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「現状分析と対抗戦略」討論欄

また「やってしまった」観がある小池氏の擁立

2011/2/6 樹々の緑

 「革新都政をつくる会」が、4月の都知事選に日本共産党政策委員長・前 参議院議員の小池晃氏を擁立することを決めた。小池氏も「光栄なことだ」と前 向きの姿勢だから、これで候補者が一人決まると予測される。

 この報道は、朝日新聞の2月3日付朝刊で見たが、同日付の赤旗日刊紙に は、何ら報道がなかった。自党の重要幹部が候補者として擁立されるというの に、これは不可解な話だ。「息を潜めて世間の反応を探っている」としか思えな い。

 1月28日のいわゆる「日の丸君が代強制予防訴訟」控訴審判決は、裁判長 が定年退官後の代読判決であったにも拘らず(というのは、定年退官するなら 「以後の出世に響かないように」などとビクビクする必要がないので、「最後っ 屁」でまともな判決を書くこともできたはずだという発想があるからだが)、差 し止め・確認については訴訟判決で門前払い、慰謝料請求は棄却、「10・23 通達」は合憲という、およそ考えられる中で最悪の判決となった。しかし、司法 は基本的に過去の事実の適法性を争う場だから、問題の根源は、その「過去の事 実」を作り出した張本人は誰か、というところにある。それは、他ならぬ石原慎 太郎都政だ。

 前回の都知事選で、吉田万三候補をいち早く擁立し、後から立った浅野史 郎候補に数々の悪罵を投げつけて惨めな得票に終った「革新都政をつくる会」 は、基本的には団体加盟の「統一戦線」組織だ。その「統一戦線」組織が、「最 悪の判決の基礎となった事実」を作り出した・超反動石原都政を、都民の良識を 結集し力を合わせて終らせよう、と広範な都民に向けて直接かつ強力に呼びかけ た、という記憶がない。前回の惨敗からの教訓を、この「統一戦線」組織がまと もに受け止めているとは、到底思われないのである。

 もっとも、「革新論壇」で人気が高い某大学名誉教授のように、「現在は 統一戦線を云々できる情勢にはない」と考えるのであれば、名ばかりの「統一戦 線」組織であろうがなかろうが、ひたすら「正しいと信じるわが道を行く」こと になろうから、「広範な都民の力を合わせて反動都政を終らせよう」と呼びかけ る行動に関心を示さないのも、当然だということになる。「団体加盟の『統一戦 線』組織」を統一戦線の基本的形態だと考えるのであれば、それらしき政治勢力 を見回して、「この指止まれ!」と言ってみたところで大した勢力が集まりそう にもないから、「統一戦線を云々する情勢にない」という評価に落ち着くのも頷 けるところだ。

 国民は、一昨年晩夏の総選挙で、意識的に「政権交代」を選択した。日本 共産党もそれを「新しい過渡期の情勢」だと受け止めたはずである。もちろん、 その政権交代は、小選挙区制という歪んだ選挙制度の基盤の上に達成されたもの だから、議席数の差で見るほど政権基盤は盤石なものではない。しかし、国民の 政治変化への期待が、民主党への政権交代に託されたという底流での傾向は、別 に東京都民であっても変るところはない。4年前の都知事選の結果だけを見て、 「東京都民はどうなっているのか」と訝しく思うなら、その3か月後の参院選結 果を見るとよい。一昨年につながる政治傾向が、はっきりと見て取れるはずであ る。むしろ都民は、2007年参院選において、その3か月前、「都政における 政権交代」を目ざす広範な都民の結集に背を向けた日本共産党に厳しくお灸を据 えていることも、同時に分かるはずである。

 一昨年晩夏に国民の期待を託された民主党政権が、その後どのような腰砕 けを続けているかは、見ての通りである。普天間の問題で、菅政権が最初から 「鳩山時代の日米合意尊重」の姿勢に終始してしまったのは、この問題が対米従 属の根幹に関わる問題だからであり、安保体制の核心的な利益、(日本共産党の 61年綱領流にいえば)権力問題に直結するからだろう。「官僚支配の打破」ど ころか、結局官僚のオルグ攻勢に後退に継ぐ後退を重ねているのは、日本の権力 機構が、いかに対米従属構造を骨絡みで持っているかを示しているとは言えない か。小澤氏の政治資金捻出手腕が、自民党田中派的な胡散臭い錬金術であったと しても、彼がこれだけ執拗に潰されようとしている背景には、米日権力支配者の 意向においそれと従わないキャラクターが原因にある、と考えざるをえないので はないか。

 このように、相手が権力を握っており、強大な力を持っているからこそ、 それに立ち向かうためには、力を最大限結集することに尽力しなければならなく なる。そんなことは、政治理論としていまさら教えられることではないはずだ。 政権交代以後の政治的経験も、民衆のための政治を本当に実現しようとするなら ば、これに歯向う勢力と必死のたたかいを展開しなければならず、庶民の力を可 能な限り結集しなければならないことを教えている。問題は、「強大な相手に立 ち向かうために、力を最大限結集する」上で、「革新上げ潮の時代」に形成され た「統一戦線組織」の形態や観念を墨守していてよいのか、というところにある ような気がしてならない。1960年代後半~1970年代にかけてとは異な り、個別課題を掲げたNGOやNPOが遍く市民社会に簇生している今日、「民 主団体」や「民主的労働組合」を「広範に結集」するだけで本当に足りるのか。 「政治的に正しい主張を堂々と掲げて、淡々とわが道を行く」という姿勢の「自 己満足」性こそが、この間繰り返し問われているのではなかったか。

 その基本的な視点を抜き去って、目前の都知事選の情勢を見るならば、 「またか…」という都民の失望も感知できないだろうし、失望した結果であるの に、「小池氏支持にまわらない都民は、ファシズムの『心脳コントロール』を受 けている」という、一面的な評価にも陥ってしまうのではないだろうか。そし て、今回「時間切れ」になって小池氏に白羽の矢が立ったというのも、そういう 姿勢にウンザリしたあれこれの「候補者候補」から、水面下で出馬要請を固辞さ れ続けた結果なのではないか、というのは、穿ち過ぎた見方であろうか。(2月 6日)