はじめまして。シンタローさんの投稿は、「組織論と運動論」欄への私の 5/23付投稿の内容とも関連するように思いますので、コメントさせて下さ い。
1. シンタローさんの上記投稿の表題には、「やはり民主党は自民と『同じ穴のム ジナ』であったのか。」とあり、さらに本文中には、
ここにおいて自民も民主も同類であり「同じ穴のムジナ」であることが全国民 的な政治体験によって実証されつつあり、日本共産党指導部の「たしかな野党」 としての存在と「先見の明」が輝く情勢となりつつあるかのようである。
このサイトで過去に全小選挙区立候補に象徴される共産党の自党第一の”有害 なセクト主義”が批判され続け、また民主党への政権交代にネガチブな立場をと る共産党指導部のこの間の一連の方針にたいしても数多くの批判がなされてきた が、これらの批判は鳩山政権の転落という無残な惨状により具体的事実を持って 反証されてしまったのではないだろうか。
とあります。
しかし、これは、善意に解釈しても、シンタローさんの誤解だと考 えます。そして、シンタローさんが投稿末尾で「もどかしく」思われている「わ だかまり」の根本原因も、この誤解にあります。
このサイトで従来多くの方々が、日本共産党の現指導部の路線を批判する 際に指摘していたのは、「民主党は自民党と『同じ穴のムジナ』であるかど うか」自体に関する認識ではないでしょう。
私も以前に、この欄の2007年4月27日付・都知事選挙に関する投稿の中 で、次のように述べたことがあります。
民主党が抱えたある種の「ジレンマ」は、もともとこの政党の成り立ちから来て います。そこに深刻に存在している矛盾(もともと支配層にも通じている改憲タ カ派勢力と、労働者階級の根本的利益を裏切る右翼労働組合勢力との野合集団で あり、にも拘らず、その傘下・影響下にある多数の労働者民衆に対しては、その 利益を代弁しているというポーズをとらざるをえないという矛盾)を、浅野候補 を支持して結集していた人びとは、本当に理解していると言えるでしょうか。こ れらの人びとの目に、「『幻想』の幻想性が白日の下に曝され」ていると言える のでしょうか。非常に疑問です。
このような「民主党の性質」に関する認識は、当時としてもごく普通の認
識だったでしょう。それをいまごろになってシンタローさんが、日本共産党の
「先見の明」だなどといわれるのは、どうにも解せないことです。そのような認
識の有無が問われていたのではなかったからです。
言い換えると、「やはり」などといまさら驚くまでもなく、「民主党は『同じ
穴のムジナ』」だったということです(但し、さまざまな矛盾を内包しているか
ら、決めつけは禁物だということです)。
ましてや、このサイトの主流的論調が、「民主党政権への交代が現実化す れば、『普天間基地移転問題』が沖縄県民の多数が切望しているように解決され うる」などと、民主党政権へのバラ色の幻想を振り撒いていたわけでないこと は、明白だと思います。
問題は、それでも民主党が政権交代を実現するためには、小泉及びその後
継者らの自公政治が激しく深化させた《民衆の苦痛》から沸き起こる政治的エネル
ギーを利用せざるをえないために、実際にも例えば「最低でも県外移設」という
ような言説を振り撒かざるをえなかったわけで、そのような政治状況に対し
て、ただ単に、「政権交代」に関しては局外中立を保ちながら、何とかの一つ覚
えのように「民主党は自・公と『同じ穴のムジナ』だ」と「正しいスローガン」
を叫んでさえいればよいのか、というところにあったのではありませんか。
このような民衆の怒りが沸き起こっている政治情勢において、「民主党は自民
党と『同じ穴のムジナ』であるから、民主党政権へ『政権交代』を果たしたとし
ても、『国民本位の政治』への転換とはなりえない」と強固に主張して、民主党
政権への政権交代の妨害者として行動してきたこと、そこが日本共産党現指導部
の路線の最大の問題だったのではありませんか。
このような民主党政権への政権交代の原動力となっている民衆の自公政治
に対する怒りが正当なものであることを信頼した政治路線、したがって、
本来であれば、国民のこのような怒りを効果的に掬い取り・運動エネル
ギーとして結集する政治路線(それを「統一戦線」と呼ぶか「共同戦線」と呼ぶ
かというような研究者的問題意識はさておき)が選択されるべきところ、「どい
つもこいつもインチキ野郎だ!」とでもいうような「同じ穴のムジナ論」を振り
かざして得々とし、さらには「現在の情勢は統一戦線を云々できるものではな
い」といったような、「(主体的変革者ではなく)客観的解釈者」の地位に自ら
を貶めるような政治姿勢をとり(その背景には、「国政選挙における共闘の基
準」なる固定観念がありました。)、政治変革のエネルギーをみすみす浪費させ
ていることを、このサイトの人たちは批判していたのではありませんか?
そして、日本共産党現指導部のこのような路線は、昨年7月の東京都議 選において都民有権者から厳しい批判を受け、その後の衆議院議員総選挙に向け た「自公政治の退陣要求」路線打出しという方針修正となって現れたこと は、記憶に新しいところです。さらにいえば、昨年9月の総選挙により生じた 「政権交代」についても、「過渡期の情勢」として、日本共産党現指導部も この流れを肯定的に評価するに至っていることは、従来のこのサイトの 論者らの主張の正当性を、むしろ裏付けるものだと言えるのではないでしょ うか。
さらに、この「問題」は、いま現在、すなわち「普天間基地辺野古移設」 が民主党政権の方針として明確となった(菅新政権がこれにどのような抵抗を試 みるか、またできるかは、それこそ今後の国民的運動エネルギーの結集に左右さ れるので一応留保しつつ)現時点において、国民の支持が日本共産党へなだれを 打って移動して行ってはいない事実を見ても、日本共産党現指導部がいう「国民 本位の政治」実現に向かうための重大な障害となり続けているのではないでしょ うか。シンタローさんは、この原因を「国民の中に根強くある古典的な反共意識 のなせるわざ」だとでも、解釈されているのですか?
そうではないでしょう。
やはり、日本共産党の前回都知事選における動きに象徴されるような、
政治変革を望む民衆レベルからの動きに対して「説教」を垂れるような姿勢が、
民衆からの忌避感となって作用していると考えざるをえないのです。そうで
なければ、どうして、菅新政権発足によって民主党の支持率がV字回復するよう
な現象が起こるのでしょうか。また、「無党派層は様子見」と評されるような政
治的状況が、どうして起こるのでしょうか。
来月の参議院選挙沖縄選挙区に「革新共同」候補擁立という先陣を切った行動
も、(もちろん、「県外・国外移設」をはっきりと掲げている点での支持はそれ
なりに広がるでしょうが、)2007年都知事選挙における吉田万三候補の擁立と極
めて似ているような気がしてならないのです。
崩壊した鳩山政権は、「普天間問題とそれを原因とする社民党の連立離
脱」「政治とカネ」が政権崩壊の原因であると認める点で、政権崩壊の原因をほ
ぼ正確に認識していたと言えるでしょう。
社民党を擁護したいのではありません。また、民主党政権と連立を組むことが
「正し」かったかどうかも分りません。しかし、従来の自民党のような一定の
「超然」性を獲得することができず、民衆の政治的エネルギーに依拠せざるをえ
ない(そしてそのことは、当の民主党政権自身が自覚している。)民主党政権の
基盤的脆弱性を活用して、その支持基盤内部に一定の強固な橋頭堡を築くこ
とに腐心しないでいて、どのようにして「国民本位の政治」が実現できるので
しょうか。
しかも、日本共産党は政権崩壊に当って何といっていたか。「連立政権に 参加していた社民党の政治的責任も免れるものではない」と、社民党批判までし ていたのです。これでは、2007年4月27日付本欄投稿で私が、
こういうとき(沖縄参院補選の狩俣統一候補の敗戦結果を見て、共闘した連 合・民主党の一部から「共産党排除論」が出はじめているという状況――樹々の緑 註)に、日本共産党指導部に「そら見ろ! 民主党や社民党のいう『政権交代』 など、底の知れたものにすぎないのは明白じゃないか」といわせてしまえば、ど んどん、「社民主要打撃論」に傾斜していくことは目に見えているのではないで しょうか。
と憂慮していた傾向が、強まる危険さえあると思います。
今後もし、このような傾向が強まるのであれば(私はそれを絶対に望みません
が)、昨年の都議選から日本共産党現指導部が得た教訓も、まやかしであったと
いわざるをえなくなります。
このような民衆内部からの忌避傾向は、けっしてメディアの報道や世論調
査結果だけに基づいて指摘しているのではありません。
私は、「しんぶん赤旗」の配達と集金に携わっています。先月の集金時には、
「来たるべき参院選での日本共産党の前進のために、募金をお願いします」とい
う訴えをして回りました。現状よりも日本共産党の議席が後退することを、私は
望んでいないので当然です。しかし、長期固定読者が大半である読者の反応たる
や、昨年の都議選・総選挙時に比べても冷やかなのです。「なぜ、民主党の弱腰
を批判するだけでなく、積極的に下からよい方向へ尻押しをしないのか」という
感じなのです。「民主党の政治的限界を突っついてあぶり出す」という態度にさ
え、否定的な感じなのです。
2.
シンタローさんが上記投稿でいわれている「輝く情勢」のもう一つのファク
ター、「たしかな野党」について考えてみましょう。「民主党政権の『同じ穴の
ムジナ』性が民衆の目に白日の下に曝された」ことから、日本共産党の「たしか
な野党」性に対する民衆の敬意と政治的信頼が飛躍的に高まっていると言えるの
かどうか、という問題です。シンタローさんは、
こうして、かっては日本共産党指導部が政権交代を望む圧倒 的多数の国民の前に立ちはだかってまでも警告し続けた民主党政権のはらむ 危険性が実証されつつあるかのようであり、まさしく自民党と悪政を競い合う民 主党の本性が誰の目にも明らかなものとなってきたのではあるまいか。(太字は 樹々の緑が付す)
といわれています。つまり、現時点で民主党政権への「政権交代」の危険性 を「国民の前に立ちはだかってまでも警告し続けた」日本共産党への敬意と政治 的信頼が高まりつつある、という評価でしょう。
そしてこの点こそが、シンタローさんが上記投稿で、
これらの批判(=「さざ波」サイトでなされた日本共産党指導部批 判――樹々の緑註)は鳩山政権の転落という無残な惨状により具体的事実を持って 反証されてしまったのではないだろうか。
といわれていることの核心にも直結させられています。
このような記述があるために、私は、シンタローさんの「善意を疑って」
います。いま私が縷々述べてきた(シンタローさんがいう)「警告」の政治的意
味の検討を、まったく度外視しているからです。
それは結局、シンタローさんが、このサイトで論議されてきた日本共産党現指
導部の政治路線の重大な弱点の本質を何も理解しないで、「たしかな野党」性を
想定していることに他ならないのです。シンタローさんがいう「たしかな野党」
とは、「政権批判勢力として『正しい』ことが言える」というだけなのではあり
ませんか?
繰返しになるようですが、「たしかな野党」というのは、当面政権与党
(連立であれ)を目ざす政策も意志もない、ということの裏返しです。それは、
現在これほどまでに民衆の政治変革への意志と希望とが渦巻いている情勢におい
て、スローガンとして提示されているのです。それは、「自分たちは、政権批判
勢力として最も『正しい』政策と主張を持っている」という自己満足な主張に過
ぎません。これが、民衆の中に現に湧き起こっている政治的エネルギーに対
する不確信でなくて、いったい何なのでしょうか。民主党政権が「自公政権
と同じ穴のムジナ」であるならば、その本質が「白日の下に曝された」以上、
「これに代りうる民衆のための政権とは何か」を具体的政治的展望とともに示し
てこそ、「たしかな野党」と言えるのではないでしょうか。
そして、現時点でそれをまったく示せていない日本共産党現指導部は、せいぜ
い「究極の選択としては共産党かなー」程度の支持の進展しか、得られていない
のではないでしょうか。
私はずっと以前、原仙作さんと潤さんとの論争に横レスする2006年11月24 日付「理論・政策・党史」欄への投稿で、次のように述べたことがあります(二 重引用符は、潤さんの同年11/21付投稿からの引用。以下同じ)。
>>今の情勢において重要なのは、他党派との協力共同を探ることも大事だが、 共産党自身の力を強めることが最も重視されなければならないと、私は、思って いる。「他党派との協力共同を探ること」と「共産党自身の力を強める こと」が、何か対立的に述べられています。しかし、問われるべきは、現下の情 勢で、「共産党自身の力を強めること」の実質は何なのか、ということではない でしょうか。そしてそれは、取りも直さず、「他党派との協力共同を探ること」 に向けた粘り強い能力の、飛躍的発展ではないでしょうか。さらに、この投稿では、
>>民主党は、社民党や共産党よりも自公の方を向いている。本当は、自公民で 政権を取りたいのだ。しかし、それをやると、国民にそっぽを向かれるので、仕 方なく二大政党制で政権交代をと言っているに過ぎない。一般的議論としては、民主党がそのような、共産党と同じ意味で の一枚岩の政党かどうか、疑義があります。それとともに、先の沖縄県知事選 や、教基法改悪阻止、貸金業等規制法共同修正提案に見られるような国会内外で の共闘を推し進める可能性を、社会全体レベルにまでどれだけ拡げるかも、考え るべきではありませんか。それなのに上のような一義的「政党本質論」で対処す ることの硬直性には、堪えられません。>>国民がそのことを見破れば一気に激変が起こるだろう。「国民がそのことを『どのようにして』見破」るのか が、まさに問題なのです。国民自身の政治的経験を通じて、その認識を飛躍 的に高めるための具体的戦術が、戦略的に重要なのです。「革命の道すじが あらかじめ『科学的・理論的』に『よく分っている』」人々が、「まだ気づいて いない無知な・昏い民衆を啓蒙する」という発想では、「後衛」の位置に取り残 されるだけなのです。というやり取りもしています。現在これに付け加えるべきことは、基本的に はないと感じています。
私は、前記2007年4月27日付の都知事選結果に関する投稿内でも、
この人びとの、このような認識(民主党政権に対して過大な政治的幻想を懐いて いる人たちの・そのような認識――樹々の緑註)こそ、日本共産党とその周辺 にいる人たちは、自らの献身的な態度・方針を通じて、早急に改めてもらわなけ ればならない、そのためにどうすべきなのかが、日本共産党側が今回の都知 事選・沖縄参院補選結果を検討する際の最大かつ最優先の着眼点であると思いま す。と述べました(太字は今回、改めて別に、施しました)。
民主党政権の誕生を「過渡期の情勢」だなどと一定の肯定的評価をしなが ら、「公約したんだから、言ってるとおりにやってね!」と、外からその「履 行」を主張するだけで、現実のその障害を一緒に・苦労をともにする中で除去し ようとはしない、政権党とはまったく無関係の地平で、独自にあれこれの「正し い」課題を追求するだけの政党、自党とその周辺にいる人びとを「中心」にして 「広範な人びとの結集」を図ろうとする政党に、「政権交代」をもたらした真に 広範な民衆の政治的支持が集まるわけはありません。そのような姿勢は、「献身 的で誠実な」態度としては、けっしてこれらの人たちに映らないからです。これ らの人たちから「たしか」な政党だという評価は得られていないはずではないで しょうか。
私が逆に、シンタローさんにお尋ねしたいのは、
当面の参議院選挙では「自民もダメだが民主もノーだ」という党指導部の選挙 方針を尊重し、消極的ながらもできる範囲の選挙活動をおこなうつもりである。とあなたがおっしゃる以上、7月選挙に向けたあなたの実際の活動の中で、 日本共産党の周辺にいる人たちや、職場・地域の隣人たちは、日本共産党の主張 に目に見えて共感を示すようになっているのか、ということです。
たしかに、「赤旗」紙上などを見ると、読者数が前進しているようですが、そ れは、ごく近くにいて昨年の選挙で「民主党に浮気をした」人たちが戻ってきて いる程度に止まっているのではないか、という疑いを私は禁じえません。フランス文学者の故・新村猛氏は、『日本共産党への手紙』(松岡英夫・ 有田芳生編、1990年6月30日初版・教育資料出版会刊)の中で、次のように言葉 を締め括られています。
いちばん誠実に熱心に行動するのが共産党だと分かれば、支持と信頼は高まる と思う。それが不十分なままに勢力を大きくしようと急ぎ過ぎているのではない でしょうか。一九三六年にフラションが「行動の統一」を言ったとき、パリの街 角では少年が路上に「行動の統一」、行動の統一(太字は原文では傍 点)と白墨で書いていました。その一方で、この年の秋、ソ連でいわゆるスター リン憲法が制定されたとき、モスクワでは<党員と非党員とのスターリン的統一 戦線万歳>というプラカードが現われました。同調者を自分たちの周りに集める のが統一戦線ではありません――このことを日本共産党にも真剣に考えてもらいた いと長いあいだ思ってきたのです。(同書123頁)いま、日本共産党の「先見の明」を言い立てて、「たしかな野党」性を強 調するのではなく、鳩山政権の挫折を教訓として、民主党菅新政権を「草の根」 からどのように揺り動かし、「国民本位の政治」へとシフトさせて行くかを、真 剣に議論するときではないでしょうか。二十年前の新村氏の言葉は、それを痛切 に訴えているのではないでしょうか。(6月7日)