1、 共産党(jcp)の第25回党大会が終わったが、相変わらずの顔ぶれで不破の老人もひな壇の最前列に並んでいたようである。大会人事を見ると党執行部はこれまでどおりであり、この布陣で激動する政治情勢を乗りきっていけると考えているようである。
常識的に考えれば、JALと同様、10年の衰退をもたらした執行部にその能力はないと判断されるものだが、jcp執行部の世界は常識外の世界であり、”不都合な真実”は目をつぶれば消えてなくなるようである。
これで、この党の運命も決まったと言えよう。激動の時代は平穏な日々を幾重にも圧縮して進み、jcpの凋落を加速していくことになる。
2、大会決議の内容には党勢衰退を打開する新機軸が打ち出されているわけではなく、階級闘争の古ぼけた政治図式を単純に現実にあてはめた「過渡期」論と同じ政治図式から来るjcp躍進の「必然性」が語られているにすぎない。恒例のごとく、 再びjcp躍進の時代がやって来て、「民主連合政府の展望がみえてきた」(志位「結語」)と言うのである。
ほとんど冗談、にしか聞こえないが、志位お得意の自画自賛の論調である。また、大会で出されたあたりさわりのない意見を決議案に取り込んだことを「わが党ならではの・・・民主的プロセス、民主集中制という組織原則の生命力」(同「結語」)だと持ち上げている。
議論をするなら党が抱える深刻な問題、すなわち10年にわたる党の凋落やその原因となってきた政権交代を求める国民の声への妨害行動について、その原因と責任究明にこそ踏み込むべきであったろう。肝心な問題に蓋をし、あたりさわりのない討論で済ませたことは、世間の常識からすれば嗤うべき民主集中制だという評価になることを志位らは知っておいた方がいい。
執行部の責任を回避するためであろうが、志位らはjcp足下の厳しい現実をかたくなに見ようとはしない。これではいつまで経っても国民の支持を得られないであろう。
3、新年明けの政治情勢は小沢秘書ら3名の逮捕で騒然としているが、志位がまたしても重大な誤りを犯している。18日の「赤旗」によれば、この騒動の「核心はゼネコンからのヤミ献金疑惑」なのだそうだ。「疑惑」だけで検察が国会議員を含めて3人も逮捕するという行為は”検察の暴走”ということになるのだが、そっちのほうはフリーパスになっている。志位は再び、昨年三月の轍を踏んでいる。反省がないから、いつもこういうことになる。
昨年の3月に逮捕された小沢秘書の公判では、献金した政治団体のダミー性が争点であるが、検察側証人で登場した西松の元総務部長が「ダミーとは思っていない」、「事務所も西松とは別に借りて、家賃や職員への給料も団体が支払っていた」と証言し、検察に致命傷を負わせている。献金した政治団体がダミーならざる実態があったということになると、検察主張である虚偽記載という立件は成立しないからである。
こうして、結審が早くなることを恐れた検察は公判延期の作戦に出ている。志位が当時、ろくな調査もせずに「赤旗」で連日大キャンペーンを張り、素人解釈のダミー、ダミーを連発して検察の国策捜査に”協力”したことも立証されつつある。
4、ここで、わざわざ小沢秘書・大久保の公判について触れたのは、志位らが検察の尻馬に乗って、国策捜査ではなく正当な献金疑惑追及だと愚かにも主張していたことを思い出してもらいたいからである。新年明けの検察の暴走も同じ流れのうちにある。当サイト一般投稿欄の道祖神さんの言うとおりである。
政権から放り出された旧支配勢力と民主党政権との権力闘争の”新段階”というのが現在の政治情勢のポイントなのである。この旧勢力とは、国内では自民党、財界主流、国家官僚、大手マスコミらの従米派のことである。jcpが見なすような保守同士であっても、権力闘争は起こりうる。既得権益派は往生際が悪いというのが相場である。
検察はこれら旧勢力の先兵として民主党新政権とその大黒柱・小沢を攻撃しているのであり、その口実が小沢の4億円の原資云々なのである。だから、この検察の暴走は単に権力闘争であるばかりでなく、合法的に成立した新政権つぶしとして民主主義への攻撃という側面を持つている。いわゆる検察ファッショと言われるものである。
5、仮に百歩を譲って、「ゼネコンからのヤミ献金疑惑」があるにしても、それはすでに述べた権力闘争を中心とする現政治情勢の一側面にすぎないし、野党議員であった小沢にその献金で政治を歪める力があったわけではない。西松建設元社長・国沢の公判(すでに確定)でも「天の声」は認定されなかった。
主要な側面は権力闘争にあり、しかも検察の攻撃手法が民主主義を否定する内実を持っている。ここで政治倫理を持ちだしても何の意味もない。小沢の政治倫理の「疑惑」よりも検察の暴走の方が1000倍も有害で危険である。
そこで、jcpは事態にどのように対応するべきなのか?
現実の政治現象は常に多面的に出来ており、どの側面をなぜ、どのように取り上げるのかについて深く考えてみなければならない。政治戦術の問題なのである。
志位らの思考はいたって単純で、保守両党の内ゲバは叩くに限るのであって、自民であれ民主であれ悪の疑惑は叩くべきなのである。そうすれば、相対的にjcpの株は上がると算段するのである。条件反射的即物対応で、言わば”猿でもできる”政治戦術である。
6、ところが、政治の世界では独特の力学が働く。敵対する両党の一方を叩くということは叩く者の意思の如何にかかわらず他方の政党を有利にする。この力学を誰しも免れることは出来ない。しかも同じ批判をしていては、jcpの批判は大勢力である検察と旧勢力による新政権批判に飲み込まれるばかりか、旧勢力による新政権批判の一翼を担わされることにもなる。
それゆえに、政治戦術はよくよく沈思黙考してみなければならないところなのである。思い出してもらいたいのは、政治戦術についてのレーニンの評言である。
「だが、力関係や、力関係の計算については、わが共産党左派は・・・考えることができない。ここにマルクス主義とマルクス主義戦術の核心があるのに、彼らは次のような『高慢な』空文句を弄してこの『核心』をよけている。」(「左翼的な児戯と小ブルジョア性について」全集27巻330ページ)
歴史を大局的に見る見方は、それこそ、マルクスらの古典を2、3冊も読めばわかることである。政治指導者が考えてみなければならないことは、ここに引用したような評言である。ひな壇に並ぶ不破は何十冊ものマルクス・レーニンものを書いても、この引用の意味を一度たりとも真剣に考えてみたことがない。
7、「力関係や、力関係の計算」が何故に「マルクス主義戦術の核心」であるのか? 不破はあきらめるにしても、当サイトの読者にはしかと考えてもらいたいのである。客観的な政治情勢の評価と「力関係」は一体どういう関係にあるのか? 「力関係」の違いで客観的な政治情勢の評価が変わるのか?
政党はその政治行動にもとづいて客観的な政治情勢に働きかける存在であり、政治の世界ではすでに述べた独特の力学が働く。客観的な政治情勢は一つであるが、その情勢の望ましい変化を得るには、その多面的な政治情勢のどの側面に主要に働きかけるかを選択しなければならず、その選択は「力関係」と政治力学を考慮することによってはじめて可能かつ十全になる。「力関係」次第では実践的に働きかける情勢の側面が異なってくることにもなる。
つまり、多面的な客観的政治情勢を前にして、戦術の焦点をどこにすえるかを決定する基準を握っているのは「力関係」、具体的には政党間におけるjcpの力量の程度なのである。
8、わかりやすく言えば、政治戦術はその力量に合わせて働きかける対象と獲得目標を選択するほかないのであって、力に勝る目標と手段の設定は絵に描いた餅に終わるということである。政治力学次第では期待とは逆の結果がもたらされることにもなるし、ましてや、政治情勢の中心を見失ってしまえば絵に描いた餅どころか反動的な役割を果たすことにもなる。jcpの全小選挙区立候補戦術が一つの典型例と言えるであろう。
しかるに、政治力学と「力関係」を考慮の外に置くのであるから、志位らの戦術ははじめから”恣意的”な政治戦術になるほかなく、期待された結果も保証されることはない。恣意的な政治戦術は「力関係」と関連づけられていないために現政治情勢との内在的な関係が恣意的になっているのであって、したがってまた教条的な政治戦術ともなるのである。全小選挙区立候補戦術がいかに教条的な選挙戦術であったかは言うまでもなかろう。
9、志位の言う「核心はゼネコンからのヤミ献金疑惑」という判断とその政治戦術は何重にも誤っている。第一の誤りは客観的政治情勢の中心ポイントを見誤っている。この騒動が旧支配勢力と民主党政権の権力闘争の中心にある現象であり、検察の暴走が反動的な政治行動であることをとらえ損なっている。
第二は、検察のリーク情報を考慮しても志位の言うような「ゼネコンからのヤミ献金疑惑」を証明する具体的で有力な証拠があがっていない。検察が逮捕容疑を不記載から虚偽記載に変更したことも「ヤミ献金疑惑」の否定材料になる。検察は確たる証拠を一切掴んでいないことを示しているばかりか、断片的事実の組み立ての解釈変更(でっちあげ)に躍起となっている有様が見える。
脱税で服役中の水谷建設元会長の証言なるものはそのまま信用するべきではなかろう。5000万円を小沢秘書に渡したという供述は脱税とは別件であるうえ、以前は「受注に金を使ったことはない」と言っていたのである。
かくて、検察の逮捕容疑は大久保秘書の公判に見られるごとく”でっち上げ”か、せいぜいのところ記載上の瑕疵というレベルの問題にすぎなくなる公算が強いのである。
第三以下は、すでに述べたようにjcpの「力関係」を志位らはまるで考慮していないということである。
10、では、jcpはどうするべきかと言えば、まず”新段階”に突入した旧勢力と民主党政権の権力闘争という情勢のポイントを押さえ、小沢の「ヤミ献金疑惑」という当たる可能性の少ない”材料”は捨てるべきである。そのうえで、この権力闘争を国民生活の向上に有利な方向へ向けるにはどうするべきかを考えるべきなのである。間違っても自党第一に考えてはならない。戦術が歪む。
仮にjcpが天下を三分する政治勢力であるならば、検察の暴走と民主党の献金問題を批判したうえで庶民の利益とjcp勢力の拡大をめざすという戦術も選択肢のうちに入るであろうが、如何せん、jcpは国政から消え去らんばかりの弱小勢力であるから民主党叩きで少々のjcp議席が増えることになっても国民生活の向上に直結するものにはならない。
むしろ、民主党叩きで政権が弱体化すれば相対的に浮上してくるのはjcpではなく旧勢力にほかならず、これでは少々改善され始めたばかりの国民生活も後退させられる危険性が大きくなるし、後退を食い止める力はjcpにはない。jcpが望む企業献金の禁止さえ、さらにその実現が遠ざかるであろう。
志位らの「力関係」を見ない「ヤミ献金疑惑」追求なる”政治戦術”は、反動的な政治結果しかもたらし得ない。だから、jcpの現在の力量からすれば、この権力闘争では民主党の側に肩入れし検察の暴走を主に批判するものでなければならないだろう。
11、自民党は下野したとはいえ、旧勢力は依然として強大であることは検察の暴走や官僚機構の反抗、マスコミの反民主キャンペーンから容易に想像できることである。民主党政権が弱体化すれば、「みんなの党」と自民党若手グループの合流をステップに衣装替えした自民党政権の”芽”も出てくる可能性がある。旧勢力の隠然たる力やマスコミによって強引に作られた最近の内閣支持率の急落を直視するべきである。今はまだ、政権交代の”財産”を守らなければならぬ時期なのだ。
現在の政治情勢の下では、検察の捜査権を乱用して新政権を転覆させようとする旧勢力の反民主主義的暴挙を糾弾することが焦眉のポイントであり、旧勢力のかかる攻撃を断ち、新政権を安定させて彼らが公約してきた「国民生活が第一」となる政策の実行を迫ることなのである。これがjcpの採るべき政治戦術である。
12、jcp執行部が党員のビラまき騒ぎでは警察の不当逮捕だ弾圧だと騒ぐのに、他党が被害者の場合には検察に恐ろしく寛容で、かつ絶大な信頼を寄せているように見えるのは実に奇妙なことだと言わなければならない。このダブル・スタンダードとも言うべき異様さには注意が必要である。
志位らが条件反射的に検察の民主党攻撃に飛びつくのは理由があるとみるべきだろう。その対応には「国民生活が第一」よりも自党第一の思考が現れている。保守党同士の内ゲバは利用するに限るという単純な判断がそれで、そのために両者の違いも検察の暴走も見過ごされてしまうのである。自党第一主義の弊害であり、この主義が志位らをメクラにしている。
さらには古くからの伝統的思考である社民主要打撃論と同様の欲求がある。昨年の総選挙直前まで政権交代を批判してきたように、jcp票を奪いjcpの前進を阻んできた憎っくき(?)民主党にどうしても攻撃の矛先が向かいがちになるのである。
長期低迷から来るあせりもあり「国民生活が第一」という土俵に踏みとどまれず、党の力量、「力関係」、政治力学を見ることが出来ない志位らjcp執行部は、民主党政権がガタつけばjcpに出番が回ってくると愚かにも考えている。
志位らの皮相な「建設的野党」論や「是々非々」論は、こうして早くも”地金”をあらわにし反動的な政治戦術に帰結していく。国民生活ではなく自党第一という主義(骨がらみのセクト主義)がjcpを地獄への道に誘っている。
旧勢力の長い支配の後に新政権が誕生しても、その新政権が短期にして不安定化すれば、その後にやってくるのは政治的混乱、政治ニヒリズム、右派の跳梁である。歴史のアナロジーで言えば、ドイツのワイマール共和国の時代に、ヒットラーが暴力的に社会民主党政権を攻撃するのを拱手傍観して自党(ドイツ共産党)の自滅を呼び込んだ故事を志位らは思い出すべきであろう。
13、jcpが自己変革を遂げぬままの旧態然としていては、政治的混乱と民主党政権の弱体化は自民党と旧勢力の浮上としてしか政治的には現象してこないのだということを知らなければならない。強力な政治革新の”部隊”が存在しない現状では、不用意な民主党政権叩きは反動的な政治機能しか果たすことが出来ない。
ソ連の崩壊や何度選挙に惨敗しても変わらぬjcp執行部の顔ぶれ、「科学と正義」を独善的に叫ぶカラ文句の長い年月、そして独裁的な民主集中制の党運営の半世紀、そこで排斥され離脱した膨大な元党員・支持者と彼らの影響下にある国民の巨大な堆積、それらのものを考慮すれば、ガタつく民主党政権に代わり一夜にしてその受け皿となるjcpの時代がやってくると期待するのは夢想にすぎない。
1998年の参議院選の再来もない。旧社会党の崩壊で流入した社会党支持層に愛想を尽かされ逃げられたからである。インターネット社会では青年層もやってこない。 言論表現の新兵器であるインターネットでの自由な意見表明を党員に制限するような時代錯誤の政党には青年の支持が集まらないことをjcp執行部はしかと認識するべきであろう。
自党第一の思考・行動パターンと独善的なカラ文句を捨て、自己変革の途につき、実際に政治変革を推し進める目に見えた具体的な実績を、他党と協力して一歩一歩積み重ねることなしには、jcpの再生・発展はないのである。