2009年都議選結果を受け、来る8月30日投開票の総選挙をも展望した原仙作氏の7/24付、千坂史郎氏の7/25付「現状分析と対抗戦略」欄投稿、青太郎氏の7/25付「一般投稿」欄投稿を読んで、最近の私の感想を述べてみたい。
日本共産党の7・16付幹部会声明は、原氏が指摘されるように「自公政権の『退場』要求」を明示的に打ち出したという点では、極めて遅れ馳せながら、公式な・共産党現指導部の政治情勢認識の変化・として、歓迎すべきものだと思う。
原氏や青太郎氏が指摘しているように、この変更が、6月の8中総決定を「発展させた」というのは、事の実質から見てゴマカシだろう。
この点青太郎氏が厳しく指摘しているように、中総決定をその下位機関である幹部会決定によって変更してしまうという、極めて非民主的な手続によって変更がなされたことに、現党指導部の周章狼狽ぶりが見て取れると思う。もっとも、現行規約下での共産党指導部には、「(被選出機関である)幹部会は(選出母体である)中央委員会の下位機関である」という認識自体が存在せず、むしろ「上級の指導機関である幹部会が中総決定を『発展させる』のは当然だ」程度の認識しかないだろうから、その非民主性には思い至らなかったのかも知れない。
4月18日付「組織論と運動論」欄への投稿(投稿先の指定を間違えてしまいました)で私は、「小澤―西松建設企業献金虚偽記載問題が明るみに出た後」であっても、「周辺部分での動揺はありつつも、普通の民衆の中では、民主党への政権交代はほぼ既定事実になりつつある」と書いたが、2007年参院選結果をなぞるような都議選の結果に、地域の末端で感じる政治の空気が、全体の傾向とそれほど変らないところまで政治情勢の「矛盾の深化」は来てしまっている、と感慨深く思っている。
その投稿中に触れた「勉強サークル」の勉強会は、さらに頻度を増して存続しており、参加者も増えているのだが、社会主義・共産主義を忌避する雰囲気はないのに、日本共産党については眉を顰める雰囲気がある。それは、千坂氏が太田光征氏の分析を引用しながら危惧している、来る総選挙における「民主党の勝ち過ぎ」への懸念をどのように評価するか、ということに関係してくる。
これはあくまで、地域の末端の勉強サークルから得た印象であって、原氏がいつも行われているような詳細なデータに基づく分析ではないのだが、民主党圧勝をもたらす投票行動は、ただ単純に「政権交代を実現したい」という動機からの投票集中の帰結だけではないと思う。
原氏が「指導部の責任回避のバイアス」と指摘し、青太郎氏が「もし共産党が『建設的野党』として是々非々路線を早くから確立し、野党共闘にも前向きにとりくんできたのなら、情勢はもっと早く動いていただろうし、共産党自身への国民の評価も違っていたのではないだろうか」「党内民主主義をおざなりにし、幹部が相変わらず引き回していては、国民に更に見放されるばかりではないだろうか」と厳しく批判しているように、積年の「指導部の責任回避」姿勢に対する民衆の冷やかな眼は、それ自体が独自の障害となって、「共産党離れ」を招来していると感じられてならないのである。
これが1970年代半ばまでの話であれば、古典的な「反共意識・反共風土によるものだ」といって済ませられただろうが、団塊世代を始め、「革新上げ潮の時代」を通り抜けてきた人たちがシニア世代を構成するようになった現在の有権者民衆の投票行動を考える上では、「ソ連・東欧の崩壊のとばっちり」だとか「突風が吹いた」というような他責的な言い方で済まされるわけがない。
鈴木赫子氏が7月14日付「一般投稿」欄への投稿で触れられている市田書記局長の発言は、7月12日の午後10時半頃だったのではないかと思うが、質問者の「民主党が圧勝という形勢ですが、共産党はこの結果をどう見ていらっしゃいますか?」という趣旨の問いかけに対して、「まず、選挙でわが党候補に投票され、わが党を支持して活動されたみなさんの声にお答えすることができなかったことを、お詫びしたいと思います。私たちの声が届いたところでは、手応えを感じることができたのですが、その声を広範な都民のみなさんに届けることができなかった」と、虚ろな目をしてトンチンカンな答えをした市田氏の姿に、「あぁ、この党は終っているな…」という感想を懐いたのは、決して、長くこの党の傍らに居た私のような者だけではないだろう。
千坂氏は、太田氏の、「民主党が現有34議席から増やした20議席のうち10議席は、共産党や生活者ネットから奪った水太り部分です。これが民主党候補に投票した東京都有権者の民意なのかどうか、非常に疑問です。」という評価を、おそらく肯定的に引用されているが、共産党に関する限り、民主党に票を食われて「水太り」をさせたというのは、一面的な見方ではないかと思う。民衆は、「とりあえず民主党にやらせてみろ」という「政権交代」に向けたモメントに対する、日本共産党の「妨害者」としての役割に、はっきりと「審判」を下しているのではないか。つまり、「水太り」も「民主党候補に投票した東京都有権者の民意」の正当な現れだとは言えないだろうか。
もちろん、マスとしての「民衆」が、単独の投票主体として存在するわけではない。
したがって、来る総選挙において「匙加減を間違えて、共産党・社民党のような弱小政党を切り捨てないように、比例区の投票ではこれらにむしろ逆傾斜配分を行うべきである」というような発想は、選挙通のテクニックとしては頷けるが、民衆レベルに対する政治論の本道ではなかろう。民主党を「勝たせ過ぎ」てはいけない理由は、あれこれのマニフェストや肯定的政策にも拘らず、この党が基本的には寄合所帯であって、改憲という現代政治の「肝」の部分で、どう転ぶか分らない危うさに求めるべきだろう。だからこそ、民主党への政権交代必至の選挙情勢下でも、民主党内の護憲勢力を代表する候補者を含めて、たとえ「勝手連」的にではあっても、護憲で共同しうる第三極勢力を伸ばすべく、働きかけを強めるべきではないのか。
「読売」の世論調査でも、改憲賛成派が減少したといわれている。また、アメリカからの改憲圧力にも、オバマ政権の発足によって、変化が現れる可能性がある(とはいえ、「対テロ戦争」の軸足を、イラクからアフガンに移動させただけであることは、決して見逃せない)。
2007年参院選で民主党を圧勝させ、安倍元首相を退陣に追い込んだ民衆は、同時に、2005年小泉「郵政民営化」ワンフレーズ選挙の結果が民衆自身に与えた激しいダメージを、それが日常の話題となるほど、教訓としてしっかりと記憶している。その点が、今回総選挙が、従来の「前の選挙で何が争点だったか、よく覚えていない」式の選挙とは大きく異なる点であるし、民衆が決してファシズム的「なだれ込み」で選択をしない希望もある点だ。「自公政権退場要求」路線は、日本共産党の説教や路線変更如何とは無関係に、民衆が選んでいるのである。
だから、「政権交代」を志向する民衆の政治的モメントをしっかりと受け止めて、それを評価し促進しつつ、民主党中枢に対する働きかけを含めて、情勢の革新的打開の可能性を少しでも拡げ、単なる「傍観者」としてではない共同を進める動きを、強める必要があるのではないだろうか。(7月28日)