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「現状分析と対抗戦略」討論欄

原発の今後を巡って―高額所得者氏の10月3日付け投稿に寄せて

2011/10/11 丸 楠夫

 10月3日付けで掲載された高額所得者氏の投稿「櫻井智志へ」はあくまで櫻井氏に宛てたものではありますが、その内容に一部、論争の当事者でないものにとっても見過ごせない部分が含まれていたので、その点に限って投稿させていただきたいと思います

1.
 まずはじめに、「使用済み核燃料廃棄技術の確立」が、「原発継続可動の中からしか生まれてこないと考え」ることが、明確な誤りであることを指摘しておきたいと思います。

 なぜなら、過去数十年にわたる「原発継続可動の中から」、すでに「使用済み核燃料」その他の放射性廃棄物は生み出されてしまっているからです。「使用済み核燃料廃棄技術の確立」に向けた研究・開発とは、現時点では存在しない仮定の存在相手の研究ではありません。研究材料となる「使用済み核燃料」その他の放射性廃棄物は、すでに今この時点で存在しているのです。それどころか今この瞬間にも生み出され続けているのです。
 危険極まりない「使用済み核燃料」その他の放射性廃棄物を、「廃棄技術の確立」もできないまま、にもかかわらずなおも積み増し続けることこそ、正気の沙汰ではありません。それとも高額所得者氏は、「使用済み核燃料廃棄技術の確立」には、今現に存在する量を上回る「使用済み核燃料」がどうしても必要である、と主張されるのでしょうか。そうであれば、その根拠を明確に示さなければなりません。
 もっとも、「使用済み核燃料廃棄技術の確立」も、原発継続可動の中からしか生まれてこないと考えます」というのは、高額所得者氏のケアレスミスであろうかとは思います(仮にそうでなかったとしたら稚拙極まりない詐術です)。そうであれば、高額所得者氏の名誉のためにも、「使用済み核燃料廃棄技術の確立」も、原発継続可動の中からしか生まれてこないと考えます」と言う発言は速やかに撤回、訂正されるよう強く求めます。

2.
 つぎに「原発技術の安全性の確立」も、「原発継続可動の中からしか生まれてこない」との考えについて。
 車や家電では、新商品と言うのは往々にして不具合が生じやすかったりします。当然商品化するまでの段階でメーカーもさまざまなテストはしているのでしょうが、実際に一般家庭において日常的に使われてみないと分からない部分がどうしてもあるのでしょう。新製品が広く普及していく段階では、そういった不具合を受けてメーカーが改善を施し、マイナーチェンジされたものが普及していくこともおおいようです。
そういったことは車や家電だけではなく、人の生き死にに直接関わってくるような分野、例えば医学においても、新しい薬や医療法について臨床試験というのはどうしても避けて通ることは出来ないようです。
 ですから一般論として、ある「技術の安全性の確立」は、その技術の「継続可動の中からしか生まれてこない」というのは正しい。
 しかしここで問題となるのは、「原発技術」を車や家電や臨床試験と同列に論じられるのか?論じてもよいのか?ということのはずです。
 「原発技術」が長時間広範囲におよぶ深刻な被害をもたらすような不具合を過去起こし、また、現在進行形で今も起こし続けていることは、高額所得者氏も認められるところでしょう。そうであるなら、高額所得者氏にはぜひとも答えていただきたい。

 <「原発技術の安全性の確立」(が将来において可能か不可能かの確認)のために、なぜ、そこまでの多大な犠牲(やそのリスク)を負う必要があるのか?>

 <「原発技術の安全性の確立」(が将来において可能か不可能かの確認)のために、なぜ、長時間広範囲におよぶ深刻な被害を過去もたらし、今も現にもたらし続けている原発の「継続可動」を今後も許容し続ける必要があるのか?>

 上記二点について答えることなく、<「原発継続可動」を行わない>という選択を回避する主張は、なんらの論理的整合性も持ち得ないでしょう。

3.
 高額所得者氏は、「将来的に安全な原発は不可能と言う人類的結論に達する」ことを原発放棄の条件に挙げられています。しかし、このような条件付けは不合理なものではないでしょうか。
 どのような技術についてであれ、(”現時点の”ではなく)「将来」における「不可能」性=”可能性”が”ない”ということを、「人類的結論に達する」と言いうるほどの確実性や異論の成立する余地のなさを満たして証明することなど、多くの場合で、無理難題を吹っかけるに等しいと言いうるのではないでしょうか。この基準に照らせば、いかなる技術であれ、たとえ現時点においてその不完全性ゆえにどれほど大きな弊害や惨状を引き起こしていようとも、将来において”不可能性が証明されない可能性”(が残っていること)を担保に、その存続をほとんど無制限に認めることになるでしょう。端的にいって、<水俣病の原因が「将来的に」も有機水銀”以外にない”と言う”可能性が”「人類的結論」とならない限り、これまでどおり有機水銀を垂れ流し続けます。>と言う悪質公害企業の論理と本質において変わりがあるとは思えません。
 有機水銀云々の私のたとえ話の出来不出来はともかく、原発を継続すべきか否か、の判断基準から、原発が過去起こし、今現に引き起こし続けている被害とその大きさ、誰の目にも明らかとなった技術としての未完成さとあまりに大きな危険性についてはまるっきり除外し、その一方で原発廃棄という選択肢に対してのみ、「将来的に安全な原発は不可能という人類的結論に達する」(場合)と言う高いハードルを課すことに一体どんな合理性があるのでしょうか?
 合理性がある、というのであればぜひそれを示していただきたい。それが出来ないのであればこのような基準は単なるご都合主義としか受け取られたとしても致し方ないでしょう。
 さて、高額所得者氏は、「自然エネルギー」が「採算ベースで安定的電力供給できるようになる」までの「数十年間」は「原発は継続すべきです。」とも主張されるています。
 ならば、仮に「自然エネルギー」が「採算ベースで安定的電力供給できるようになる」まえに、「将来的に安全な原発は不可能と言う人類的結論に達する」「そのときは」一体どうすべきとお考えなのでしょうか?
 これは単なる揚げ足取りや頭の体操ではなく、決定的局面において何を優先するかの原則の問題です。
 「採算ベースで安定的電力供給」することを犠牲にしてでも原発を「世界的最終的全面放棄すべきです」とおっしゃられるのでしょうか?
 「将来的に安全な原発は不可能と言う人類的結論に」目をつぶって「採算ベースで安定的電力供給できる」ことを優先されるのでしょうか?
 この点をあいまいにしたまま上記のような2つの基準を漫然と並べるのは、原発廃棄という選択肢に対してのみ、「将来的に安全な原発は不可能という人類的結論に達する」(場合)と言う高いハードルを課す態度とあいまって、高額所得者氏の主張の合理性を疑わせるものとなっています。

4・
 なぜ、自然エネルギーが採算ベースで安定的電力供給できるようになるまでの数十年間は「原発は継続すべき」なのか?その理由について高額所得者氏は一切言及していません。
 ただ、このような高額所得者氏の主張が成立するためには、少なくとも次に挙げる3つをすべて証明することが必要であると思います。

(1)「原発継続可動」によって今現に発生している深刻な被害、ならびに今後発生するかもしれない同様もしくはそれ以上の被害のリスクよりも、「採算ベースで安定的電力供給できる」ことがまず優先する。

(2)自然エネルギーが「採算ベースで安定的電力供給できるようになるには数十年の時間を要する」

(3)今後数十年間は原発の継続抜きで「採算ベースで安定的電力供給」を行うことは不可能である。

 (1)は、多分に倫理や価値判断をも含むであろう命題でもあるので今回は置きます。(2)は私に論じられるだけの知識がないので置きます。
 (3)について。そもそも今回の原発事故とそれによってもたらされた甚大な被害は、「採算ベースで安定的電力供給」を行っていく上での、原発の存在意義を揺るがす出来事でした。事故の影響、損害賠償や自己対策・放射能災害対策の費用も含めた「採算」「安定」が問い直されなければならないでしょう。
 しかし、それらの点は今回は置きます。
 2003年4月15日、東電管内の原発17基が全て停止しました。内部告発によって発覚した一連の原発配管ひび割れ隠蔽事件の影響によるものでした。その後7月下旬までに4基の原発が運転再開しましたが、それでもなお全国で27基、東電管内で13基の原発が停止していました。
 この間、「採算ベースで安定的電力供給」が不可能になる事態が、果たしてあったでしょうか?
 電力需要のピークは例年真夏の2週間ほどであり、さらにそれぞれの1日のうち午後の4時間ほどです。それも多くの企業が休業する盆休み前までのことであり、また土日を除く平日の話です。そこに合わせて発電所は作られているのです。もちろんそれは必要なことではありますが、逆に言えば、そのわずかな期間のピーク時の需要さえ抑えられれば、発電所の大幅な見直しにも可能性が開かれると言うことです(例えばピーク時の大口需要化向けの電気料を引き上げて、その引き上げ分を全額企業の節電対策のための補助金に当てるとか)。そもそも、今回の福島第一原発の事故を度外視するとしても、原発が「安定的電力供給」にそぐわないことは明らかです。原発はほんの些細な不具合(あるいは不具合の恐れでも)停まる、安全上停めなければならない。また正常に運転したらしたで出力調整が出来ない(やってやれないことはないけど炉が不安定になって非常に危険らしいです)、常に一定の出力で常に一定の電気を作るしか出来ない。ゆえにピーク時以外は出力調整可能な他の電源(水力・火力発電所)を抑えたり止めたりしている。しかも、原発を急に止めるときのための電力供給バックアップ体制としては維持しつつ。
 急に停まる(停めざるを得ない)は、融通は利かないは、他の電源は振り回すはで、原発依存度が高まれば高まるほど「安定的電力供給」からは遠ざかるのです。「採算ベース」で考えても効率的であると本当に言えるのでしょうか。
 つまり、「採算ベースで安定的電力供給」を行っていくと言う観点に立ったとしてても、(自然エネルギーが「採算ベースで安定的電力供給できるようになる」までの)「数十年間」もの長きにわたり、あらゆる犠牲を支払ってでも原発を継続稼動すると言う選択に妥当性があるとは思えません。そうであれば、ピーク時の電力需要を抑制しつつ、すでに「技術の安全性の確立」された水力、火力を活用し、可能な限り早期に全原発の廃炉へ向けて今すぐ動き出す選択こそが妥当な選択となるでしょう。
 もちろん大型開発工事を伴う既存の水力発電や、温室効果ガスを排出する火力発電に依存することにも、問題がないとはいえません。この点からも、自然エネルギーの普及は課題と言えます。しかしそれまでの間、水力・火力に依存するか原発を継続稼動するかの二択となれば、「採算ベースで安定的電力供給」と言う観点に立って、どちらを選択すべきかは明白ではないでしょうか。
 ましてや「将来的に安全な原発は不可能と言う人類的結論に達する」かを見極めるために地震列島、津浪列島である日本に、54基もの原発を建て並べておくことに「採算ベース」も含めて合理性はないでしょう。そういう見極めは、今後「数十年」は研究室の奥で行われるべきことではないでしょうか。