3、これまでの政治方針はどうであったか?  実情は、そうした可能性を見据えたうえで民主党政権誕生をつぶすべく行動してきたのが志位らjcp執行部なのであって、小沢の献金問題に”渡りに舟”とばかりに無分別に飛びついたのも、検察による国策捜査の疑惑を一蹴したのも彼らの政治方針からすれば当然のことであった。志位が「8中総の決定を土台に」と言うように、この間の政治方針、総選挙方針は6月初旬の8中総決定なのであって、そこには次のように書かれていた。

「『(自民と民主-引用者注)両党の共通部分こそ問題だ』、ここにこそ危険がある、『二大政党』の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党を伸ばすことだということを・・・おおいに語っていきたいと思います。」(「赤旗」6月7日付)

 というわけで、志位らにとっては「両党の共通部分こそ問題」であり、その両党が競い合って日本の政治を「暗黒政治」(!)へと導いているというのが政治情勢の基本認識なのである。志位らは政治情勢をかくも単純に白黒二元論に塗り固めていた。この認識が都議選惨敗後の志位発言の変化のほどを測る基準となる。
 この認識からすれば民主党を丸ごと批判してその台頭を阻止しなければならず、民主党を政権へと押し上げようとする政権交代派の国民は誤っており、マスコミに踊らされているので批判と説得でjcpの側に”善導”しなければならないということになるのである。こうした認識で志位らはこれまでの国政選挙を戦ってきたのであり、都議選も例外ではなかった。

4、志位らに衝撃を与えた都議選の惨敗
 しかし、志位らの政治情勢認識や民主党批判は都議選ではまったく受け入れられなかった。「声明」はそれゆえの転換なのである。この転換が都議選後わずか4日で行われたということは、都議選の惨敗が不破や志位ら幹部に大きな衝撃であったことを物語っている。jcpの最強の地盤の一角・首都東京の選挙であるし、麻生内閣のていたらくや与党への強烈な逆風、小沢・鳩山の献金問題もあり、jcpには追い風の選挙となってもおかしくなかった。あるいは最悪の場合を想定しても、現状維持は十分可能と読んでいたはずである。
 蟹工船ブームとか毎月入党者1000人、ということで外国特派員協会に呼ばれて、志位が得々として「日本共産党の”元気”の源は何か」と題するレクチャーをしたのはこの3月のことであったし、都議選前の8中総では、党勢拡大の「大運道」は「わが党史上でも最大の画期的な取り組みとして発展している」(「赤旗」6月6日付)と自賛していたほどであった。
 もちろん政治方針や政治情勢認識は正しく、都議選方針は「都民の願いにかなったもの」(志位・「東京都議選結果について」、「赤旗」7月13日付)であったのだから、彼らの理屈では負けるわけがなかったであろう。
 しかし、その自画自賛やレクチャーの誇大妄想ぶり、勝てるはずの理屈は都議選によって無惨に粉砕されてしまったばかりか、その誤った政治方針のために2年にわたる「大運道」の”成果”も雲散霧消してしまったわけである。気の毒なのは、2年にわたり、休日返上で「大運道」に精励した末端の党員達である。

5、方針転換の政治的ねらい
 都議選後に急遽、幹部会声明を発して総選挙方針を転換した政治的ねらいは、端的に言って、政権交代の妨害者という”印象”を有権者からぬぐい去ることである。”政治音痴”の不破や志位らも漸くにして、見境のない民主党批判が政権交代派有権者の反感を買うだけであり、政権交代を妨害するjcpという認識が有権者に浸透しつつあることに気づいたというわけである。
 そこで、かかる政治的ねらいに合わせて、まず、自公政権の「退陣」という要求を全面に押し出すことになる。jcpは政権交代を求めているという印象作りである。しかし、志位らはこれまで自民党政治の根本的転換を口にしてはいても政権交代や自公政権の「退陣」を求めてはいなかった。それを求めれば、自民党と”同じ穴のムジナ”である民主党の政権づくりに一役買うことになるからである。 たとえば昨年の6中総では志位は次のように言っている。

「きたるべき衆議院選挙では、政権交代の現実的な可能性もはらむもとで(オー、志位は1年前には政権交代の現実的可能性を認識していたじゃないか!やっぱり、「新しい政治局面が生まれてきた」というのは後付けの屁理屈だったわけだ─引用者注)、『自民か、民主か』の『政権選択選挙』の大キャンペーンは、これまでのどの選挙よりも激しいものとなるでしょう。こうしたもとでは、わが党は、総選挙で問われる焦点は、政権の担い手の選択ではなく、政治の中身の変革だ・・・ということを、攻勢的に押し出してたたかいます。」(「赤旗」08年7月13日付)

 志位らはこれまで”同じ穴のムジナ”である民主党に政権交代しても政治は変わらない、したがって「政権の担い手の選択」は意味がないと言ってきたのである。しかし、政権交代に一役買うのはイヤだとは言ってられないほどの都議選の惨敗であり、ぐずぐずしていれば総選挙での惨敗も確実だという危機感が、jcpのこれまでの政治方針を圧倒したのである。

6、「建設的野党」は単なるイメージづくり
 もうひとつの新機軸、民主党政権ができた場合、「建設的野党」の立場に立ち「是々非々」で対応するという説明は、民主党政権に敵対的ではないという印象作りのためのキャッチ・フレーズにすぎない。志位は記者の質問に次のように答えている。

「今の政権とも、私たちは必要に応じて、党首会談を提起し、話し合いをしてきました。民主党中心の政権ができた場合にも、私たちは『建設的野党』という立場を堅持しますが、そういう立場でいろいろな意見交換、申し入れを大いにやっていくことは当然のことです。」(「赤旗」7月14日)

 志位の説明からわかるように、jcpはこれまでも「建設的野党」として「是々非々」で行動してきたと言っているのであって、麻生政権であれ民主党政権であれ変わらないというわけである。何のことはない。今までやってきたことを、言葉のうえでだけ目新しく「建設的野党」と造語して民主党政権と関連づけているにすぎない。志位によれば、jcpは「たしかな野党」であったが「建設的野党」でもあったと言っているわけである。すべては印象作りのための造語なのである。

7、政治方針の基本は何も変わっていない
 「声明」は自公政権の「退場」を求め「建設的野党」として行動するとは言ったものの、これまでの政治方針、政治行動を規定してきた独特の政治図式(①政治闘争は自共対決が主軸、②二大政党制はjcpの進出を阻止し悪政を継続する仕掛け、③民主党は自民党のスペア政党で自民と”同じ穴のムジナ”)や白黒二元論の現政治情勢認識はまったく変えていないのである。記者の質問に志位は次のように答えている。

「私たちは、自民党と民主党が、政治路線、政治体質という点で『同質・同類』の問題点を抱えるという批判をこれまでしてきました。私たちはその基本的認識を変えたわけではありません。」(「赤旗」7月17日)

 だから、事あらためて「建設的野党」を打ち出したところで、民主党に対するjcpのこれまでの認識は何も変わっていないのである。国民の目先の印象を変えようとするだけのもので、せいぜいのところ、しばらくは民主党批判は抑制するというだけのことである。「2」項で引用したが「8中総の決定を土台にしながら、情勢の進展にそくして発展させ」たとは、そういう意味である。これまでの政治方針は何も間違っておらず、その政治図式も白黒二元論も訂正する気はないが、有権者の評判が悪いので、少々化粧を工夫してみましたというわけなのである。有権者も舐められたものである。

8、自らの誤りをごまかす常套手段の一例
 志位はまた次のようにも言っている。

「ただ、国政においては、自公が与党で、民主党は野党です。・・・ですから自民と民主の両党に、政治路線や政治体質で共通する問題点があったとしても、両者を同列において、”審判”の対象にするというのは、もちろん適切ではありません。」(同17日)

 この発言は実に奇妙だ。わざわざ「審判」という言葉に「” ”」をつけて志位は強調しているのだが、「適切」ではないことを一体誰がやったのか? 国民か、それとも志位らか? 「”審判”」という言葉を使えば、”審判”を下す主体は国民であってjcpではない。
 この文章では、自・民両党を同列において”審判”の対象にする国民の行為は適切ではないという意味になる。これでは事実に反する。適切ではない民主党批判をふんだんにやってきたのは志位らjcpではなかったのか? 文脈からすれば、「”審判”」ではなく”批判”という用語を使わなければならない。むろん”批判”の主体はjcpである。
 そうすれば、志位らが両党を同列において民主党を批判してきたのは適切ではなかったという意味になる。しかし、この場合は、これまで同列において批判してきた志位らが誤りをおかしていた、ということになるのである。自分たちの誤りが明白になる言い方は避け、何となくこれまでとは違う印象作りをしようとするから、こうしたおかしな文章になってしまう。志位らが都議選でもこれまでも誤りはないという姿勢を執拗にとり続けていることがよくわかる文章である。 

9、政権交代の妨害者から傍観者への転換
 ネット上の評論を見ると、「建設的野党」を歓迎する評価が多いが、民主党批判が手控えられるだけでも歓迎という程度のものである。そうしたプラグマティックな評価で当面はよいであろうが、正確には、jcpの「建設的野党」というのは、すでに述べたとおりのことなのであって、麻生政権の「退陣」=民主党政権づくりとなる新しい政治情勢の”建設者”になるというわけではない。選挙戦術も変化するわけでなく、社民党との選挙協力を始めるわけでもない。
 都議選の惨敗を反省した身の証を立てるには、口先だけではなく、党候補の空白区では他の野党の護憲派候補だけでも支援する姿勢を明示すべきだと思うのだがそれもない。野党の護憲派議員が増えることは、これからの政局で起こりうる政界再編にあたっても有効な政治的布石となるのだが、不破や志位らにはその”見透し”も”度量”もない。
 情けないことに、不破や志位らはどこまでも自党オンリーの思考で凝り固まっている。共産党が伸びれば日本は良くなるという”お経”を唱えるだけである。まるで、手足のない”だるま”である。みずから”だるま”になる口上は「国政選挙協力には基本政策の一致が必要だ」という例のお馬鹿な命題なのであろう。石頭が奉戴する諸命題に縛られて党が現有する力を活用することもできない。カチカチの石頭にして重い”左翼小児病”患者ぶりである。
 これまでの検討から総括的に言えば、民主党政権ができるかどうかには、あくまでも傍観者であり、これまでの妨害者から傍観者にそのスタンスを転換し、政権交代派有権者の反感を解消し、すこしでも比例区での投票を期待するというのが「声明」の眼目なのである。
 政治情勢を革新的に切り開いていくという”前衛党”の姿はどこにもなく、国民が切り開いた政治情勢に、批判を受けて、ついていくのが精一杯である。

10、党執行部全体の刷新が必要だ
 しかし、志位らの期待ははかない”夏の夜の夢”に終わるであろう。その理由は、第一に、事ここに至っても志位ら執行部は政治方針に誤りはなかったと強弁し、都議選では「日本共産党が得票でも得票率でも他のどの党よりも前進しています。」(東京都常任委員会、「赤旗」7月15日)と馬鹿げた責任逃れの自己評価をしていることである。これは致命的だ。
 政治方針の転換にあたって、自分らもよく知っている惨敗の原因=政権交代の妨害者になった誤りを率直に謝罪しなければならなかった。ほとほと、この党の指導者は”庶民”を知らないことが痛感されるのである。有権者は口先だけで何も変わっていない志位らjcp執行部の”体質”を一瞬にして見抜いてしまった。”怒れる庶民”はそれほど寛容ではなく、多分、この党の指導者らを許さないであろう。
 世間はあきれ果て、党員の多数はやる気をなくすだけである。党の手足となる稼働部隊が減ることは必至である。
 その政治方針の誤りとは別に、志位ら幹部のこうした非科学・非常識な言動、自画自賛がjcp凋落の一大原因となっていることに、もうそろそろ気がついてもよさそうなものである。国民は党の政策を含めてjcpの全体を丸ごと評価の対象にしているのである。政策が良いというだけでは票は来ないし、見せかけの”化粧”も見破られる。このままでは民主党政権が失敗した場合の受け皿にもなり得ない。 国民を舐めてはいけない。
 第二は、もう、こうした馬鹿げた自己評価で議席後退を10年も続けているのだから、世間のjcp評価は確定しており、見かけ倒しの「声明」で挽回できるわけがないということである。いかなる惨敗でも政治方針に誤りはないと強弁し退かない万年執行部の顔ぶれが、すでにjcp組織の異常性、独裁制の象徴に転化している。不破や志位、市田ら党執行部全体の更迭・刷新なしには党の再生は不可能である。

11、補足、観念論でしかない政治図式、白黒二元論を再検討せよ
 姑息なやり方ではなく、真剣に総選挙方針を再検討しようとすれば、その政治図式、白黒二元論の再検討にまで進まなければならないことを指摘しておこう。「二大政党の競い合いによる暗黒政治への逆行」としたり顔で言う政治情勢認識が間違っているからであり、この認識がjcpを政権交代の妨害者にした元凶だからである。この認識を維持する限り、「建設的野党」は民主党政権成立後の対応を誤り、性急な民主党政権つぶしに傾斜しがちになるからである。「是々非々」とは口で言うのはたやすいが、政権が出す法案の精査だけで済むものではなく、戦略的判断を加味しなければならない場面が多々やってくるはずである。

 この白黒二元論に帰結するjcpの二大政党制論については、以前の投稿(「共産党85周年記念講演・・・(2)」現状分析欄07年8月31日)で批判しているので参照されたい。ここでは、もう少し別の角度から批判しておこう。

 この二大政党制論は20世紀のイギリスやアメリカについて左翼世界で言われてきた常套句である。しかし、植民地支配からあがる超過利潤を蓄積してきた旧イギリス帝国やかつて広大なフロンティアを持ち基軸通貨ドルの特権を享受してきたアメリカでこそ成立しても、特権的資本蓄積の便宜を持つこともなく、過労死とウサギ小屋という代償で世界第二の経済規模に成長したとはいえ、1000兆円にのぼる公的債務を抱え、アメリカによる支配やグローバルな経済競争、新興諸国の追い上げにあう21世紀の日本で、かの二大政党制が成立する余地は狭いという想像力程度は”前衛党”ならば持ってしかるべきある。

 20世紀と21世紀という資本主義の世界史的発展段階が違う、世界大戦に諸国民が総動員された時代と今日では国民の民主主義運動の発展段階が違う、各国別にアメリカやイギリスとは政治・経済のシステムもその歴史も相当異なる、万年与党半世紀の日本独特の政治史がある等々、その意味で独特な日本で米英の二大政党制システムが時代も国境も越えて同じ役割を果たすと考えること(仮説だ)がそもそも検討・証明の対象になるべき研究課題なのである。ところが不破や志位らはこの仮説を証明済みのものとして取り扱い、例の政治図式に従い白黒二元論で政治法則であるかのように現状を「二大政党の競い合いによる暗黒政治への逆行」(6中総)と規定するのであって、これはただの観念論、jcpを反動陣営に導くドグマに他ならない。

 わかりやすい例えを用いれば、水は100度で沸騰するからと言って、見知らぬ土地に来て、ここでも100度で沸騰すると言うようなものである。その土地が高地であれば、水は100度以下で沸騰する。あらゆる自然法則が条件付であるように政治法則も条件付でしかも再現不能の複雑性がまとわりつく。

 つまり、現在の日本の政治情勢は実践的にやってみなければわからない未知の側面が実に多い(21世紀の政治「革命」はすべてそうなる)のであって、それ故に試してみる価値もあれば、働きかけの如何によっては新しい可能性も開拓できるのである。実践の重要性、実践によって政治の現実にメスを入れることが大事なことなのであって、国民の多数が現にそれを要求している。
 民主党政権は「暗黒政治」への一里塚、極楽浄土はjcpにあり、という”お経”を唱えているだけでは政治の現実は打開できない。不破らの考えた政治図式にあわせて政治の現実が動くことはないのである。”政治音痴”の不破や志位には極度に難しい政治情勢が立ち現れていると言わなければならない。政治情勢の動きを読みその展開を能動的に組み立てる構想力と戦略思考、柔軟な対応が要求されるのであって、麻生政権と同じく、jcpは「土砂降りに なって出ていく 雨宿り」という状況に追い込まれている。”前衛党”の真価はこの実践で試される。