山本義隆氏は、全共闘運動の頂点にまつりあげられた。私は、全共闘に疑問と懸念をもっていた。全共闘そのものについてというよりは、山本氏は、大学院を中退して、長年予備校教師として、一切の政治的沈黙を保っていた。山本氏が、物理学研究によって毎日出版文化賞を受賞した新聞記事を読んだ頃に、彼の物理学研究の学問的姿勢とその後の研鑽は本物だと思った。
その山本氏が福島原発事故について、学年的研究と政治社会的視点とから、問題点の所在と解決について縦横無尽に語っているようである。氏が述べたこの書物は、機会を見て購読するつもりである。先立つ団塊の世代である山本義隆氏のご活躍を、ポスト団塊世代としても願うものである。それは政治的に全共闘運動を称揚することとは全く異なる。
みすず書房から今年8月25日に出版された『福島原発事故をめぐって ~いくつか学び考えたこと~』について、メーリングリストでその論評を読み、取捨省略して以下に記したい。なお、技術を「生産実践における客観的法則の意識適用」として以下の評者は記している。同じく技術を「労働手段の体系」ととらえる立場からは異論もあろう。また科学革命や技術革命を、科学=技術革命として発展的に捉える立場からは、科学技術自体にひそむ人間疎外の結果とする視点も異論があろう。だが、山本氏がなによりも日本における原子力発電所の政治経済的な視点から問題点をえぐり出そうとした労作であることについては、賛同を得られるのではないか。山本義隆氏の著作を知る上で、ひとつの参考となろう。
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著者の山本義隆氏(1941年生)は、東京大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院博士課程中退。素粒子論専攻。京都大学湯川秀樹研究室に国内留学し、物理学者として将来を嘱望される。東大全共闘議長として学生運動後大学を去る。駿台予備校で出講する傍ら、熱学・熱力学・力学を中心とする自然科学技術思想史を研究。『磁力と重力の発見』全3巻で第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞。
原子核物理学や原子炉をよく知らない人でも、福島原発事故の本質が何かを深く理解できる平易な文体の好著。原発推進派は言うまでもなく、反・脱原発を訴える側にも欠落している視点を鋭く提起している。
福島の事態は「単なる技術的欠陥や組織的不備に起因するものではない。政権党(自民党)有力政治家とエリート官僚の主導により、札束の力で地元の反対を押しつぶし、地域社会の共同性を破壊し、遮二無二原発建設を推進してきた」「原子力の平和利用はマンハッタン計画の延長線上にある。第二次大戦後の冷戦下の米ソ核実験競争激化で、核エネルギーの軍事及び平和利用を独占的保持し、その機密保持の基本方針が、ソ連の水爆成功と原子炉プラントを東側諸国への輸出という事態に直面し、危機感を深めた米国は、それまでの方針を一転させ、西側同盟諸国に、ある程度の核技術公開と、民生用開放へと外交政策を転換させた。」その象徴がアイゼンハワーの国連演説《原子力の平和利用 Atoms for Peace》であった。
核技術維持とその不断の更新、技術者養成を民間メーカーと電力会社に請け負わせつつ、原発プラントと濃縮ウランの外国販売を通じ、米国の核産業にとってグローバルな市場開拓を進めようとする、米国政府と米国金融資本の狙いがあった。わが国の1954年の原子力予算提出と、翌1955年の中曽根康弘の原子力基本法成立のホンネは、「将来のエネルギー需要に原発で対処するというより、産業規模で核技術を当面確保しつつ、核技術を保持することで、いつでも核兵器を作れる核兵器の潜在的保有国に日本をすることで、大国化への道も確保することにあった」と、著者は明快に指摘する。
この指摘が山本氏の一方的な憶測ではないことは、岸信介(元総理)自身の回顧録や講演録、防衛庁技術研究所技官兼防衛研修所教官新妻清一氏の著書(1958年刊)、外務省外交政策企画委員会の「わが国の外交政策大綱」(1969年)、外務省幹部の談話(1992年11月29日付朝日新聞記事)、民主党クリントン政権下での「わが国の下北半島も含む再処理工場建設は核武装化を強く懸念する」との1993年米国下院本会議決議など‥‥日本の国家権力側の豊富な証言や資料からも明らか。
科学史研究者山本氏の面目躍如の感は、第三章「科学技術幻想とその破綻」である。福島原発事故原因を、原子炉の運転操作や技術運用の瑕疵の指摘のみに留めず、16世紀以降から現代に至るまでの科学理論と科学技術の相互の展開過程にまで遡って分析する視点は、3・11福島原発事故の発生以降、発表された夥しい評論には欠落している鋭い視点が提起されている。
現代の科学技術は「客観的法則として表される科学理論を生産実践に意識的に適用させる」という形で巨大な力を有している。しかし、17世紀以前までのヨーロッパでは「技術は自然に劣る不完全な、まがいもの」と認識されていたのである。だが、ルネッサンス期を境に、人間は「デーモン(悪魔)に頼ることなく、自然法則に従うことで、自然の秘められた力を使役しうる可能性を公然と語り始める」「16世紀文化革命」の時期を迎えた。山本氏の言うこの「16世紀文化革命」は、17世紀に入ると、一段と深化を遂げた。ケプラー、コペルニクスを経て、ガリレオの実験思想、デカルトの機械論、ニュートンの力概念による機械論の更なる拡張、それ以前までの「悪魔的文脈で語られていた自然の力」から、ベーコンの自然支配思想を背景とした脱却、自然の力の数学的把握、近代科学技術の自然からの開放と独立が飛躍的に進んだ。同時にそれと引き替える形で「近代科学は、おのれの力を過信し、自然に対する畏怖の念を忘れ去っていく」ことになった。
だが、この17世紀の段階でも、科学理論に基礎づけられ、科学的に導かれた技術は未だ誕生していなかった。18世紀後半のJ・ワットの蒸気機関改良と大規模実用化に突入した時でさえ「技術が先行し理論は後追いしていた」のだ。高温水蒸気を動力に変換し得るという現象の発見とその「技術的応用がまず先行して、そうした科学技術に熱力学理論が追いついたのは19世紀の中葉が過ぎた頃から」であった。
水力・太陽熱・風力・蒸気力いずれであれ、人間の経験と五感を通じた感知可能な現象や観察と、それを応用した「技術がまず先行しており、その後を追いかけ、追いつく形で科学理論が成立し発展し深化してきた。」こうした科学技術と理論の形成過程は、しかし、原子核エネルギーの場合は当てはまらない。最初に「純粋理論的に原子核物理学理論として導かれ、展開され、実験室での理想化された実験によって、個々の原子核レベルで確認された原子核物理学理論という最先端の科学理論がまず先行し」、「そのあとから、その理論成果を工業規模に拡大させ、前人未踏の原子爆弾という技術が生み出された」のである。しかもその技術は、官軍産三位一体の強力な指導下に、大量の学者・技術者・労働者を総動員統合させた国家総動員的、超巨大科学技術であった。第二次世界戦下での国家統制事業的軍産活動という形で誕生した巨大科学技術体系であった。その産軍一体的性格は、戦後の「原子力の平和利用」の国策にも、濃厚に継承され反映している。
純粋核物理学理論の産軍一体の国家的超巨大科学技術への移転は、その「軍事的利用」であれ、「原子力の平和利用」であれ、両者は「紙一枚の相違さえない」と著者は明晰に喝破する。「原子力の平和利用」という衣の下から透けて見える核の軍事利用という鎧を見抜けなかった」(あるいは鎧と知りつつ故意に隠蔽し目をつぶった)湯川秀樹博士を始めとする、わが国の原子核物理学者の無能、無責任さが、現在の福島原発事故の悲劇を招いた。
3・11福島原発事を語る学者や技術者の圧倒的多数が、原発推進側にせよ、脱(又は反)原発側にせよ、技術的過失有無の吟味だけに論点を集中させている。そんな連中は単なる「科学屋」や「技術屋」ではあっても、山本氏のような広い視点と鮮明な思想、歴史観を持つ真の意味での「科学者」「技術者」には、ほど遠い。
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